つまり。病み付きになるような恋には、君が必要だってこと。
諸葛孔明と黄月英のお話。
黄月英は諸葛孔明という男が大嫌いだった。
月英の父である黄承彦は、蜀でも有数の資産家で学者でもある。故に多くの書簡を所有しており、それを読みに来る学生も多い。
諸葛孔明もまた、そういった学生の一人だった。
しかし…、
「やあ月英さん。おはよう」
だらしなく―本人はこれが粋だと言っているが―着崩した衣、女のように垂らしたままの漆黒の髪、そしていつも誰とも知れぬ女の残り香をぷんぷんさせて、黄家に顔を出す男。
これが『臥龍』の異名を持つ天才だと言うのだから、笑ってしまう。
「もうとっくに陽は昇っています。ちっとも「お早う」じゃありません」
父の書庫に籠もって書簡を紐解いていた月英に、今訪ねてきたらしい孔明が声を掛ける。
「いやあ、月怜さんが中々離してくれなくて…」
あけすけも無く語るその女が、今日の残り香の持ち主なのだろう。
安っぽい香の薫り。甘ったるくって、吐き気がする。
「あらそうですか。ならずっとそちらにいればよかったのに」
月英はぷいっと孔明から顔を背けて、再び書簡に視線を落す。
「ううん、でもねえ。もう飽きちゃったしなあ」
ぴくっ。
「あ、貴方…、確か前もそう言って…」
呆れた。また別れたのか。
毎度毎度此処を訪れては、毎回毎回違う女の話をする孔明。
飽きっぽいにも程がある。
「女遊びも程ほどにしないと、いつか刺されますよ」
「そうかなあ…」
孔明は首を傾げて、そのまますっと月英の隣に立った。
一瞬、どきっとする。
と思ったら、彼は目の前の棚からすっと一つの書簡を手にした。
(な、なんだ…。そこの棚に用があったのね)
突然傍に寄られるからびっくりしてしまった。
「そうです。貴方は女の敵です」
「でも、皆合意の上で僕に構うんですよ?」
にへらっと笑う。その無邪気な笑顔が女達に好かれるのかもしれない。
私には癇に障るだけだけど、と月英は思った。
「それでも、貴方は不誠実です」
「うーん…」
気の無い返事をして、孔明は書簡にさっと目を通した。それだけで内容が頭に入るのだという。悔しいが、その優秀さだけは月英も認めている。
ひとしきり書簡に目を通した孔明は、ふと隣に立つ月英の見ている書簡に視線を寄越した。月英は小柄な少女なので、下を向けばすぐにその内容が目に入る。
「月英さんはもうそんな物まで読んでるんだ。偉いねえ」
くすっと笑う、その言い様が癇に障って月英はしゅるっと書簡を閉じた。
「別に。学びたいことがあるからやっているだけです」
子ども扱いしないで欲しい。
自分はもう十四なのだ。
「学びたいこと…か」
ふうんと呟いて、孔明は再び違う書簡を手に取った。それは少し離れた棚の物で、自然二人の距離も遠くなる。
しかし、月英がほっとしたのも束の間、何故か孔明は再び月英の傍に寄り添う。
むっとして月英が少し離れても、すすと近寄ってくる。なんなんだ、この男。
「月英さんは、いつも薬草の匂いがするね」
突然言われてぎょっとして見上げると、孔明がにっこりと微笑んでいた。
「わ、悪かったですね。香の一つも焚き染めないで…」
香は年頃の女性のたしなみだ。しかし、月英にとっては邪魔でしかない。
薬草の調合の際、香の匂いは妨げになる。だから、月英は孔明が相手する女達のような甘い香りも纏ってはいない。
「でも、ほっとする」
「…はあ?」
孔明の言葉に、月英は片眉を上げた。何を言っているのだこの男。
しばし孔明の顔を見つめる月英。しかしはっと思い立って、納得する。
(そういえば、さっき取り込んだあの薬草には鎮静作用があったのだわ)
あの薬草の香りが残っていたのだろうと、月英は思った。
(そうだわ。あの薬草を盛ってやればこの人も少しは大人しくなるかしら)
そうしたら少しはこの界隈も平和になるだろう。何せ孔明ときたら、学生のくせに女遊び以外にもあちこちの喧嘩騒ぎを引っ掻き回すのが趣味なのだ。
「あとでお茶をご用意します。よろしかったらどうぞ」
あの薬草は煎じて茶にするのが良い。
「本当? 嬉しいなあ」
鎮静作用のある薬草茶とも知らず、孔明は無邪気に喜ぶ。
たかがお茶なのに、と月英は思った。
その後、月英は机に向かって書き物を始めた。何故か孔明も向かい側に座って書簡を読み始めたが、この頃にはもう気にしないことにした。
孔明の行動一つ一つに驚いていては、身がもたない。
「ねえ月英さん」
ふいに、孔明が口を開いた。
「なんです?」
「僕考えたんだけど…」
どうせ碌なことではないだろう、と月英は適当に相槌を打つ。
「はあ」
「僕が女性達と長続きしないのは、どうも本気になれないからだと思うんだよねえ」
「ああそうですか」
それを相手の女性達が知ったら、きっとコイツ殺されるな。
「ならやめればいいじゃないですか」
「でもねえ、僕は恋をしていたいんだよねえ」
「はあ」
こいつ死ねばいいんじゃないかと、月英は一瞬殺意を覚えた。
「で、僕はすごいことに気付きました」
まるで世紀の大発見を告げるように、真面目な顔で言う。
「ああそうですか」
「離れたくないくらい、離れられないくらい、大好きで大好きでしょうがない人と恋をすればいいんだよね」
「ああそうですね」
何を今更言ってんだコイツ。世の正常な恋人達は、ちゃんとそういう相手と恋愛をしているのに。
「だから月英さん。僕に恋してください」
「…………は?」
「だーかーら、月英さんが僕に恋してくれればいいの。そうしたら万事解決」
ね、僕スゴイでしょと微笑う目の前の男に、月英は本気で眩暈を覚えた。
「……仰っていることの意味がわかりかねるのですが」
「えー、わからない? つまり、」
孔明がふっと身を乗り出す。そして、不機嫌そうに自分を見つめていた少女の手を取ると、
「!?」
掠め取るように、その唇を奪った。
「つまり。病み付きになるような恋には、君が必要だってこと」
いやあ孔明さんダメ人間ですね! 最初に三国志を書こうと思ったとき、孔明さんはとりあえずダメ人間にしよう月英さんいないと人としてどうよな人にしようと考えていたので、満足です。
諸葛孔明は稀代の天才。天才って言うと、私的には何かに突出している分何か欠けている物がある、というイメージがありまして。だからこの三国志シリーズで書く孔明さんは、こんな感じにしようと思いました。
ちなみにこの後、孔明さんは月英さんに殴られます。(え)
この時点で月英さんはまだ孔明さんに好意を抱いていないので、まだくっつきません。ちなみに孔明さんは、月英さんに結構前から好意を抱いていましたが、その上で他の女と遊んでいた人です。恋心は恋心。でも女遊びもする、と。
さらに作中では書きませんでしたが、遊び相手の「月怜」さん。彼女は名前の音が月英さんと似ているので相手に選んだという。
なんだかんだでこの二人の話が一番好きです。