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戦国前夜・面倒くさい男たち

理解のあるお屋形様がいたせいで太田道灌が死ぬ話(江戸っ子タイプ)

作者: ながみ
掲載日:2026/06/14

 太田道灌は悩んでいました。


 道灌の上司の上司、上杉顕定のことでした。


 顕定が関東管領・山内上杉家の後継として越後からはるばる関東に来た時はまだ元服も済ませていない少年でした。ここから成長すれば、将軍の代理人たる関東管領です。いくらでも坂東の天下は取れると思っていました。


 しかし少年は意外と頑固でした。


 最初のうちは白井長尾景信ら関東の実力者に従っていました。しかし景信が死んだら顕定は後継者として景信の弟・忠景を指名しました。息子の景春を差し置いてです。


「そいつぁねえでしょうよ! 景春はちっとばかし器量が足りねえたって、景信殿の跡取りとしてここまで来たんでさァ。こんな人事ァ、あんまりってもんでえ!」


 道灌は必死で訴えました。しかし、白井の景春は道灌の親戚でもあったため顕定は「おめえ、さては身内びいきしてやがんな」と一蹴しました。


 道灌は諦めました。諦めて、迫り来る困難を予感しつつ、せめてお屋形様(顕定)を支えることに徹しようと思いました。


 景春は身内たる道灌を信用していました。

 だから、謀反の計画を立てたときも道灌に真っ先に告げてきました。


「おれを跡取りにしなかった顕定の野郎にゃ、きっちり思い知らせてやらにゃ気が済まねえ。だから顕定も兄貴の定昌も、ひとり残らずぶっ殺してやろうと思ってんでえ。道灌、おめえは余計な真似すんじゃねえぞ」


 道灌は焦りました。

 でも道灌は生粋の江戸っ子、義理と人情は絶対に忘れず、しかし忠義を第一として生きる男です。道灌は大急ぎで顕定に景春の暗殺計画を報告しました。

 するとなんということでしょう。顕定は、「ふうん。景春なんざ口ばっかりの野郎でえ、放っときゃいい。それよりおめえ、こんな時に景春と喧嘩なんぞおっ始めるんじゃねえぞ。さっさと手打ちにしやがれ」と言って、道灌に「景春と喧嘩ァいたしません」という誓紙まで出させたのでした。


「いけねえ。こいつぁいけねえ。何を考えてやがるのか、さっぱりわからねえ」


 道灌は混乱しました。訳が分からなすぎて自分の行動が間違っていたのかと自問自答しました。でも謀反を報告した行為が間違っているとはどうしても思えませんでした。


 結局景春は暗殺は実行できませんでした。そんな根性はないのです。景春は山内上杉家の家宰に復帰したいだけであって、顕定を暗殺なんかしたら復帰どころか殺され返されるだけです。仕方がないので景春は当時上杉家が陣を張っていた五十子の補給路を塞ぎました。これでは陣が持ちません。顕定は景春の軍勢をどうにかするとか取り立てるとか根本的な解決策は考えずに陣を放棄することにしました。かくして五十子陣は落ち、それを機に古河公方は上杉家に攻め入りました。太田道灌とその上司の上杉定正のおかげで公方勢を追い払いつつ上野国の白井陣で対峙することになりました。


 太田道灌はこの過程で思いました。


「お屋形様、いくさが弱え!!!!」


 そう、上杉顕定には致命的な弱点がありました。戦が信じられないほど弱かったのです。


 太田道灌はとにかく戦を顕定に任せてはいけないことだけはわかりました。弱いくせに、「錦の御旗を出して、いざ決戦でえ!」と奮い立つ顕定をなだめ続け、上野国(だいたい群馬県)の平野の奥深くである白井陣(正確には広馬場)で数か月が経過しました。


「お屋形様にゃ、金輪際いくさをさせちゃならねえ」


 道灌は白井陣の顕定に何度も陳状を出しました。


「兵法どおりにきっちりやりやすから、いくさはあっしに任せておくんなせえ」

「駄目でえ」


 却下でした。


 顕定はやる気満々でしたが、そんな折、にわかに雪が降り古河公方との決戦はなしになりました。古河公方の側から和睦の申し出があったのです。道灌は心底ほっとしました。白井という逃げ場のない陣取りをしてしまった以上、奇襲をかけて戦意を削ぐか何かしないと関東の上杉家は滅亡してしまうという危機感がありました。ただ、お屋形様にはその危機感は共有できなかったようです。


