そしてきみはきみらしく。いつまでも僕をふりまわして。(前編)
『君を信じると~』の陸遜視点のお話です。
結婚してからの陸遜の毎日は、とても満ち足りた日々だった。
初夜の約束通り、陸遜は庭に睡蓮の池を造り、桃の木を植えた。部屋に焚く香も孫姫が昔から使っていた物を揃えさせた。
植えたばかりの桃の木を二人で見上げ、陸遜が「来年には実がみのりますよ」と言うと、孫姫はぱあっと顔を綻ばせる。
咲き初めの花が開いたような、愛らしい笑顔だった。
妻となった孫姫は、後宮育ちのせいか世間擦れのしていない、どこか幼さの残る姫君だった。
そして自分が陸遜の仇の娘である、ということを気にしてか、もしくは男というものに慣れていないせいか、その態度はまだぎこちなさを残している。
陸遜が近付くと、びくっと肩を震わせる。
それはまるで、こちらを威嚇する子猫のようで。
寂しいと思いつつも、可愛いと思ってしまう。
陸遜は無理やり孫姫を抱こうとはしなかった。
本当なら初夜の日に孫姫を抱いても良かった。孫姫も、覚悟はしていただろう。
だが、自分の欲望のままに孫姫を抱いてしまえば、彼女の体は手に入っても心は手に入らないような気がしたのだ。
今はまだ、傍にいられるだけでいい。ゆっくりと、彼女の自分に対する警戒心が薄れていくのを待とう、と。
その作戦が功を奏したのか、孫姫は次第に陸遜と、そして新しい生活に慣れてきたようだった。最近では、家に帰ると「あのね、」とその日にあったことを話してくれるようになった。
「今日、庭の睡蓮の上に緑の蛙がのっていたの。小さくて、可愛かったわ」
そんな他愛も無い話を自分にしてくれる孫姫に、陸遜は自然、笑顔になる。
その笑顔がもっと見たくて、陸遜は仕事でどこかへ遠出した時には必ず孫姫に土産を買ってくるようになった。なるべく彼女が見たことも無いような、珍しい物を。
そうすると、孫姫はいつもぱあっと目を輝かせ、「今度はどんなところへ行ったの?」と聞いてくる。そうして陸遜がその土地の話をしてやれば、彼女は好奇心のきらめく瞳でこちらを見つめてくれるのだ。
後宮で生まれ育ち、外を知らない孫姫にとって、陸遜の話はとても面白く興味深いのだろう。
最近ますます孫権の覚えめでたく多忙を極める陸遜は、あまり孫姫と一緒にいられなかったけれど。 陸遜はたまに早く帰ってこれたときには必ず孫姫と夕餉を共にしたし、たまの休みの日には必ず二人で庭を散歩したり、月を眺めたりした。
本当なら、もっとずっと傍にいたい。
もっと孫姫と話をしたい。もっと、その笑顔が見たい。
隣でほうっと月に見入る孫姫を見つめ、陸遜はそう思った。
そしてもっと色んなものを、見せてさしあげたい、と。
ある夜のこと。
執務に追われ、遅い時間に帰宅した陸遜は寝衣に着替えると、僅かな灯明だけが灯る寝室へと入る。その寝台の上には、ひと一人分の山が一つ。孫姫だ。
孫姫はいつも、猫のように背を丸めて眠る。
陸遜はそっと微笑を浮かべ、彼女の隣に入りこんだ。そして、その華奢な体をそっと後ろから抱きしめる。
腕の中に、愛しい人の確かな温もり。
それだけで、自分は満たされる。
陸遜が出仕してから目を覚ます孫姫は知らないだろう。
夫がこうして、毎晩自分を抱きしめていることを。
(…これだけは、許してほしい…)
まだ自分と一つ褥に寝ることに抵抗を感じているらしい孫姫に、無体な真似をするつもりはないけれど、せめて。
こうして抱きしめることだけは、許してほしい。
陸遜は毎夜、祈るような気持ちで彼女を抱いた。
翌朝。身に付いた習慣で早くに目を覚ました陸遜は、名残惜しげに孫姫を抱きしめていた腕を解く。
(…今日は一日、休みだったな…)
今日が久しぶりの休みであったことを思い出すと、さて今日はどう一日を過ごすかと考える。
そして傍らに眠る孫姫を見つめて、思った。
(…もう少し、こうしていたい…)
こうして朝の光の中で、孫姫の寝顔を見つめていたい。
陸遜はそう思って、彼にしては珍しく寝台の上でしばらく時を過ごすことにした。
(ああ、そうだ…。それでもし…)
孫姫が目を覚まして、いつまでも傍らにある自分を嫌がらないでくれたら。
もう一歩、二人の距離を縮めてみようと、そう思った。
しばらく時が過ぎ、ようやく孫姫が目を覚ます。
陸遜はずっと寝顔を見つめていたのを悟られぬよう、適当な書簡を紐解き眺めるふりをした。そして、目覚めた孫姫に「おはようございます、姫」と微笑いかける。
「…どうしてお前がここにいるの…?」
「今日はお休みをいただいたのです、姫」
「ふぅん」
孫姫は呟いて、ふぁ、と小さなあくびを一つ。
小さな口が開いて、とても可愛らしいと、陸遜は思った。
「でもどうして着替えもせずここで書簡を読んでいるの? いつもはお休みの日でも早く起きているのに」
「ここで、姫がお目覚めになるのを待っておりました。お嫌でしたか?」
陸遜は書簡を閉じて、言う。
どうか嫌がらないでほしいと、願いながら。
「嫌ではないわ」
そう、孫姫は応えた。
彼女は知らないだろう。その言葉が、どれだけ陸遜の胸に強く響いたか。
「ただ珍しいと思っただけよ」
瞼をこすりながら言う、孫姫の仕草が可愛らしくて、陸遜は笑みを零しながら「もうひとつ、珍しいことをしませんか?」と言う。
「珍しいこと?」
「はい。今日は二人で、遠乗りに出かけましょう」
「遠乗り?」
きょとん、と孫姫は首を傾げる。
「遠乗りってなに? なにをするの?」
「馬に乗って、遠くへ行くのですよ、姫。姫は馬に乗った事は?」
「ないわ。馬を…見たことはあるけれど…」
孫姫はどこか不安げだったが、それよりも好奇心の方が勝るようだった。
「私も馬に乗れるの?」
「ええ、もちろん」
「怖くはない? 痛くはない? 大丈夫かしら」
「大丈夫です。とても、楽しいですよ」
ふぅん、と孫姫は呟いて考えるそぶりを見せる。
とても楽しいですよと、陸遜は言った。
それが孫姫の心を掻き立てる。
そして、少し遠くへ行きましょう、と続けると、
「…行く」
孫姫はこくりと、頷いてくれた。
「よかった。すぐに準備しましょう」
もう一度こくりと頷く孫姫に、陸遜はますます笑みを深めた。
陸遜はこんな風に思っていたのです、というお話。
本当はもっと、孫姫の一挙一動に悶える彼を書こうと思ったのですが、あまりにキャラ崩壊はなはだしいため自重しました(笑)