一人じゃ虫も殺せないのに婚約破棄ですか。
私、エリーザの家、アルトナー辺境伯家は広大な森を有している。
主にお兄様やお父様、または騎士団の剣術の訓練などに使われる森だが、私も足を運ぶ機会は多くあった。
小さな動物を狩る程度なら経験を積ませてもらったりもしたものだ。
それに、領地そのものが自然豊かであった事もあり、貴族令嬢の中で私は逞しく育った方だと思う。
さて。私には婚約者がいる。
名をグスタフ・フォン・エンゲルマン。伯爵家の嫡男だ。
彼は同い年の私から見てもあまり優秀な人物ではなかった。
傲慢ではあるが下を見てばかりで勉学も剣術も疎かにしがち。
また貴族階級よりも性別の差を重んじているようで、私に対しても尊大な態度をとりつづけていた。
八歳の頃――婚約して一年も経たないくらいのある日の事。
義務化した婚約者同士の定期的なお茶会を我が家の屋外テラスで開催した際の事だ。
「ハッ、今日も今日とて地味な女だな! 少しでも女性らしさがあればいいものを。全く、お前と茶会など本当に無駄でしか――」
相変わらず私の嫌味を言う彼の話を聞き流しているとそんな彼の眼前へ――
――大きな虫が飛び出す。
「――ヒッ」
瞬間、グスタフは顔を強張らせ、引き攣った声を漏らした。
その虫は人に害を齎すものではなかったが、人から忌避されやすい見た目をしている。
それが彼の顔へぶつかったのだ。
「う、うわぁぁあっ!!」
グスタフは情けない声を上げ、虫を振り払おうとする。
必死に暴れ回るものだから、カップや食器がガシャンガシャンと落とされ、割れてしまう。
「な、なんだこれっ! 気持ち悪い! おい、早く何とかしろぉっ!!」
恐らくは、離れた場所に控えていた使用人へ向けての言葉だったのだろう。
しかしこの時の彼の取り乱し方があまりにも騒々しく、また我が家の茶器がこれ以上割られるのも困った為に、私はナプキンを片手に席を立つ。
そしてグスタフの前に立つと、それを素早く振るった。
「ひ、ヒィィッ」
素早い動きで虫に命中するナプキン。
それによって虫はグスタフから無理矢理弾き飛ばされた。
しかし虫は懲りずに尚もグスタフへ近づく。
私はその度にナプキンで弾き返し、そして五度程そのような攻防を繰り広げたところで漸く……虫は諦めて去って行った。
私は一つ息を吐く。
ナプキンを使用人へ預け、新たなものを求めた。
それから、真っ青で震えているグスタフを見つめる。
貴族の中で、率先して虫を追い払える者はあまりいない。
とはいえ、どうやらグスタフはそんな貴族の中でも生粋の虫嫌いのようだった。
「グスタフ様、大丈夫ですか?」
私がグスタフへ手を差し出せば、息を乱していた彼はハッと我に返り顔を真っ赤にした。
「お、お前! 俺に恥を掻かせて楽しいのか!」
「……え?」
「虫如きで俺が取り乱すような男だと、そう周囲に知らしめたいんだろう!」
知らしめたいというか、事実では?
そんな事を言えば機嫌を損ねる事はわかったので、流石に口を閉ざしておく。
「お前のような地味で何もできない女が、俺の事を見下して、いい気になるなよ……! そもそも、貴族の癖に虫を自ら追い払おうとする方が野蛮で貴族を名乗るに相応しくないんだ!」
彼はその後も長々と私の批判をし、最終的には『こんな虫を飼い慣らし、放置しているアルトナー辺境伯家が悪い』とまで言い出した。
そんな彼の癇癪を面倒だと思った私はこの日決意する。
グスタフが虫に驚かないか自身で対処できるなら問題ないが、そうはならないだろう。
かといって私が追い払うと彼は自分が見下されたと思うらしい。
ならば――彼に見つからないよう、周囲の虫を追い払う事にしようと。
***
それから時は流れ、私達は王立学院への入学を果たす。
「学園生活くらい、好きに過ごさせろ。どうせ結婚は決まっているんだから、限られた時間くらい真実の愛を知ったっていいだろ」
「はぁ」
呼び出された裏庭で、私はグスタフからそのように言われる。
そんな彼の元へ、数匹の虫が。
彼はこの頃、流行りの男性向けの香水をつけ始めたのだが……そのせいで群がる虫が多い事多い事。
私は彼の話を聞いているふりをしながら、制服の裏ポケットから特殊な魔法が掛けられたハエタタキを素早く取り出す。
そして目にも留まらぬ速さでそれを仕留め、再び懐へと忍ばせる。
私が持ち歩いているのは、親戚の発明者と共に考案、開発したハエタタキ。
虫が触れると電流が流れる仕組みで電流の大きさは対象の大きさによって自動調整される。
また、人体が触れた際には魔法が発動しないという安全設計。これのお陰で怪我無く虫だけを仕留めることが出来るのだ。
