そして、恋は走りだした。途中で加速したのは、執着の理由を知ったから。(前編)
陸遜が孫姫に一目惚れした時の話です。
前編は陸遜の友人、凌統視点です。
陸遜という男が誰かと恋に落ちることなんてことがあるんだろうかと、凌統は常々思っていた。
凌統はまだ年若い、少年といっても差し支えない年齢である。父親の凌操が孫権に仕える将軍で、彼もまた見習いとして出仕している。
一方の陸遜も、凌統より年は上だがまだ若い青年で、年が近いことから親しく付き合っている友人同士だ。
腹を割って話せる仲だからか、陸遜は凌統にはその本性を隠していなかった。
陸遜。彼は好意を持った者には親切だが、嫌いな人物には表面では穏やかに振舞う一方、陰でものすごく毒を吐く。さらに自分に敵対する人物には容赦なく智謀を駆使し、反撃する。
しかし多くの人間は、彼は清廉な好青年だと勘違いしている。なまじ端整な容姿だから皆騙されるのだ。
だが凌統は陸遜が嫌いなわけではなかった。陸遜は裏表があるがきっぱりしている。陰で毒を吐くのは本人を前にしていらぬ波風を立てぬためだし、その毒も相手の非を的確に突いて私利や主観を挟まぬから少しキツイ人物評のようなものだ。それに陸遜の裏表に関しては、凌統や仲間内には公然の性格だったので、そういう灰汁の強い性格も含めて陸遜として受け入れられている。
しかし凌統には、一つ疑問があった。
陸遜のような人間は、はたして恋をするのだろうか?
なにせ陸遜ときたら、凌統が年頃よろしく気になる女性や宮中で評判の女官や姫君の話題を口にしても、
「あの女官は衣の趣味が最悪」
「あの姫は鼻が曲がっているのじゃないか? 離れていても趣味の悪い香が匂ってくるので胸糞悪い」
「べたべたと触ってくるから欲求不満なのかと思った」
「その姫君の評判は父親が流させているものだ。目を覆うほどの不細工らしく、そうやって噂を流して人を惹きつけないと婿を取れないのさ」
と凌統が頭を抱えるほどの悪辣な言い様だ。
確かに凌統が口にした女性達は後々会ってみると本当に陸遜の言った通りだったけれど。
「なあ伯言。それじゃあアンタはだれか恋しいと思う女はいないのか?」
凌統は陸遜に尋ねた。
「アンタの言い様は、まるで女を嫌っているようだ。それじゃ恋もできないだろう?」
「失礼だな公績。僕にだって良いなあと思う相手はいるさ」
「え!? 本当に!? それはどこの誰なんだい!?」
凌統は身を乗り出してその相手のことを知りたがった。
陸遜は憮然とした面持ちで、
「そうだな…。女官の鈴玲殿とか…」
「鈴玲…?」
凌統ははて…? と首を傾げた。凌統の頭に廻る美人宮中女官達の誰にも、その名前は当てはまらない。
「ああ。身なりは清潔で品が良いし気は利くし、でしゃばらないし五月蝿くないし」
「ふうん…?」
「書簡はちゃんと期日中に届けてくれるし資料を見つけてくるのも早いし…」
あれ、ちょっと待てよ…。
鈴玲殿って、女官長じゃなかったか!?
齢50の!!
「……なあ伯言。それって女官として優秀で好ましいってだけだろう? もっとこう、その相手のことを想うと胸が切なくていっぱいになるとか、苦しくなるとか、相手の笑顔を見るとこっちも自然と笑みがこぼれるとか、贈り物をして気が惹きたいとか…、とにかくそういう気持ちになる相手はいないのかって聞いてるんだよ」
「何を言う。そんな相手を見るたびに動悸息切れなんて起していたら仕事にならないじゃないか」
この男は!!
恋の胸の高鳴りを、動悸息切れだと!?
「…お前、一度恋に落ちた方がいいよ。絶対人生変わるから」
「ふん。大きなお世話だ」
しかし彼は、後に本当に人生を変える恋に落ちることになるのである。