ゆるりと迫るむなしさ糧に、ひとしれずに闇を飛べ。
心の闇を抱える曹丕と、彼に寄りそう少女のお話です。
『乱世の奸雄』と謳われた稀代の英雄、曹操。
彼の次男として誕生した曹丕は、妾腹でありながら父に嫡子として遇された兄・曹昂の影に隠れて寂しい少年時代を過ごしていた。
曹丕は物を言うのが苦手な少年であった。
闊達で賢く、大人達が目を見張るような曹昂が傍らに立つと、いっそうその物静かさが際立つ。
父である曹操も、大人しい性格の曹丕を「覇気が無い」と言って眉をしかめる。
官僚の多くが、曹昂を曹操の後継と目し持て囃す中で曹丕は静かに育った。
一度、曹操が幼い兄弟二人を戦勝の宴席に呼んだことがあった。
曹操は息子達に、詩を朗じてみせよと言う。
曹丕は、たまにしか会うことのできぬ父を前に、緊張しながらも懸命に詩を考えた。
幸いにも曹丕は、詩作が好きであった。物静かな分だけそれを補うように己の心を詩として形に残すことに夢中になった。また多くの時間を先人の著した詩を読むことに費やしていた曹丕は、その場で美しい春の詩を諳んじてみせた。
父に褒められたくて、とびきり美しい詩を朗じた。しかし父は眉一つ動かさず、「次は曹昂が朗じてみせよ」と言う。
曹昂は、拙くも父や将軍達の武勇を讃える詩を朗じた。
曹操は、曹昂の拙い詩を満面の笑みで褒めそやした。「曹昂の詩には技巧こそ無いが、その分率直に武勇を讃える心が詰まっている」という。
対して曹丕の詩には、「美しい言葉を羅列し技巧に凝っていても、そこにお前の心が無い」という。 確かに曹丕は、父に褒められたい一心で不相応な技巧を駆使し、ただただ「美しい」だけの詩を作ってしまった。
曹丕は己が身を恥じた。心を詩に表わす事を好みながら、心無い詩を作ってしまった。
しかし泣きたい思いで見上げた先に、父の眼差しは無かった。
父はもう、曹丕を見てはいなかった。
曹操の目に映るのはもはや兄、曹昂の姿のみ。
ああ自分は要らないのか、と曹丕は幼いながらに悟った。
曹操が欲する、理想的な後継者も愛しい息子も、それは全て兄である。
だから自分は要らないのだと、曹丕は泣いた。
しかし泣いても、父はやはり曹丕には一瞥もくれなかった。
あの宴席をきっかけに、曹操はいよいよ曹昂を後継者として扱うようになり、軍議や政治の場にも同席させるようになった。
しかし曹丕には会おうとしない。曹丕の母である正妻の宮に渡る時にも、曹丕の様子を尋ねることさえしなかった。
父と兄の姿を遠目に見つめるたびに、曹丕の胸にひたりとにじり寄る闇がある。
自分は兄のように父に愛されていない。いや、父は自分のことなどどうとも思っていない。
ならばいっそ、憎まれた方がましだ。空気のように無いものとして扱われるくらいなら、いっそ心に強く焼きつくほどに憎まれた方が…。
曹丕は知ってしまったのだ。父によって。憎しみよりも悲しい『無関心』を。
己の存在が好かれも憎まれもせず、何とも思われていない現実。
愛も情も始めから存在していないのなら、一体自分という存在にはどんな意味があるのか。
何故自分は生きているのだろう。
父にしてみれば死んでいるのと同じこと。なのに自分はいったい何故、そしていったい誰のために、生きていくのだろう。
心の闇は、時折風のようににじり寄っては曹丕の精神を苛んでいく。
しかし宛城で曹操が張繍の夜襲に遭ったとき、予想外の事態が起こる。
同席していた曹昂が、その身を挺して曹操を庇い、逃がしたのだ。
曹昂は最後まで曹操の息子として立派に父を助け、そして死んでいった。
父は怒り、悲しみ、変わり果てた曹昂の屍を抱いて号泣したという。
曹操の感情豊かな表情など見たことも無い曹丕は、その報せを聞いたとき独り嘲笑した。
愛とは残酷なものだ。
一方を涙が枯れるほど愛し、一方では一欠けらの関心も抱かない。
(兄も満足だろう。父に愛され、愛息子として相応しい最期を遂げたのだから。己を庇って死んだ兄を、父は忘れない。あれほど激しく愛され、そして死して後も愛され続ける…)
それでも曹丕は兄や父を憎いとは思わなかった。
いや。もはや彼等を愛することも憎むこともしないほど、曹丕の心は乾いていたのである。
だから父に後継者として指名されたときも、曹丕は喜びもせず拒みもせず、ただ「是」と応えた。
兄の代用品になることを求められても、怒る気持ちも憎む気持ちも、曹丕の砂漠のような心には生まれなかった。
「それでも子桓様は、曹公に選ばれたではありませんか。兄君が亡くなった後、後継者候補には子桓様の他に弟君の曹植様が有力だったと聞いています。でも曹公は、直々に貴方様を指名なされた」
