僕は君と君の世界を守ります。そんな僕を一生のお供にいかがですか。(3)
一方、この婚儀のもう一人の主役である陸遜は、しばらく祝いに来た客人達の相手をしていたが、いいかげん新妻の元へ行って来いという温かい野次に押されて、寝室へ向かう回廊を渡っていた。
第一夫人として迎えた孫家の姫君は、体の調子が優れないというので先に部屋に案内させている。今は一人、夫である自分を待っているだろう。
だが、
(姫は…、この婚姻を嫌がっておられるのだろうな…)
陸遜は、そう心中で呟いた。
輿から孫姫を抱き降ろしたとき、その華奢な身体がびくっと強張った。
後宮の中で大事に慈しまれ、会う異性といったら叔父である孫権や限られた縁者のみだったというのだから、会ったこともない男の元に嫁ぐ我が身を嘆くのも無理は無い。
それでも、陸遜は厭うことなく孫姫を妻に迎えようと思った。
時間がかかっても良い。精一杯、姫君のことを大切にしようとも思っていた。
孫姫は知らないだろうが、陸遜は孫姫と面識がある。いや、垣間見たことがあると言った方が正しいだろう。
孫権からこの縁談が打診される以前、陸孫は宮殿での酒宴の折、一度だけ孫姫の姿を見かけた。
叔父である孫権に請われて酒宴に顔を出したものの、御簾越しに酒宴を眺めるのに飽いたようで、孫姫はひっそりとした夜の庭に出て、月を見つめていた。
人気の無い、静かな庭だった。ただ風に揺れる木と燈籠と、月を見上げる美しい姫の姿だけがあった。
その時陸遜は、恋をした。そしていつかこの姫を得たいと、そう思ったのである。
「姫、私です。入りますよ」
陸遜はそう声をかけて、自分と孫姫の寝室に足を踏み入れた。
寝室の奥には、立派な拵えの大きな寝台が置かれている。その上、今は開けられた帳の中に、こんもりと布が盛り上がっていた。
まるで隠れ鬼をしている子供のようだった。
(…ぷっ)
陸遜は噴出しそうになるのを堪えて、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「…体の具合はどうですか? 姫」
すると、陸遜の言葉に反応し、掛布の中の孫姫が布を被ったままこちらに頭を向けた。
そして、そろそろとわずかばかり布を上げて、陸遜の方を伺い見る。
その、警戒心をありありと滲ませる眼差しといい仕草といい、まるでこちらを威嚇する子猫のようだと陸遜は思った。
自然、笑みが零れる。
「姫、お傍へ行ってもよろしいですか?」
「!?」
孫姫の体がびくっと震えた。返事を待たず陸遜が一歩近付くと、それこそ猫が毛を逆立たせるようにフシャーッと体全体で威嚇し、さらに強い眼差しで陸遜を見据える。
このまま手を出そうものなら、爪で引っかかれそうな勢いだ。
陸遜は苦笑して、それ以上傍には寄らず、近くにある椅子を引き寄せて座った。
良く見れば孫姫の目は赤くなっており、泣いた跡がある。
近付かない代わりに、陸遜は孫姫を見つめた。
頑なに拒否されるのは悲しかったが、これまでの経緯を思えば無理も無いことだし、陸遜は自分でも気が長いほうだと思っているから、苦ではない。
それに、自分が姫に求めるのは無理強いをして得られる一時の快楽ではなく、姫の本心からの愛情だ。
やがて、陸遜に見つめられることに居心地を悪くした孫姫はのそりと起き上がった。相変わらず頭から布を被ったまま、ぎゅっと頑なにその布の端を握り締めて。
「おまえはなにがしたいの」
孫姫は、震える声で陸遜に問うた。
「おまえの父の、一族の復讐?」
それは歯に衣着せぬ、直球の問いだった。
「…いいえ。私の父や一族を滅ぼしたのは確かに姫の父君ですが、私はもう恨んでおりません。むしろ、一族と命運を共にするはずだった私を登用し、一族再興の機会を与えてくださった孫家には、感謝しています」
「うそよ。わたしなら自分の父や一族を殺されて、その怨みを忘れることなんてできないわ」
「確かに、幼い頃は先代を恨んだこともありました」
「……」
「けれど、姫。私には護るものがあったのです。生き残った家族、一族。当主として彼等を護るためには、何をすべきか。それはこの国を護ること。そしてこの国を護るためには、恨みを捨て、孫家に仕えることが一番の道でした」
だから孫家を恨む気持ちも、もちろん姫に復讐する気持ちも私にはありません、と陸遜は穏やかに言った。
「…でも…。…だって、一姫は言ったわ。おまえがわたしとの縁談を受け入れたのは、復讐のためよって。でなければ、誰が仇の娘を娶るものですかって、言ったわ」
一姫とは、孫権の長姫のことである。孫姫の従姉妹に当たるこの姫は、昔から父が娘の自分以上に孫姫を可愛がるのが妬ましく、孫姫にきつくあたるのだった。
「それは失礼ながら、一の姫様の妄想ですね」
陸遜は笑顔できっぱりと切り捨てた。孫姫に意地悪なことを言った一姫に、若干の恨み言を込めて。
陸遜の言い様に、孫姫はぽかんと口を開けた。孫権の娘である一姫のことをこうもきっぱりと切り捨てた人物は、初めてである。
「もう…そう…?」
「ええ、そうです。私はけして姫を無体には扱いません。できれば仲睦まじい夫婦になりたいと思っています」
「………なか…むつまじい…?」
「ええ。私は毎日姫の元へ帰ってくる。そうして姫が笑顔で迎えてくだされば、私はどんな激務にも耐えられると思うのです。そうして時間がある時は、二人で庭に出て散策しましょう。月の良い晩には二人でお月見をするのも楽しいでしょうね」
「お月見?」
「はい。姫はお月見はお好きですか?」
こくん、と孫姫は頷いた。
若者の言葉は、なんだかとても素敵なことのように聞えた。
(…この男は、わたしが宮が恋しいから、この部屋も庭も宮と同じようにしてと言ったら、してくれるかしら…?)
孫姫はぽつぽつと、自分の不安や要望を、陸遜に話し始めた。
かつてあの宮の中だけが、孫姫の世界の全てだったことも。だからそこから離れて違う場所に居ることが、心細いのだということも。
そう。最初から結婚が嫌だったわけではないの。
嫌だったのは、何よりも嫌だったのは生まれ育った世界とは違う世界で生きていくこと。
あの穏やかな楽園から、出ていかなければいけないこと。
「それが、いやだったの。おまえがいやなわけでは、なかったのだわ」
孫姫は、そっと布の端を握っていた手を離した。
被っていた布が、はらりと零れる。
若者は、ほっと安心するように、穏やかに微笑んだ。
「本当ですか? 姫」
「ええ。おまえはきらいではないわ」
「ありがとうございます、姫。姫が望まれるなら、この部屋には姫の宮と同じ香を焚きましょう。庭には睡蓮の池を造り、姫のお好きな桃の木を植えます。そうして、姫はここで新しい世界を作っていくのですよ」
「あたらしい…世界…」
考えたこともなかった。
でも。この場所で。
この男の傍で、あの宮で過ごした日々のように穏やかな日々が送れるのなら、
「改めて姫に申し上げます。私、陸伯言の妻になって下さい。私は姫と、姫の世界を守ります。そんな私を、一生のお供にいかがですか」
それはとても、とても素敵な事のように思えた。
僕は君と君の世界を守ります。そんな僕を一生のお供にいかがですか。