「嫌でえ。これからが大勝負だったってえのによ」


 和睦の申し出も拒否してきて道灌は「頼むから、ちったァ場の空気を読んでおくんなせえ……(ついでに、てめえの腕前もよく見直してくれ)」と大変しんどい思いをしました。道灌の親である道真と一緒に必死に説得……というか、顕定の陣所であった双林寺に半ば封じ込めるような形で顕定を抑えつけ、強引に和睦交渉を進めました。


 こうしてなんとか古河公方との敵対関係は解消しました。問題は長尾景春でした。景春は顕定がいる限り、家宰には復帰できません。絶対にわかり合えない以上戦うしかないのでした。


 景春は山内上杉に不満の国人を集めて鉢形城に籠もりました。


「お屋形様を出しゃあ負ける。こいつぁ間違いねえ。あっしがやるしかねえんでえ」


 道灌はひたすら働きました。

 鉢形城はあっという間に落ちました。道灌は奪い取った鉢形城に顕定を迎え入れました。


「お屋形様は鉢形城で錦の御旗ァ掲げて、どっしり構えていておくんなせえ」


 そして敵対した国人の懐柔、景春の細かい拠点を一つ一つ潰して遂には秩父に追い詰めました。秩父に追い詰めたところでなんとまた武蔵の平野部で景春派が蜂起しました。


「こいつぁまずい。二手に分かれてのいくさなんざ、きつすぎらあ」


 道灌は奥の手を使うことにしました。


「お屋形様、錦の御旗ァ、あっしに貸しておくんなせえ」

「はあ? 駄目に決まってんだろうが」


 orz


 顕定は追い打ちをかけました。


「おめえ、さては楽してえだけだな。天子様からお預かりしてる錦の御旗を、陪臣風情に貸せるわけがねえだろうが。べらぼうめ」


 ……。

 …………。


 もう駄目でえ。こいつぁきつすぎらぁ。


 道灌は起死回生を狙って……というかもうこれしか手段がないと思って、今までのことを長々と書状にしたためることにしました。


 そりゃあ、あっしだって筋道を外して動いちまったことが、ひとつやふたつはあったかもしれやせん。けどね、お屋形様、あっしはずっとお屋形様のために働いてきたんでさァ。手柄だって、これでもかってほど立ててきた。(お屋形様があんまりにもいくさ下手なもんだから)その尻拭いをみんな引き受けてきたのァ、この道灌でえ。あっしみてえな功臣を使わねえなんざ、天下の不祥ってもんじゃござんせんか。


 不遜と言われようとも、ここまで書かなければ通じない気がしたのです。これで切られるならそこまで……。


 道灌は祈るような気持ちで書状を手渡しました。世に言う『太田道灌状』です。


 そしたらなんということでしょう。


 顕定は道灌にこんな返書を寄越したのです。


「おれが悪かった。今度から、いくさのことァ何もかもおめえに任せるぜ。それから、おめえを取り立てねえおれが不祥ってんならよぉ、いずれこっそりおめえを引き抜くつもりだからよ、定正にはうまいこと言っといてくんな」


 道灌は正直、信じられない思いでした。何度書状を読み返しても、そこには確かに、


「おれが悪かった」


 と書いてあります。


 上杉顕定が。あの上杉顕定が。人の忠告を聞くたびに「身内びいきでえ」「楽してえだけだろ」「陪臣風情が偉そうな口きくんじゃねえ」と跳ね返してきた上杉顕定が、自分の非を認めていたのです。


「……こいつァ、夢じゃねえだろうな」


 道灌は書状を裏返しました。何も書いていません。


 もう一度表に返しました。やはり書いてあります……。


「おれが悪かった。今度から、いくさのことァ何もかもおめえに任せるぜ」


「お屋形様が……あっしの話を……わかってくだすった……?」

 道灌はその場に座り込みました。長い道のりでした。本当に長かったのです。景春の謀反を止めろと言えば、喧嘩をするなと誓紙を書かされ、五十子が落ちれば陣を捨て、白井では負ける気満々で決戦を挑もうとし、和睦を勧めれば嫌だと言い、錦の御旗を貸してくれと言えば楽をするなと言われました。


