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第1話 心理学的査定、あるいは聖域の邂逅

王立学園の医務室。そこは本来、魔力酔いの揺らぎや、未熟な練磨で生じた擦り傷を癒やすための、無機質で静謐な聖域であるはずだった。

しかし今、その静寂は陶器が床と衝突し、微細な粒子へと爆ぜる硬質な音によって蹂躙されている。


「触らないで……!どいつもこいつも、私を嘲笑いに来たのでしょう!?」


豪奢な金髪が、荒い呼吸に合わせて生き物のようにのたうつ。この国の至宝と謳われる公爵令嬢、セシリア・アルカード。彼女の周囲には、物理的な硝子片よりも鋭利な「拒絶」の空気が張り詰めていた。

取り押さえようと踏み出した衛兵たちは、彼女の叫びそのものよりも、その瞳の奥に宿る、逃げ場を失った獣のような「怯え」に気圧され、硬直している。


(……前頭葉の機能抑制、および扁桃体の過剰反応。典型的な急性ストレス反応だ)


私は白い医療衣の袖を折り返し、その光景を網膜に焼き付けた。

私の前世は、日本という国で「心」という不確かな臓器を扱っていた臨床心理士だった。過労死という呆気ない終止符のあと、この乙女ゲームに酷似した異世界に転生して十年。私は今、王立学園の医官という肩書きの裏で、前世の「呪い」とも言える知識を使い、生徒たちの精神状態を査定アセスメントしている。


目の前で自壊していくセシリアは、この世界の「筋書き」によれば、ヒロインを害し、王太子に断罪されるべき悪役令嬢だ。

だが、私の眼に映るのは、歪んだ運命の犠牲者ではない。

ただ、過剰な適応を強いられ、自己肯定感の柱が腐り落ちた、一人の脆弱なクライエントだ。


「セシリア様。これ以上の破壊活動は、あなたの末梢血管を収縮させ、脳への酸素供給を阻害するだけです。それは『公爵令嬢としての尊厳』を守るための戦略として、著しく効率を欠いています」


私は周囲の衛兵を視線だけで下がらせ、あえて足音を消さずに、彼女のパーソナルスペースの境界線へと歩を進めた。

セシリアの視線が私を射抜く。その瞳孔は散大し、虹彩が小刻みに震えている。怒りという仮面の裏で、彼女の心拍数は既に限界に近い。


「……何よ、あなた。平民上がりの医官の分際で、私に『教育』を施すつもり?」


「いえ。私はあなたの『味方』でも『敵』でもありません。ただの『観測者』であり、あなたのバイタルを管理する責任者です」


私は彼女が手にしていた銀製の水差しを注視した。握りしめた指先は血気が失せて白くなり、関節が不自然に浮き出ている。「拳を握りしめ血を流す」といった情緒的な自己犠牲ですらない、生理的な硬直。


「リリアが……あの卑しい平民の娘が、エドワード殿下の隣で笑っていた!私が積み上げてきた十年の研鑽を、あの子はたった一言『すごいですね』と微笑むだけで無に帰したのよ!完璧でなければ、私は……私は一番でなければ、存在する価値すらないのに!」


吐き出される言葉は、彼女の認知を蝕む「自動思考」の毒だ。

完璧でなければ無価値。百点でなければ零点。全か無か。心理学において『白黒思考』と呼ばれるその認知の歪みこそが、彼女を破滅のシナリオへと突き動かす真の黒幕だった。


「セシリア様」


私は低く、倍音を響かせた安定したトーンで彼女の名を呼んだ。声の周波数を一定に保ち、相手のミラーニューロンを介して強制的に情動の共鳴を狙う技法だ。


「消えて……消えてよ!みんな私を『欠陥品』だと指差して笑うのよ!お父様も、お母様も、殿下も!」


彼女が水差しを振り上げる。周囲の空気が数度下がったかのような静寂。だが、私は瞬き一つせず、彼女の眼球運動を追った。

彼女の視線は私を捉えているようで、その実、背後の「空虚」を見つめている。


「一つ、契約を提案します」


私の静かな、事務的ですらある言葉に、彼女の腕が空中で止まった。


「私は本日付で、あなたの『専属主治医』となることをここに宣言します。……いいえ、拒否権は存在しません。現在のあなたは客観的に見て『情動の制御が不可能な精神錯乱状態』にあります。このまま部屋を出れば、あなたは公的に不敬罪、あるいは公序良俗に反するとして退学処分を受けるでしょう。それを防ぐ正当な診断書を書けるのは、この学園で私だけです」


「な……っ!?私を、脅すというの……?」


「いいえ。取引をしているのです。あなたがこれ以上、自分の手で自らの未来を解体するのを、私はプロフェッショナルとしての倫理にかけて許容できません」


私は一歩、踏み込んだ。

彼女の瞳に宿っていた攻撃性の色彩が、戸惑いという名の「空白」へと変容していく。この世界の人間は、彼女を「完璧な令嬢」として崇めるか、「傲慢な悪女」として蔑むかの二択しか持たなかった。

