君を信じると決めた瞬間、世界はたくさんの色で彩られていると知った。(前編)
まだどこかぎこちない二人が、仲良くなる話。
甘めです。
結婚してからの孫姫の日々は、とても穏やかに過ぎていった。
初夜の約束通り、陸遜は庭に睡蓮の池を造り、桃の木を植えた。部屋に焚く香も孫姫が昔から使っていた物を揃えさせた。
そうして整えられていく孫姫の新しい世界。
桃の木を植えた時、陸遜は「来年には実がみのりますよ」と言った。
それはとても楽しみなことだと、孫姫は思った。
夫となった陸遜は、孫姫が懸念していたような恐ろしい男ではなかった。
仇の娘である孫姫のことを、それはそれは大切にしてくれている。
最初の頃は、陸遜と同じ室、同じ褥ということに慣れなかったが、陸遜は無理やり孫姫を抱こうとはしなかった。孫姫は陸遜に復讐されることを、乱暴されることを本当に怖がっていたので、とても安心した。だから二人はまだ本当の意味で夫婦ではないが、陸遜は孫姫にとても優しい。孫姫の他愛のない話も、陸遜はにこにこと聞いてくれる。
仕事でどこかへ遠出した時には必ず孫姫に土産を買ってきて、その土地がどんな場所だったのかを話してくれる。
後宮で生まれ育ち、外の世界を知らない孫姫にとって、陸遜の話はとても面白く興味深かった。
孫権の覚えめでたく多忙を極める陸遜と孫姫は、あまり一緒にいられなかったけれど。陸遜はたまに早く帰ってこれたときには必ず孫姫と夕餉を共にしたし、たまの休みの日には必ず二人で庭を散歩したり、月を眺めたりした。
そうして二人の距離は、ちょっとずつ、縮まっていった。
ある夜、孫姫は珍しく夜中に目を覚ました。
薄暗い褥の中で、ゆっくりと瞼を開ける。何か体に重みを感じ、見てみると、自分が陸遜に抱き締められていることに気付いた。
(…まあ…)
この時孫姫は、初めて陸遜の寝顔というものを目にする。
なにせ自分の夫は、孫姫が寝入ってから褥に入り、孫姫が目覚める頃にはとうに起床しているのだ。それは出仕の日も休みの日も変わらない。
それが陸遜の気遣いなのだということも、孫姫は知っている。
自分がまだどこか陸遜を怖がっているから、同じ褥で寝ることにまだ少しの抵抗を感じているから。
そんな陸遜は、自分を抱きしめ、とても幸せそうな顔で眠っている。
この男は眠っていると常より幼く見えるのね、と孫姫は思った。
陸遜は毎夜、こうして自分を抱き締めていたのだろうか。
それとも今夜、たまたまなのだろうか。
どちらにせよ、「嫌ではないわ」と孫姫は思った。
陸遜の腕の中にいることが、不思議と、嫌ではないと。
(…暖かくて気持ちいい…。まるで母上に、抱かれているみたい…)
そして孫姫は、ずっと昔に自分を抱いてくれた母の温もりを思い出しながら、再び眠りについた。
珍しいことは続くものである。
朝、いつもは孫姫を起こしに来る侍女が現れず、孫姫が自然に目を覚ますと、隣には陸遜がいた。
寝衣のまま、上半身だけを起こして何やら書簡を眺めている陸遜は目覚めた孫姫に気付くと、「おはようございます、姫」と微笑った。
「…どうしてお前がここにいるの…?」
「今日はお休みをいただいたのです、姫」
「ふぅん」
孫姫は呟いて、ふぁ、と小さなあくびを一つ。
「でもどうして着替えもせずここで書簡を読んでいるの? いつもはお休みの日でも早く起きているのに」
「ここで、姫がお目覚めになるのを待っておりました。お嫌でしたか?」
陸遜は書簡を閉じて、言う。
嫌ではないわ、と孫姫は応えた。
「ただ珍しいと思っただけよ」
瞼をこすりながら言う、孫姫の仕草が可愛らしくて、陸遜は笑みを零しながら「もうひとつ、珍しいことをしませんか?」と言った。
「珍しいこと?」
「はい。今日は二人で、遠乗りに出かけましょう」
「遠乗り?」
きょとん、と孫姫は首を傾げる。
「遠乗りってなに? なにをするの?」
「馬に乗って、遠くへ行くのですよ、姫。姫は馬に乗った事は?」
「ないわ。馬を…見たことはあるけれど…」
昔見た、叔父の愛馬を思い出し、孫姫は言う。
叔父の馬は真っ白な馬だった。小さな自分にとって、あの馬はとてもとても大きくて。
こんな大きな乗り物に乗る叔父も、とてもとても大きくてすごい人だと思った。
「私も馬に乗れるの?」
「ええ、もちろん」
「怖くはない? 痛くはない? 大丈夫かしら」
「大丈夫です。とても、楽しいですよ」
ふぅん、と孫姫は呟いて考えるそぶりを見せる。
とても楽しいと、陸遜は言った。
遠くへ行くのだとも。
「…行く」
「よかった。すぐに準備しましょう」
こくりと頷く孫姫に、陸遜はますます笑みを深めた。