 それでも道灌は尽くしました。尽くして尽くして尽くし抜いて、ついに通じたのです。


「へへ……」


 道灌は笑いました。


「へへへへへ……」


 笑っているうちに、目から何かがこぼれ落ちました。


「なんでえ。あっしも焼きが回ったもんだ。こんなもんで泣くたァ、みっともねえったらありゃしねえ」


 家臣たちは見なかったことにしました。太田道灌の意見が上杉顕定に通った、記念すべき瞬間でした。ただし、書状の後半にはもう一つ重大なことが書いてありました。


「いずれこっそりおめえを引き抜くつもりだからよ、定正にはうまいこと言っといてくんな」


「……こいつァ、どういう意味でえ?」


 意味はそのままでした。上杉顕定は、道灌を山内上杉家の直属にするつもりだったのです。道灌は現在、扇谷上杉定正の家宰です。いくら両上杉家が同族で、共に古河公方や長尾景春と戦ってきた間柄とはいえ、他家の家宰を引き抜くというのは、さすがに穏やかな話ではありません。


「うまいこと言っとけったって……何をどう言やァいいんでえ」


 道灌は頭を抱えました。


 定正に、「このたび山内のお屋形様から、いくさを全部任されることになりやしてね。ついでにいずれ山内へ移るつもりでござんす」などと言えるわけがありません。


 言った瞬間に首が飛びます。比喩ではなく、物理的に飛びます。間違いありません。


「お屋形様ァ、あっしを買ってくだすったのはありがてえが、人を引き抜く時の段取りってもんを、まるでわかっちゃいねえ……」


 しかし道灌は、断ろうとは思いませんでした。定正に不満があったわけではありません。定正は道灌の手柄を正しく認めています。古河公方との戦でも、景春との戦でも、道灌に兵を任せました。少なくとも「錦の御旗を貸せ」と言っただけで身分を持ち出して怒鳴りつけるようなことはしません。ごくごく真面目で実直、公正な上司でした。


 しかし、顕定は関東管領です。顕定が道灌の兵法を理解し、全軍の指揮を任せるというのなら、山内・扇谷をまたいで関東全体の戦を動かせます。


 道灌がずっと望んでいたことでした。


「両家がばらばらに兵を出して、てんで勝手に動きやがるから、いくさが長引くんでえ。頭ァ一つにして、兵法どおりに動かしゃあ、景春なんざひとたまりもありゃしねえ」


 そして何より、道灌の意見を、顕定が理解しました。その事実が、たまらなく嬉しかったのです。


「……一度くらい、信じてみても罰ァ当たらねえだろ」


 こうして道灌は、表向きは扇谷上杉家の家宰のまま、こっそり山内上杉家の軍事を取り仕切ることになりました。最初に道灌がしたのは、顕定を戦場から遠ざけることでした。


「お屋形様はこちらで錦の御旗ァ掲げて、どっしり構えていておくんなせえ」

「またそれかよ。おれにもいくさをさせろってんでえ」

「お屋形様にゃ、お屋形様にしかできねえ大事なお役目がありやす」

「なんでえ、その大事な役目ってのは」

「動かねえことでござんす」

「馬鹿にしてやがんのか」

「滅相もねえ」


 道灌は神妙な顔で答えました。顕定は大変不満そうでしたが、今度は道灌の指示に従いました。


 すると、山内上杉家は急に戦が強くなりました。


 まず、景春方の城を片っ端から攻めるのをやめました。道灌は敵方の国人へ、個別に使者を送りました。


「景春に義理立てして滅びてえなら止めやしねえ。けどよ、おめえさん方の所領まで取り上げるつもりはござんせん。今のうちに戻ってくりゃあ、知らねえ顔をしてやりやしょう」


 一人が寝返ると、隣も、そのまた隣も寝返りました。


 昨日まで景春のために戦っていた者が、翌日には山内方の道案内をしていました。


「汚え真似しやがって!」


 景春は怒りました。


「てめえら、忠義ってもんがねえのか!」


 しかし景春自身、家宰職を取り戻すために主家へ弓を引いた男です。言葉に説得力が全くありませんでした。道灌は、寝返らなかった者の城だけを選んで攻めました。しかも、正面からは攻めません。水の手を断ち、補給路を塞ぎ、援軍が来るという噂を流し、城兵が疑心暗鬼になったところで降伏を勧めました。


