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海を運ぶ

作者: 茶ヤマ
掲載日:2026/07/19

シャチは哺乳類だけれども、サメは魚類だから、芸を教えるのは無理なのだそうだ。

だから「サメのサーカス」なんてものは、どこを探しても見当たらない。

もしあったとしても、客席から見れば、さっきまであちらを向いていたサメが、今は重々しくこちらを向いた、というくらいの変化しかないのだろう。


そう言われてみれば、コバンザメなんかは「ああ、魚だなあ」と当たり前に受け止めている。

けれど、ウバザメやジンベイザメといった巨大なものになると、私の頭のなかではなぜか、クジラやシャチと同じ「海の大きな生き物」の分類に、勝手に並べ替えてしまう。


シュモクザメの、あのユーモラスでどこか超然とした頭部も、どちらかといえばシャチの側に近い気がする。

一方で、近所の海にもいるドチザメなどは、私の中でサメの数に入れてもいなかった。


そんなことをぼんやり考えているうちに、私はいつの間にか、目の前のことから少し遠ざかっていた。


いま、私の部屋の、ちょうど目線の高さの空中に、半透明のサメがふわりと浮いている。


……この種類は、なんだったかな。

サメと聞いて誰もが真っ先に思い浮かべる、映画のスクリーンで獰猛に口を開けている……そう、ホホジロザメ。

けれど、目の前にいるのは、それにしては随分と小ぶりで、図書館に並んでいる百科事典くらいの大きさしかない。


さっきから、その半透明のサメとじっと目が合い続けているのだけれど、私の脳みそは驚くのを半分諦めたようで、代わりにサメの分類についてをのんびりと考えていたのだった。


サメは、尾ひれをゆるやかに、左右へ振っている。

その動きで前へ進むわけでもなく、ただ水の代わりにそこにある空気を、ゆっくりと、そっと。


「……ホホジロザメ、よね」


確認するように、そっと声をかけてみる。

サメは返事をしない。そもそも、口は小さく結ばれたままだ。


ただ、サメはほんの少しだけ、胸ひれを持ち上げた。

……笑った?

いや、サメの表情なんて分かりっこない。


けれど、サメに合わせて部屋のなかの空気が少し動いた気がした。


サメが尾ひれを揺らすたび、窓の閉まった部屋のなかで、麻のカーテンが優しく膨らんだ。

机の上の紙が、まるで見えない底潮に流されるように、静かに一センチほど移動する。


このサメは、とても自然に、当たり前に、空中をたゆとうている。

己の周囲の空間を、自分の生きられる場所として変えているのだろうなあ。

サメの目をみながら、私もゆっくりと頭を左右に揺らしてみる。


窓の向こうには空があるのに、サメは私の部屋の中ばかりをゆっくり泳いでいた。

その動きが、長く旅した人の背中のように思える。


ホホジロザメ。

海の中では恐れられる存在。

映画の中では、人間を追いかける影。


けれど、いまここにいるそれは、ただただ静かに、凪いだ水の中を行き巡っているだけだった。

その小さな黒い目には、長い時間を泳いできた生きものだけが持つような、説明のつかない疲れがあるように見えた。


「……寂しかったのかしら」


独り言のように、ぽつりと言ってみた。


サメは答えない。

ただ、ゆっくりとこちらへ向きを変えた。


試しに、机の上の消しゴムを指さしてみた。


「動かせる?」


お願いのような、問いかけのような声で言うと、サメは一度だけ尾びれを振った。

すると消しゴムは、ごく自然に浮かび上がった。

落ちることもなく、どこかへ飛んでいくこともなく。机の上が自分の居場所であったことすら忘れてしまったかのように、ぽっかりと宙に漂っている。


「……すごいね」


私は笑った。


これを「魔法」と呼ぶには、この部屋の空気はあまりに静かすぎる。

「奇跡」と呼ぶには、目の前の出来事はあまりに当たり前のように営まれている。


──ピンポーン。

玄関のチャイムが、現実の音を立てて鳴り響いた。

はっとして時計を見る。ちょうど宅配便の届く時間だった。


「ちょっと、待っていてね」


そう声をかけてから、私はサメに話しかけている自分がおかしくなった。

けれど、振り返った時、サメは少しだけ尾びれを揺らした。

まるで、了解したよ、とでも言うように。


荷物を受け取って部屋に戻るまで、ほんの一分足らずのことだった。


しかし、部屋のなかにはもう、あの小さなサメの姿はなかった。

宙にぽっかりと浮かんでいたはずの消しゴムは、いつの間にか机の上に、何事もなかったかのようにコロンと転がっている。

室中には、ただいつもの見慣れた家具が並んでいるだけ。


それでも、空気がまだ、ほんの少しだけ「海」の気配を孕んでいる。

見えないさざ波が、見えない水面をそっと撫でているような、心地よい湿り気。

私はしばらくの間、その透明な気流のなかに立ち尽くしていた。



翌朝、新聞の片隅に、本当に小さな記事を見つけた。


『市内数か所で原因不明の浮遊現象。局地的な気圧変化による突風の可能性も』


公園の芝生の上で、持ち主を離れたコンビニお弁当の箱がぽっかりと浮いている写真が添えられている。

記事は「写真だけ見ると、つむじ風で舞い上がった、とも取れるが……」と、少し困ったように結ばれていた。


私はそれを見て、口元を緩めた。


気圧のせいにしておけばいい。

風の悪戯ということにしておけばいい。

世界には、きちんと説明されないまま、そっとしておかれる領域が、きっと少しだけ必要なのだ。



……そんなふうに、新聞の隅の小さな騒ぎを愛おしく眺めていた日々が、穏やかに過ぎ去った。

外の世界がそんな不思議をすっかり忘れて、これ以上騒がれる心配がなくなったのを見計らったのだろうか。


数日後。

新聞には「浮遊現象、原因不明のまま終息」という、さらに小さな数行の記事が載った。

私はそれを読みながら、ふと窓の外を見る。


そこには、またあのホホジロザメがいた。

前より少しだけ小さくなり、半透明だった体は、朝の光に溶けかけていた。


「おかえり」


呼びかけても、やはりサメは答えない。

ただ、ゆっくりと尾ひれを動かした。

一度立ち寄った休憩所にまた訪れた、ただそんな感じで。


サメはこの部屋をゆっくりと回遊して、私の目の前に戻ってくる。

そうして、お茶を淹れる私を小さな黒い目で見ていた。


部屋のなかに、静かな流れが満ちていく。

窓から差し込む光が輪になって、ゆらりと揺れる。

沸かしたてのお湯をティーポットに注ぐと、湯気はなだらかな曲線を描き、茶葉はいつもと変わらない、よい香りを漂わせた。


多分、このサメはどこにいても、世界のどの場所に行っても、ただ、自分の中に海を持っているのだろう。


そして、今度もやはり、少し離れた隙にサメは消えていた。





それから、十日ほど経った朝のこと。

私の部屋の天井近くには、大量のエチゼンクラゲが幾重にも重なり合い、その半透明の傘が、朝の光をゆっくりと、穏やかにほどいていた。

私は、声をあげて笑った。


サメに芸を教えるのは難しい。

けれど海のほうは、案外、人懐っこいのかもしれない。




ー了ー

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