曹丕の執務室に、凛とした少女の声が響く。
ゆったりと衣を寛がせ、優雅に書を紐解く曹丕の目前にいるのは、地味な官服を纏った小柄な人物。 男装しているが、少女である。曹丕の乳母の娘だ。
曹丕の教育係であった父に師事し、男顔負けの才を持つ少女を曹丕は側近として傍らに置いていた。そして自分の仕事を少女に押し付け、自分は書に目を通しながら少女の言葉をくっくっと笑う。
そもそもは、どうして曹丕が仕事もせずに怠けるのか、という話から始まったのだ。
「子桓様は曹公に期待されていたのでは? でなければ誰が後継者に指名しましょう」
「ああ、俺も一度はそのように希望を持ったこともある。だが現実は残酷だ」
曹丕は紐解いていた書をパタと閉じて、少女を見つめた。
女にしてはキツめの、凛とした眼差し。
この少女が他の女のように男に媚びることは一生無いだろう。曹丕はまたふっと笑った。
「父は俺に期待を掛けて後継者に指名したのではない。曹植を愛していたから、俺を後継者にしたのだ」
曹丕と同腹の弟、曹植は天才的な詩人である。
その才は、同じく天才的な文才を持つ父曹操に愛された。
「まさか、」
「事実だ。なにせ父が直々にそう告げたのだから。弟は繊細な性質だから、曹魏を背負っていく重圧に耐えられぬだろうと。それでは可哀相だから、子桓を選ぶと。それだけの話だ」
ここまで、とこのときはさすがの曹丕も憤った。
その話を父が母にしているのを偶然聞いたとき、曹丕の心にわずかに残っていた感情が叫んだ。
狂うほどの怒りを覚え、そして絶望した。
これほど。これほど自分は父にとってどうでもいい、所詮他の兄弟のための駒に過ぎぬのかと。
「そんな…」
そして絶望した曹丕は己の心が深い闇の深淵へ堕ちていったのを感じた。何かが歪み、壊れ、そして今の自分に成った。
「その時俺は決めたのだ」
幼い頃、心に芽生えた闇を曹丕は恐れた。
しかし時が経っても、その闇は、絶望と言う名のその闇は曹丕を苛み続ける。
ならば、
「どうあっても払えぬ絶望ならば、いっそこの身を委ねてしまおうと。もう誰に何を期待することを諦めようと」
心の闇と共に生きていくことを選んだ男は、ぞっとするほど美しい笑みを浮かべた。
少女は曹丕のそんな笑顔を見ると、悲しい気持ちでいっぱいになる。
確かに今はどこか歪み、気難しくなっている人だけれど。
本当は誰よりも繊細で、美しく、そして聡明な人なのに。
「…そんなんじゃ、仕事をしないいいわけにはなりませんよ」
少女は、苦笑して曹丕の顔を見上げた。
冷酷と恐れられる曹操の後継者。
でも本当は、戦場で刃を振るうより宮廷で権謀術数を駆使するより、こうして穏やかに詩書でも読んでいる方が合っているのかもしれない。この時だけは曹丕は、かつての物静かな少年に戻るような気がするから。
「期待することを諦めると言っただろう。俺はもう何に心を砕くこともやめたのだ。曹魏など、滅びるなら滅びてしまえばいい」
「子桓様!」
畏れもなく自分を嗜める少女に、曹丕はくっくっと楽しそうに笑う。
「でも、そうだな。お前が俺に願うなら、その分の執務はこなしてやろう。お前が曹魏を滅ぼしたくないと思うのなら、膨大な量の執務の中から曹魏を存続させるために重要なものだけを選び抜き、俺に渡せ。その分しか俺は執務をしないからな。全てはお前の差配次第だ。責任重大だな」
「はあっ!? 本気ですか?」
というか正気ですかと聞きたい。
「ああ、決めたぞ。曹魏が滅びるかしぶとく生き残るか、楽しみだな」
意地悪な笑みを浮かべる曹丕を前に、少女は前言撤回、と呟いた。
これからはばりばり執務をこなしてもらわねば。
「もう。こんな小娘にそんな重要な仕事をさせるなんて、正気の沙汰じゃありませんよ」
「なら俺は正気ではないのだろう。それに、まあお前はそこらの男より頭が良いからな。できなくはないはずだ」
「…うっ」
(どうしてそんな不意打ちのように褒めてくださるのよ…っ)
昔から、この人だけは自分が女ながらに勉学に励むことを嗤いもせず嗜めもせず厭いもしなかった。
そして見知らぬ男に嫁ぐより文官として働きたいという自分を、男として自分の側近に迎えてくれた。
当たり前のように自分を受け入れてくれている、この人だから。
「……わかりました。全力を尽します」
だから、たとえこの人がどんなに歪んでしまおうと、
「ああ」
自分だけは、離れることなくついてゆこう。
それが、虚しさを糧に闇の中を生きていくことを選んだ男と、
傍らに寄り添う少女の間で取り交わされた、秘め事。