「命まで取ろうってんじゃござんせん。城を開けて、国へ帰んなせえ」


 城は次々に落ちました。顕定は驚きました。


「おい道灌。まだ大した合戦もしてねえのに、敵がどんどん減ってくじゃねえか」

「いくさってのァ、槍ァ合わせる前に半分決まってるもんでさァ」

「そんなもんかねえ」

「そんなもんでござんす」

「じゃあ、なんで今まで誰もやらなかったんでえ?」


 道灌はしばらく黙りました。


「……お屋形様が、やらせてくださらなかったからでさァ」

「そうだったか?」

「そうでござんすよ!」


 顕定は首をかしげました。だが今度は怒りませんでした。


「なら、これからは好きにやれ」

「へい」


 道灌は深々と頭を下げました。


 それから山内上杉家は勝ち続けました。道灌が兵を動かし、顕定が恩賞を与えました。道灌が敵を切り崩し、顕定が降伏を受け入れました。道灌は降った者をむやみに罰しないよう進言し、顕定もそれを守りました。


「一度詫びを入れた野郎を、後からぐちぐち追い回すんじゃねえ。そんな真似したら、次から誰も降りてこなくなりやす」

「わかったよ。降った野郎にゃ、もう手を出さねえ」


 顕定は兵法そのものはわかりませんでしたが、道灌が説明すれば規則は守りました。そのため、一度山内方に降った国人は、再び景春方へ戻らなくなりました。


 山内上杉家の軍勢は膨れ上がりました。かつて五十子の補給路を断たれただけで陣を捨てた家とは思えないほど、整然と動くようになりました。


 諸将は噂しました。


「近頃のお屋形様は、まるで別人じゃねえか」

「采配に隙がねえ」

「敵の懐柔も、城の落とし方も、気味が悪いほど早え」

「越後から来た若殿が、いつの間にこんな兵法を覚えたんでえ」


 顕定は得意になりました。


「おれァもともと、いくさの勘がよかったんでえ」


 道灌は遠くで聞いていました。


「そいつァ初耳でござんすね」

「なんか言ったか?」

「何も言っちゃいませんよ」


 景春は秩父の山奥へ追い詰められました。あと一押しでした。


 そしてその頃、扇谷上杉家の陣中でも、妙な噂が流れ始めました。


「山内の攻め方、どこかで見たことがねえか?」

「城を囲む前に国人を寝返らせて、水の手を押さえて、逃げ道だけ残す……」

「河越で道灌殿がやった手にそっくりじゃねえか」

「そっくりどころじゃねえ。あれァ道灌殿の兵法そのものだ」


 やがて噂は、上杉定正の耳にも入りました。定正は最初、笑って聞き流しました。


「道灌のやり口が評判になって、山内の連中が真似してやがるんだろ。あいつの兵法は、今じゃ関東中が知ってらあ」


 しかし、ある戦の報告を読んで、笑わなくなりました。山内方は敵の本城を攻めず、支城を一つだけ落としました。そのうえで、わざと西側の道を空け、逃げる兵を一箇所へ集めました。そこへ伏兵を置かず、そのまま逃がしました。逃げた兵が「山内方は降伏者を殺さない」と触れ回ったため、翌日には周辺の三城が戦わずして開城しました。