そのどちらでもない、乾いた「論理」を突きつけたのは、私だけだ。


「座ってください、セシリア様。まずはアセスメント……あなたの内面で暴走している、その思考のバグを特定する作業から始めましょう」


私は近くの椅子を引き、自分から腰を下ろした。視界をあえて彼女より低く保つことで、物理的な威圧感を排除し、心理的な優位性を潜伏させる。


セシリアはしばらくの間、水差しを振り上げたまま石像のように固まっていたが、やがて筋肉の緊張が限界を迎えたのか、腕を力なく下ろした。銀器が床に置かれる鈍い音が、終焉ではなく、幕開けの合図のように響く。

彼女はふらふらと、操り人形の糸が切れたような足取りで、私の対面に用意されたソファに沈み込んだ。


「……何をしても、無駄よ。私のこの渇きは、誰にも埋められない。私は……私は最初から、壊れているのだから」


「そうかもしれません。ですが、痛みは言語化され、客観的な『記号』に変換された瞬間に、制御可能な対象へと変わります。……まずは、今の気分をゼロから百の数値で表すと、いくつになりますか?」


突飛な問いに、セシリアは不快そうに眉根を寄せた。


「数値……?そんなの、計り知れるわけがないでしょう。マイナス一万よ。呼吸をするのもおぞましいわ」


「なるほど。それは極めて強い不快感ですね。では、その苦痛の原因において『リリア様が存在すること』が占める割合は、百パーセントですか?それとも、別の変数が混ざっていますか?」


セシリアは喉の奥で、毒を吐き出すように答えた。


「あの子が……あの子がすべてを壊したの。あの子さえいなければ、私は完璧な婚約者でいられた!」


「『あの子さえいなければ』。……興味深い仮説です。ですが、もし仮にリリア様が明日、忽然とこの世から消滅したとして、あなたのその『完璧でなければならない』という焦燥感は、一パーセントでも減少しますか?」


セシリアの顔色が、瞬時に陶器のような白磁へと変わった。

彼女の深層にあるのは、他者への憎悪という名の代替感情だ。その本質は、肥大化した自己愛と、それと表裏一体の、底知れない自己嫌悪。


私は手元のカルテに、羽ペンを滑らせる。

【クライエント:セシリア・アルカード。主訴:対人関係における著しい衝動性と、条件付き自己肯定感の崩壊。認知の歪み(白黒思考、過度の一般化)が顕著。陽性転移の発生を予見し、境界線の管理を最優先とする】


(さて、ここからが「介入」の始まりだ)


乙女ゲームのシナリオという名の「運命」を、私は心理学という名の「科学」で解体する。

彼女が悪役として破滅へと突き進むのは、彼女が「悪」だからではない。単に、自らの感情という激流を制御するための「堰」を、誰からも教わらなかっただけだ。


「セシリア様。今日からあなたは、一日に一度、この医務室を訪れていただきます。これは命令ではなく、あなたの人生を再構築するための『契約』です」


「……誰が、そんな」


「あなたが再び『完璧』でありたいと願うなら、まずは自分自身の心の統治者ドミナントになっていただきたい。感情という衝動に支配されている今のあなたは、王太子妃の椅子どころか、自らの人生の主権すらリリア様に明け渡しているも同然です」


私は立ち上がり、彼女の前に膝をついた。騎士の忠誠誓願ではない。カウンセラーが患者を「依存という名の檻」へ誘い込むための、誠実な契約の儀式だ。


「私と一緒に、あなたの『絶望』の正体を検分しませんか?」


セシリアの潤んだ瞳が、私を凝視する。

その視線は鋭く、食らいつこうとする肉食獣のようでもあったが、私にはそれが、泥濘の底で差し伸べられた糸を、盲目的に掴もうとする縋り付きに見えた。


「……勝手になさい。どうせ、私を理解できる人間など、この世に一人もいないのだから」


絞り出すような拒絶の言葉。だが、彼女は医務室を立ち去る意思を失っていた。

その微かな瞳孔の収縮こそが、治療の第一歩――ラポール(信頼関係)という名の、強固な依存の種火だ。


外では夕刻の鐘が重たく響き、学園の回廊を、血のような朱色で塗り潰していた。

破滅へのカウントダウンは既に刻まれている。だが、私のカルテには、彼女を救い、そして私に縛り付けるための「処方箋」が、冷徹なロジックと共に描かれ始めていた。


才色兼備の公爵令嬢セシリア。

なぜ彼女ほど恵まれた個体が、あそこまで惨めに追い詰められ、ヒロインを虐げるという「非効率な凶行」へと誘導されてしまったのか。

その謎の深層には、この世界の「強制力」などという安価な言葉では説明のつかない、醜悪で、かつ愛おしい人間心理の闇が広がっているはずだ。


私はカルテを閉じ、震える彼女の背中に、冷徹な観察者としてのまなざしを向け続けた。

これより、悪役令嬢セシリア・アルカードの心理療法カウンセリングを開始する。

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