君を信じると決めた瞬間、世界はたくさんの色で彩られていると知った。(後編)
二人で朝食をとり、侍女達が用意した衣に着替えて、二人は陸家を出た。
初めて目にする陸遜の馬は、優しい眼をした葦毛の馬で、孫姫はどこか陸遜に似ているわ、と思った。特にその眼が良く似ている。
妻がそんなことを考えているとは露知らず、先に騎乗した陸遜が孫姫を抱え上げ、自分の後ろに座らせる。
「いいですか、姫。その被りをとってはいけませんよ」
孫姫は頭に被せられた薄布越しに、こくりと頷く。
今日は日差しが強いので、真っ白い孫姫の肌が焼けてしまわぬようにとの侍女達の気遣いだ。
それに、と陸遜は心中で呟く。
(姫の花の顔を、誰にも見られたくない)
そんな、独占欲の表れでもあった。
馬はゆっくりと歩き出し、徐々に早足になっていく。
予想以上の振動に、孫姫は陸遜の背の衣をきゅっと握って耐えた。
やがて馬は都を抜け、平野を走る。
風の匂いが変わったと、孫姫は思った。
薄布越しではよく周りが見えない。取り外し、辺りを眺めようと思ったところで手綱を握る陸遜が言った。
「姫、少し速度を上げます。危険ですので、私にしがみついてください」
「えっ」
「…ハッ!」
孫姫が返事をするより早く、陸遜が馬に鞭を打つ。
「きゃっ」
とたん、馬はその速度を増した。今までの、比でなく。
「きゃああああああああっ」
孫姫は悲鳴を上げながら、陸遜の腰にぎゅっとしがみつく。
そうしなければ、振り落とされると、初めて馬に乗る孫姫にもよくわかっていた。
薄布が風に飛ばされていく。
しかしそんなことは気にならないくらい、怖かった。
「姫、顔を上げてください」
陸遜が言うが、孫姫は無理だと首を横に振った。
(…っ、こわいっ。落ちてしまうわ…っ)
「しっかりつかまっていれば大丈夫。怖くないですよ」
「…うーっ」
「大丈夫です。私を信じて」
信じてください、と言われ、ためらいながらも、孫姫は恐る恐る顔を上げた。
風がひゅうひゅうと吹き付ける。それに混じって、微かに甘い香りがした。
「…目を開けて」
ぎゅっと瞑っていた眼を、恐る恐る開く。するとそこにはとても美しい風景が広がっていた。
「…わあ…」
馬が駆けているのは、青々とした緑の野原。そして一面に、花々が咲き乱れている。
小さな真っ白い花。紫の花。青い花。
大きな赤い花。黄色い花。
甘い花の香りと、草の香りが胸一杯に飛び込んでくる。
そう思えば、なんだかこの早駆けも楽しいものに思えてきた。
花と草の中を、馬で駆けまわる。風がこそばゆいような、心地いいような。
「…楽しい…っ」
「…良かった」
ひとしきり野原を駆け回った後、陸遜はゆっくりと速度を落としていった。
そして手綱を引き、止まらせると、先に自分が降り、また抱きかかえるように孫姫を地に下ろした。
孫姫はほうっと、目の前の風景に見とれている。
それを満足そうに見つめ、陸遜が言った。
「この時期、ここは花でいっぱいになるのだそうです。姫にも、お見せしたいと思いまして」
「…きれい…」
「ええ、本当に」
「きれい。こんなにきれいなもの、見たことないわ」
ふらりと、孫姫は駆けだした。訳もなく、この場所を駆けてみたくなった。
しかし乗馬で疲れた体はあっけなく躓き、草はらに倒れ込んでしまう。
「姫!?」
陸遜が慌てて助け起こそうとするが、孫姫は鼻の頭に草の切れ端をつけたままむくりと起き上がって、「ふふふっ!」と笑いだした。
「草の上に寝転がったのは初めてよ。気持ちいい」
そのまま草の上に座り、孫姫は言う。
「馬もね、最初はとても怖かったの。でも、お前の言うとおり、顔を上げて、目を開けたら、怖くなくなったわ」
孫姫の指が、近くに咲いていた白い花をそっと撫でた。
どれもこれも、初めて目にする花ばかりだ。
今まで目にしてきた美しい花々とはまた違う、可憐で、でも逞しい野の花たち。
「ありがとう、陸遜」
私をここへ連れて来てくれて。
孫姫はそう言って、どこかはにかんだ笑みを見せた。
「どういたしまして、姫。喜んでいただけたようで、何よりです」
二人は日が傾くまで、この野原で遊んだ。
孫姫が摘んだ花を陸遜が器用に花冠に編み、それを見た孫姫が自分も覚えたいと言った。
陸遜が赤い花の蜜を舐めると、孫姫も見よう見まねで舐めてみた。
「甘い」
そう言って無邪気に笑う孫姫の鼻の頭に黄色い花粉がつき、それを見て陸遜が笑うと、ぷうと頬を膨らませ拗ねる。
苦笑した陸遜は近くにある草の葉を一枚取って、口元にあててピイと音を鳴らした。
すると孫姫は眼を丸くして「それはなに?」と先ほどの不機嫌はどこへやら、自分も真似して草の葉をとる。
「草笛です」
「草笛? 私にもできるかしら」
「お教えしましょう」
陸遜は丁寧に、孫姫に草笛のやり方を教えた。
不器用な孫姫は葉を破ってしまったり、音がなかなか出なかったりで苦戦したけれど、やっとピイと鳴った時には思わず陸遜に抱きついた。
「できた!」
「はい。とてもお上手です」
ぎゅっと、陸遜は孫姫を抱き締める。
とてもとても、愛しげに。
そして赤味を増した太陽が西に傾き始めたころ、たくさんの花を摘んだ二人はまた馬に乗って帰路についた。
はしゃぎつかれたのだろう孫姫が眠そうにしているので、落ちないよう、今度は自分の前に乗せて。後ろから小さな体を抱え込むように、手綱をとる。
「…ねえ陸遜」
「はい、姫」
「世界にはまだまだ、色んな物があるのね…」
どこか眠たげな孫姫の声が、耳に心地よく響く。
「わたし、もっともっと、見てみたいわ」
「はい」
「もっともっと、触ってみたいわ」
「はい」
「…また、こうして連れて行ってくれる…?」
振り返り、陸遜の顔を仰ぎみれば、彼はとても嬉しそうな顔で頷いていた。
「もちろんです、姫」
その言葉に安心して、孫姫は陸遜の腕の中、ゆっくりと眠りに落ちていった。
君を信じると決めた瞬間、世界はたくさんの色で彩られていると知った。
二人がキャッッキャウフフする話が書きたくなったのです。
陸遜視点でこの話を書いてみたらすごい萌えてそうだと思いながら書きました。