 定正は報告書を机に置きました。


「……こいつァ、真似じゃねえ」


 側近たちは黙りました。


「道灌が昔、あっしに言ったことがある。敵を皆殺しにすりゃあ、一つの城は落ちても、残りの城が死に物狂いになる。逃げ道を残してやりゃあ、敵は勝手に崩れるってな」


 定正はもう一度、報告書を読みました。


「言葉まで同じじゃねえか」


 その夜、定正は道灌を呼びました。道灌は何も知らずにやってきました。


「お呼びでござんすか」

「ああ。ちっと聞きてえことがあってな」


 定正は酒を勧めました。道灌は杯を受け取りました。


「近頃、山内がえらく強くなったそうじゃねえか」

「へえ。結構なことでござんす」

「結構なことか」

「同じ上杉のお家でござんすからね。景春を片づけるにゃ、山内がしっかりしてくれた方が助かりやす」

「もっともだ」


 定正は笑いました。道灌も笑いました。


 しばらく、二人とも何も言いませんでした。


 やがて定正が、静かに尋ねました。


「道灌」

「へい」

「山内のいくさっぷりが、妙に手前ぇに似てやがるじゃねえか」


 道灌の指が、杯の縁で止まりました。


「そいつァ、買いかぶりでござんすよ」

「鉢形の攻め口も、国人どもの転ばせ方も、退き口の空け方も、何から何まで手前ぇのやり口だ」

「兵法ってのァ、似ることもござんしょう」

「手前ぇしか知らねえはずの手まで、か?」


 道灌は答えありませんでした。定正は笑うのをやめました。


「道灌」

「……へい」

「手前ぇ、いつから顕定の犬になった?」


 部屋の外で、風が鳴りました。道灌はゆっくり杯を置きました。


「犬たァ、ご挨拶でござんすね」

「じゃあ、違うってのか」

「あっしァ最初っから、扇谷だ山内だと分けて働いた覚えはござんせん。両上杉のお家のため、関東を鎮めるために働いてきたつもりでさァ」

「それを裏切りって言うんだよ」

「裏切りじゃござんせん」

「じゃあなんで、あっしに黙ってた?」


 道灌は口を開きました。しかし、言葉が出ありませんでした。


 顕定からの書状には、こう書いてありました。

「定正にはうまいこと言っといてくんな」。


 道灌は結局、何もうまいことを言ってはありませんでした。


 定正はその沈黙を見て、すべてを悟りました。


「……引き抜かれたのか」

「まだ、そうと決まったわけじゃござんせん」

「まだ、か」


 しまった。道灌は思いました。

 「まだ」では、いずれそうなると言っているようなものでした。


 定正は立ち上がりました。


「そうかい」


 声は穏やかでした。穏やかすぎて、道灌はかえって恐ろしくなりました。


「山内のお屋形様は、手前ぇの値打ちをよくわかってくだすったってわけだ」

「殿」

「よかったじゃねえか。長えこと働いた甲斐があったな」

「殿、話を聞いておくんなせえ」

「聞いたとも」


 定正は道灌を見ました。


「たっぷりとな」


 この時、道灌はようやく気づきました。自分は顕定に理解されました。しかし、理解されたからといって、何もかもうまくいくわけではありません。むしろ、遅すぎた理解というものは、ときにそれまで築いたすべてを壊すのです。


「殿」


 道灌はもう一度呼びかけました。定正は背を向けました。


「今日はもう下がれ」

「しかし」

「下がれと言ってるんでえ」


 道灌は頭を下げました。


 部屋を出たところで、冷たい風が顔に当たりました。


「……もういけねえ」


 道灌は小さく呟きました。


「こいつァ、堪えるぜ」



 それから四年、上杉定正と太田道灌のあいだには、何も起こりませんでした。


 少なくとも、表向きにはそうでした。


 定正は道灌を家宰から外しませんでした。

 道灌もまた、扇谷上杉家を去りませんでした。

 軍議には必ず呼ばれました。城の普請も、兵の配置も、国人への書状も、これまでどおり道灌へ任されました。道灌が意見を述べれば、定正は聞いました。正しいと思えば採用しました。褒美を与えるべき働きがあれば、褒美も与えました。


