僕は君と君の世界を守ります。そんな僕を一生のお供にいかがですか。(1)
結婚したくない孫呉の姫君と、陸遜のお話です。
本当は結婚なんてしたくなかったわ、と孫姫は思った。
叶うことならずっと、叔父である孫権の後宮にある自分の宮で、静かに暮らしていたかった。自分には夫など必要ではなく、ただお母様がいてお気に入りの侍女がいて、時折叔父様が尋ねてきてくれればそれでいい、と思っていた。
孫姫は江東を統べる孫家の先代、孫策の忘れ形見である。孫姫が生まれたときには既に父は他界してしまっていたが、父の第一夫人であった母大喬は優しく自分を慈しんでくれたし、父の跡を継いだ叔父の孫権も自分の娘達以上に兄の忘れ形見である孫姫を可愛がってくれた。
孫呉の王、孫権を後見に持つ孫姫には、かつて江東の花と謡われた母譲りの美貌とその高い身分から、ひっきりなしに縁談が飛び込んでくる。孫姫はにべもなくそれを断り続け、また姪に甘い孫権もそんな孫姫を咎めることなく、彼女の思うようにさせていた。
孫姫が結婚したくないと思う、その理由は簡単である。
孫姫にとっての世界は、生まれたときから叔父の後宮の一角にある宮。それが全てだった。
叔父の寵妃達や姫達が住まう宮からは離れた、後宮の隅にある小さな宮である。訪れる者は少なかったが、綺麗な睡蓮の池がある。喧騒から離れた静けさも、季節ごとにひっそりと咲く花々も、時折桃を啄ばみに訪れる鳥達も、みんな孫姫のお気に入りだった。
自分に付いている侍女達は、孫権の娘達に付いている侍女達に比べれば少なかったが、孫姫は多くの人に囲まれるのは嫌いだったし、今いる人数で十分宮内のことは賄われた。むしろ、あんなにいっぱいの人にかしずかれているから従姉妹姫達はあんなに高飛車で意地悪なのだわ、と孫姫は思う。何度か孫姫の元にご機嫌伺いに来た従姉妹姫達は誰もかれも揃って孫姫の小さな宮や少ない侍女達のことを馬鹿にしたし、父のいない孫姫自身のことも軽んじていた。自分達の父の兄であり、先代である孫策の娘の孫姫のことを、だ。
とにかく孫姫の世界はこの小さな、でもとても美しく居心地のいい宮の中だけだった。孫姫はここから外へ出たいとは思わなかったし、考えもしなかった。
だから初めて縁談を持ち込まれて、
「それじゃあわたしの旦那様はこのお宮で一緒に暮らすのね」
と無邪気に言ったとき、侍女に
「いいえ姫様。姫様は結婚なされたら、旦那様のお屋敷で暮らすのですよ」
と言われて、倒れるかと思った。そして倒れた。
以来孫姫は、結婚=この宮を出て知らない場所で暮らすこと、と認識し、頑なに縁談を断り続けた。孫権も、まだ自分の手元にいたいという孫姫をいじらしく思って、無理に縁談を進めることはなかった。
だが、時を経て孫姫が年頃になると、いい加減そうも言っていられなくなった。
きっかけは孫権の宮廷で、一人の若者が台頭してきたことに始まる。
その若者は若年ながら優れた才能を持っており、いずれ孫権の政道を支えていくことになるだろうと期待されていたし、孫権自身も気に入っていた。事実、若者は政治では的確な献策を出し、戦場では着実に手柄を上げてくる。
都督である呂蒙も何かとその若者に目を掛けているようで、いずれ彼の後を継ぐのはその若者だろうと目されている。
だが若者には、一つの問題があった。若者が、先代孫策に滅ぼされた陸家の当主だということである。
陸家はその若者―陸遜の孫家への忠心と働きによって再興したが、孫家が陸遜にとって仇である事実は消えない。いずれ陸遜を重臣とするならば、もっと孫家との結びつきを強めねば、陸遜の人柄功績とは違うところで他の家臣達が反対するだろう。
そこで、孫権はこう考えた。孫家の姫君の誰かを陸遜の妻にすれば、陸遜は孫家の婿という、この上ない後見を得ることが出来る。
そして、孫権ははて誰にこの縁談を持っていこうかと考えた。
陸遜はいずれ重臣にと考えている有望株であるし、おまけに中々見目も良い。上の者からは可愛がられ、下の者からは慕われるという、人望厚い人柄でもある。これほどの婿はそうそういないだろうと思ったところで、孫権の脳裏に自分が実の娘以上に可愛がっている姪の顔が浮かんだ。
姪である孫姫は、自分が敬愛していた兄のたった一人の忘れ形見である。甘やかして育てたせいか少し我儘なところはあるが、純真で愛らしい。あの姫なら、陸遜と似合いの夫婦になるに違いない。それに、大切な姫の将来を考えると、夫として陸遜は申し分ない。
孫姫は今まで縁談をことごとく断ってきて、孫権もそれを了承してきたが、いずれ時が経ち嫁き遅れとなってしまっては亡き兄に申し訳が立たない。
というわけで孫権は、早速陸遜に打診して婚約を取り付けると、今度こそは嫌がる孫姫の言い分を無視してこの縁談を進めたのである。
家臣の一部には陸遜の出世を妬むものもあったが、それ以外の家臣達や大衆にとってはめでたい祝い事である。特に古くから孫家に仕える重臣達は、今は亡き孫策の忘れ形見のようやくの幸せを、心から喜んだ。