そんなこんなで虫を目にも留まらぬ速さで仕留める道具と技術を手に入れた私は、グスタフの癇癪を避ける為に彼を虫から守り続けていた。
「おい、聞いているのか」
「はい。おやめになられた方がよろしいかと」
「は?」
「婚約者がいる上で別の異性と親しくするなど、どのような事情があれ他の者が見れば不義を疑います。となればエンゲルマン伯爵家の評判は下がりますし、我が家の者達も家族が蔑ろにされる事を良くは思わないでしょうから、最悪、婚約の解消もあり得るかと」
私たちの婚約はエンゲルマン伯爵家の強い希望で成り立っているものだ。
にも拘らず、アルトナーの者を軽んじるような行いを繰り返せば、見限られても仕方はないというものだ。
……と、念の為忠告はしたのだが。
「お前が俺に指図をするな! どうせ俺に見捨てられるのが怖いだけなんだろ!」
やはり聞く耳は持ってもらえなかった為、私はそれ以上苦言を呈する事をやめた。
グスタフはその後、満足するまで私を罵倒してからその場を去って行った。
その背中へ虫が飛んでいくので、私は無心でそれを倒す。
その時だった。
「ブ、フフッ」
背後から笑われる気配があった。
私達がやって来るよりも先に先客がいたのだろう。
私は驚いて振り返った。
すると建物の影で口を押えて震えている男子生徒を見つける。
金髪に碧の瞳。
美しい容姿を持つ彼の事を私は知っている。
クラウス・バルトロメウス・ルクラム王太子殿下。
学園に通う生徒の中で最も尊き立場のお方だ。
そんな彼は私を見ながら呼吸困難になりつつ笑っている。
「ヒッ、ヒィッ」
普段遠目にお姿をお見掛けする際には常に澄ました笑みを浮かべていて、腹の底が見えないような印象があった。
しかし目の前の彼は全く異なる様子だ。
「……あの、いかがなさいましたか」
一体何がそんなに面白いのかと思いながら私は彼へ声をかける。
「い、いや……っ、すまない、御令嬢であるはずの君があまりにも無駄のない動きでっ、虫を捌くものだから……っ」
耐え切れない笑いを何度も吹き出しながら答える彼は、私がハエタタキを振るっているところを見ていたのだろう。
地面に崩れ落ちて笑い続ける王太子殿下を放っておく事も出来ず、私は彼が落ち着くまでその場で待つ事にした。
「それにしても酷い言われようだったな」
「いつもの事です」
笑いが落ち着いた頃。殿下がそう言った。
「君の家と彼の家が持つ力の差は決して無視できないものであるはずだが」
「本来ならばそうなのでしょう。けれど彼にとっては爵位よりも性別の差こそが重要なようなので」
「先が思いやられるな。エンゲルマン伯爵家も」
「本当に」
それから暫しの沈黙の後。
「……なぁ、さっきの動き、……ブフッ、俺に見せてはくれないか」
「失礼いたします」
笑い混じりにそんな事を言われた為、揶揄われる前にと私はその場を後にした。
***
それから少しして。
グスタフは『真実の愛』とやらを見つけたようだった。
ドロテー・ツー・クリューガー子爵令嬢。
彼女と腕を絡ませて校内を歩き回る姿を何度も見る機会があった。
そしてそれと同時期から、私がドロテー様を虐めているという噂も流れ始めたのだが……どうせグスタフ様とドロテー様の浅慮な企てによるものなので素知らぬふりをしていた。
またグスタフは、義務化された茶会も放り出すようになった。
結果として両家の伝達事項は学園内で話す事が増え――何故か彼はわざわざ校舎の外で話したがるので、その度に私が虫を払い除けてやる事になった。
そしてその中で何度かクラウス殿下がすれ違う時があったのだが。
「――ブハッ」
彼は私を見る度に大きく吹き出したり、肩を小さく震わせたりして笑うのだった。
また、それだけではなく――
「なぁ、エリーザ嬢。いい加減、アレを見せてくれよ」
クラウス殿下は私を見かける度にこうして絡んで来るようになった。
お陰で同級生たちの注目が私へも集まりつつある。困ったものだ。
「何故そんなに見たがるのですか」
「あれは、なかなか目では追えない動きだ。あの珍妙な道具も気になるが、それを用いた無駄に精錬された動きは君しかできないものだろう?」
珍しいから見たいという彼の提案に乗ればあの大笑いと共に馬鹿にされる未来が見えているので、絶対に話には乗らない。
しかしそれはそれとして、このような会話を繰り返していく内に、殿下とは親しき友の様な関係が築かれるようになっていた。
***
そして、事件は起こる。
「エリーザ・フォン・アルトナー! お前との婚約を破棄する!」
年に一度、学園で開かれるパーティーの会場内で、私はグスタフにそう言われる。
周囲の生徒達の視線が、一斉に私達へ集まった。
「……えぇ?」
驚きと呆れから私は思わず声を漏らす。