 ただし、笑わなくなりました。


「江戸の兵糧は、来月までに入れ替えた方がよろしゅうござんす」

「そうしろ」

「河越からの道が傷んでおりやす。雨が降る前に人足を出しやしょう」

「任せる」

「長尾景春の一党が、秩父の山中へまた入り込んだようで」

「追え」

「……へい」


 それだけでした。


 道灌は、怒鳴られたことなら何度もありました。無理難題を押しつけられたこともありました。戦の最中に意見を覆され、歯噛みしたことも一度や二度ではありません。

 だが、定正が何も言わなくなってから、道灌は初めて、怒りというものが会話の一種であったことを知りました。


「殿」


 ある日の軍議のあと、道灌は退出しようとする定正を呼び止めました。

 定正は振り返りました。


「何だ」

「この頃、江戸へお越しになりやせんね」

「用がねえからな」

「たまにゃあ、兵どもの様子をご覧になっちゃいかがで」

「手前ぇが見てるだろ」

「それァそうでござんすが」

「なら、それでいい」


 定正は歩き出しました。道灌は、その背に向かって続けました。


「兵ァ、扇谷のお家の兵でござんす」


 定正の足が止まりました。


「誰も違うたァ言ってねえよ」

「……へい」

「手前ぇがわざわざ言い出さなきゃあな」


 定正は振り返らず、そのまま去りました。


 翌月、道灌は江戸城で足軽を集めました。

 百姓上がりの者もいれば、戦で親を失い、食うために兵となった者もいました。槍の持ち方すら知らない者を一列に並べ、道灌は怒鳴りました。


「穂先ァ上げるんじゃねえ! 目の前の敵ァ見なくていい、隣の野郎だけ見てろ!」


 足軽たちが一斉に槍を突き出しました。穂先はばらばらでした。


「遅え! てめえ一人が早く突いたって、隣が遅れりゃあ腹ァ裂かれるんでえ! もう一遍!」


 槍が引かれ、再び前へ出ます。


「足ァ止めるな! 前へ出ながら突け! 下がりながら突け! 勝ってる時より、逃げる時に列を崩すんじゃねえ!」


 道灌は足軽たちのあいだを歩きました。


「いいか! いくさってのァ、立派に死んだ野郎が勝ちじゃねえ! 生きて帰って、次も槍ァ持てる野郎が強えんだ!」


 城壁の上に、人影がありました。


 道灌は気づいていました。他でもない上杉定正です。

 定正は、冷たい目で眼下の訓練を見ていました。道灌は声をかけませんでした。


 槍の列を三度進ませ、三度退かせました。


「よし、そこまで!」


 足軽たちが槍を下ろしました。

 そこでようやく、定正が口を開きました。


「大した兵じゃねえか」


 道灌は城壁を見上げました。


「殿。お越しとは知りやせんで」

「来いって言ったのァ手前ぇだろ」

「へえ。ありがてえことで」


 定正は足軽たちを見下ろしました。


「よく揃ってやがる」

「まだまだでござんす」

「どれも手前ぇの号令一つで動くじゃねえか」

「兵ってのァ、号令で動くもんでさァ」


「そうかい」


 定正の視線が道灌へ落ちました。


「生きて帰る先は、江戸か」


 道灌は黙りました。


「それとも、山内か」


 足軽たちは息を潜めました。


「……扇谷のお家に決まっておりやす」

「誰の口から、そう聞いたんでえ」

「殿」

「冗談だよ」


 定正は笑いませんでした。そのまま背を向けました。


 道灌も追いませんでした。追えば、何を言っても言い訳になります。追わなければ、やはり裏切りと思われます。


 四年前から、道灌が選べる道は一つずつ消えていました。


 その夜、山内上杉顕定から書状が届きました。


「江戸の足軽を鍛えてるそうじゃねえか。おめえの兵なら、さぞ強くなるだろうな。こっちでも同じようにやらせてえ。暇ができたら教えに来い」


 道灌は読み終えると、火鉢へ放り込みました。

 紙の端から火がつき、顕定の文字が黒く縮れていきます。


「暇なんざ、できるわけねえだろうが」


 道灌は呟きました。


「お屋形様ァ、何もわかっちゃいねえ」


 それでも翌朝になると、顕定へ返書を書きました。


 そこには、足軽の組み方、槍の長さ、五人を一組として一人を組頭にすること、退く時こそ隊列を崩さぬこと、降った敵は追いすぎぬことまで、事細かに記しました。


 顕定のもとへ送る書状には、定正のことを一言も書きませんでした。

 顕定も、一度も尋ねませんでした。

 定正には定正の都合があります。道灌がまだ扇谷を離れないのは、それだけのことだと思っていました。

 顕定なりに、待ってやっているつもりでした。


 そのあいだにも、長尾景春は生きていました。


 かつて山内上杉家の家宰職をめぐって兵を挙げ、関東中を揺らした男です。大勢はすでに決していました。景春に従った国人の多くは降り、あるいは離れました。

 それでも本人は秩父の山中を転々とし、時おり山内方の城を襲い、逃げ込みました。討ち取るには小さすぎます。放っておくには危険すぎます。


 道灌は四年間、景春の動きを追い続けました。

 城を落とすより先に、山道を調べ、兵糧を運ぶ村を押さえました。景春方と通じる寺を見つけました。逃げ込める谷を一つずつ潰しました。大きな戦はありませんでした。ただ、景春の逃げ道だけが、年ごとに減っていきました。



 文明十八年。ついに景春が兵を集めたとの報せが入りました。秩父の山中に、最後まで従う者を集め、山内方の陣を破って北へ抜けるつもりとのことでした。

 道灌は報告を読むと、地図を広げました。


「ここでござんす」


 家臣が覗き込みました。


「谷へ追い込むので」

「逆だ」


 道灌は首を振りました。


「谷ァ空けとけ」

「逃がすのでござりますか」

「逃がすんじゃねえ。逃げる先を決めてやるんでえ」


 道灌は山道を指でなぞりました。


「こっちを固めりゃ、景春は西へ行く。西を塞げば、北へ抜ける。北には細え沢がある。雨が降りゃ、馬ァ使えねえ」

「しかし、雨が降るとは限りませぬ」

「降るさ」


 道灌は空を見ました。


「三日もすりゃあな」


 三日後、雨が降りました。細い沢は泥に変わりました。


 景春の軍勢は馬を捨て、徒歩で北へ向かいました。

 そこへ江戸で鍛えた足軽が現れました。槍を揃え、泥の中を一歩ずつ進みました。


 景春方が突撃しました。

 道灌の足軽は退きました。列を崩さず、槍を前へ向けたままです。

 景春方は勝ったと思いさらに追いました。足場が深くなり、隊列が伸びました。


 道灌が扇を上げました。


「止まれ!」


 足軽が一斉に止まりました。


「前へ!」


 槍の壁が押し返しました。景春方の先頭が倒れました。後ろの兵が乗り上げました。泥の中では、倒れた者から起き上がれません。


「左右から回れ! 奥へ逃がすな!」


 伏せていた兵が沢の両側から現れました。景春は馬を失い、わずかな近習とともに斜面を登りました。だが、その先にも道灌の兵がいました。


「道灌!」


 雨の中で、景春が叫びました。


「てめえ、どこまであっしを追いやがる!」


 道灌は馬上から景春を見ました。


「そいつァ、こっちの台詞でさァ」

「山内の犬め!」

「犬に追い詰められた野郎が、よく吠えらぁ」


 景春は刀を抜きました。


「降りろ、道灌! 一騎打ちだ!」

「馬鹿言っちゃいけねえ」

「臆したか!」

「兵を使って勝てるのに、なんであっしが刀ァ振り回さなきゃならねえんでえ」


 道灌は扇を下ろしました。足軽たちが槍を構えました。

 景春は周囲を見ました。逃げ道はありませんでした。


「降りなせえ」


 道灌が言いました。


「今なら命までは取りやせん」

「手前ぇの情けを受けろってのか」

「情けじゃねえ。いくさを終わらせてえだけでさァ」


 景春は笑いました。


「終わりゃしねえよ」

「何?」

「あっしが死んだら、次は手前ぇだ」


 道灌の顔から、わずかに表情が消えました。


「何の話でえ」

「わかってんだろうが。あっしがいるうちは、手前ぇが要る。あっしが消えりゃ、定正にとって一番邪魔なのァ誰だ」

「黙りなせえ」

「山内に尻尾振ってる家宰殿じゃねえか!」


 道灌の扇が動きました。


「討て」


 槍が押し寄せました。景春は二人を斬りました。三人目の槍を払いました。四本目が脇腹へ入りました。膝をついたところへ、さらに穂先が集まりました。

 長尾景春は泥の中へ倒れました。


 しばらく誰も声を上げませんでした。


 やがて一人が叫びました。


「長尾景春、討ち取ったり!」


 声が山中へ広がりました。


「景春を討ち取ったぞ!」

「勝った!」

「道灌様の勝ちだ!」


 足軽たちが槍を掲げました。


 道灌はただ、景春の死骸を見ていました。そこに喜びはありませんでした。


 家臣が駆け寄りました。


「お見事にございます。これで長きにわたる乱も、ようやく終わりましょう」

「……ああ」

「殿もさぞお喜びになりまする」


 道灌は目を閉じました。

 雨が顔を伝いました。


「これで、あっしの仕事ァ終わっちまったな」

「何を仰せで。これからでございましょう」

「いや」


 道灌は遠く、扇谷方の陣幕を見ました。


「殿にとっちゃあ、これで終いでさァ」


 景春討死の報せは、すぐに上杉定正のもとへ届きました。

 定正は報告を聞き、しばらく黙っていました。


「そうか」


 それだけ言いました。

 側近は頭を下げました。


「道灌殿の大功にございます」

「ああ」

「長年の憂いも、これで絶えましょう」

「ああ」


 定正は庭を見ました。

 雨がしとしとと降っていました。誰かの涙のようだと思いましたが誰のかは分かりませんでした。


「道灌は」

「ただいま帰陣の支度を」

「そうか」


 定正はそれ以上、何も言いませんでした。



 同じ頃、顕定は報せを聞いて大喜びしました。


「やったじゃねえか!」


 家臣たちは頭を下げました。


「道灌め、とうとう景春を片づけやがったか!」

「左様にございます」

「だから言ったんでえ。あいつに任せりゃ、何だって片づくってな!」


 顕定はすぐに書状を書きました。


「よくやった。これで定正も手放しやすくなっただろう。そろそろこっちへ来い」


 道灌はその書状を、長いこと眺めていました。あまりの政治音痴っぷりに笑う気にもなれませんでした。


「手放しやすくなった、ねえ」


 道灌は紙を畳みました。


「違えんだよ、お屋形様」


 もう一度開きました。


「これで、殺しやすくなったんでえ」




 ほどなくして、道灌は糟屋へ呼ばれました。

 家臣たちは止めました。


「お供を増やしましょう」

「いらねえ」

「しかし、定正様のご様子は以前より」

「わかってる」

「ならば、なぜ」


 道灌は支度を整えました。


「今さら逃げりゃあ、本当に裏切り者になっちまわあ」

「山内のお屋形様を頼られては」

「あのお屋形様にゃ、今ごろ言ったって遅え」

「されど」

「それによ」


 道灌は笑いました。


「殿があっしを殺すってんなら、あっしにも殺される筋合いくらいはありやしょう」

「道灌様」

「心配すんな。まだ殺されると決まったわけじゃねえ」


 そう言って、道灌は糟屋へ向かいました。


 糟屋の館で、定正は道灌に会いませんでした。風呂を勧めただけでした。

 蒸し風呂の中で無防備なところを、道灌は斬られました。最初の一太刀を受けた時、道灌は何が起きたのか理解しました。二太刀目で膝をつきました。


「殿ァ……」


 血が床へ落ちました。


「これで、お家を滅ぼしなすったな」


 それが最後でした。



 道灌が殺されたとの知らせを受けた時、顕定は何度も聞き返しました。


「誰が死んだって?」

「太田道灌にございます」

「戦でか」

「いえ。糟屋にて」

「だから、誰に討たれたんでえ」


 家臣は答えました。


「定正様の命と聞き及びます」


 顕定は黙りました。


「なんでだ」


 誰も答えがありませんでした。


「道灌はあいつの家宰だろう」

「左様にございます」

「景春まで討ってやったじゃねえか」

「は」

「それに、おれァ急かさず待ってやったんだぞ。定正の都合もあるだろうと思ってよ」


 家臣たちは伏せたまま動きませんでした。顕定はようやく、皆が何を黙っているのか考えました。


「……もしかして」


 顔を上げました。


「おれが道灌を欲しいって言ったから、殺されたのか」


 沈黙が答えでした。そのくらい察する力は、顕定にもあったようです。顕定はしばらく何も言いませんでした。


「おかしいじゃねえか」


 声が小さくなりました。


「おれァ、あいつを取り立ててやるつもりだったんだぞ」


 誰も答えませんでした。


「道灌の値打ちがわかるのは、おれだけだったんでえ」


 やがて、道灌の子・資康が山内方へ逃れてきました。顕定は資康を前に座らせました。


「おめえが道灌の倅か」

「太田資康にございます」

「そうか」


 顕定は少し考えました。


「定正は、おめえの親父を殺した」

「は」

「ってことァ、おれの軍師を殺したってことだ」


 資康は何も言いませんでした。


「おれに喧嘩を売ったのと同じじゃねえか」


 家臣の一人が、わずかに顔を上げました。顕定は資康へ言いました。


「うちへ来い」

「は」

「兵も所領もくれてやる」


 顕定は立ち上がりました。


「定正をぶっ潰すぞ」


 道灌がなぜ殺されたのか、上杉顕定は最後まで正しく理解していませんでした。

 ただ、道灌を殺した上杉定正を許してはならないということだけは、誰よりもよく理解していました。




 かくして、太田道灌が遺した強大な兵力を、上杉顕定という希代のいくさ下手が差配する泥沼の戦乱が始まりました。


 関東は、他国より一足早く戦国時代へ突入するのです。


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