「お前はドロテーを虐め、彼女を貶めようとした! そんな下劣な奴は俺の婚約者に相応しくない! よって俺はお前との婚約を破棄し、ドロテーを新たな婚約者として迎える!」
まさかここまで愚かだったとは、と吐き出したくなる息を何とか呑み込む。
家が望んだ婚約をグスタフ自身が切る。
こちらに不利益は殆どないので勿論受諾されるだろう。
しかしそれで困るのはグスタフや彼の家の方だ。
おまけに、新たな婚約者として彼が選んだのはクリューガー子爵家の御令嬢。
クリューガー子爵家と言えば、小さな家門でありながら財政難を抱えた家だ。
爵位の格差もあれば、家が抱える問題もある。
そしてそれら全てを抱え込む余力がエンゲルマン伯爵家にないことを私は知っている。
何故なら彼の家の財政も、年々傾き始めているから。
あと、それとは別件で、彼が被る不利益がある。
「……よろしいのですか?」
念の為、私は問う。
すると、グスタフは想像通りの返答をした。
「ハッ! 自分の家の爵位で脅そうとでも? そんなものに俺達の愛が屈する訳がないだろう! 本当にどこまでも卑しい女だ!」
「よろしいという事ですね」
「そう言っているだろう! どこまでも煩わしい女――」
「キャアア!」
その時だ。
パーティー会場内に悲鳴が上がる。
「虫よ!」
「な……っ!」
拳程度の大きさはある虫が、会場内へ入り込んでしまった様だ。
それは悲鳴を上げる令息や令嬢の間を擦り抜け、好ましい香りをより強く纏う存在――グスタフへと真っ直ぐ飛び込んだ。
「ひ、ヒィィッ! く、来るなぁ!!」
「い、いやぁっ!」
グスタフが情けない悲鳴と共に顔を歪ませる。ドロテー嬢も同様だ。
そしてその虫がグスタフの鼻先へぶつかろうとした、次の瞬間。
「や、やめ――」
私はグスタフの前に飛び込み、ハエタタキをその虫へ叩きつけた。
グスタフの目と鼻の先で、パチパチと電流が走る。
虫はそれを受け、大きく痙攣したかと思うと、床に落ちて息絶えた。
シン、と辺りが静まり返る。
その中で私は、へなへなと座り込んだグスタフを静かに見据えた。
「一人じゃ虫も殺せないというのに」
ハエタタキをしまいながら私は息を吐く。
「まあ尤も私は――」
悪目立ちしすぎてしまい、居心地が悪いのでさっさとこの場を抜け出そう。
そんな事を考えながら私は最後に呟く。
「虫以外も殺せはしますが」
狩りもできるので、脅威に打ち勝つ力で言えばグスタフよりは上だろう。
だからこそ役に立てる機会もあっただろうに。
そんな言葉を吐いたつもりだったのだが、何故だかグスタフとドロテー様は顔を青ざめ、冷や汗を流しながら震え上がった。
「ブフ……ッ、アッハハハハハッ、ハハハハッ!!」
気まずい沈黙。
それから逃げるよう、二人に背を向けた時。
大きな笑い声が響き渡る。
「で、殿下……!?」
「あの、クラウス殿下があんな風にお笑いになるなんて……」
「フッ、フフッ、ヒィ――ッ」
声の主を私は知っている。
全く、騒々しいお方だと私は釣られて少し笑ってしまいながら、私はその場を後にするのだった。
学園に用意された庭園。
そのベンチに腰を下ろしながら私は息を吐く。
「ッ、エリーザ」
「……ご機嫌よう、クラウス殿下」
そこへクラウス殿下がやって来る。
未だに顔を引き攣らせて半笑いの彼の顔を見て、私はやれやれと肩を竦めた。
「パーティーを楽しまなくてもよろしいのですか」
「馬鹿を言え。もう充分過ぎる程楽しんだだろう。それに、君がいる場所の方が心が弾む」
「その内呼吸困難で倒れられるのでは?」
「その時は君に容疑が掛けられるだろう。極刑にでもなるんじゃないか」
「勘弁してください」
心地良く冷えた夜の空気に身を委ねながら、私達はベンチに並んで座る。
そして少しの静寂の後。
「君、俺と婚約しないか」
そんな事をクラウス殿下が言い出した。
突飛な話に目を剥き、反射的に彼の顔を見る。
しかしすぐに『どうせいつものように揶揄っているのだろう』と私は思い直した。
「玩具ならば別のものをお求めになった方がよろしいですよ」
「だが、虫を取り除く機能付きの物は中々ない」
「全く」
私はくすくすと笑う。
その時だ。
徐に立ち上がったクラウス殿下が、私の顔を覗き込む。
美しい顔が眼前にやって来て、思わず目を奪われた。
気が付けば彼は両腕をベンチの背もたれに付けて、私を腕の中に閉じ込めていた。
「あの……殿下?」
あまりに距離が近いので背に凭れ掛かり、彼と距離をあけようとする。
しかしその分だけ彼が顔を近づくので、空いた距離はすぐに埋められてしまった。
「俺は本気だが?」
「そ、んな事……急に、仰られましても」
本当は冗談も程々にと忠告しようと思ったのだが、ゲラの彼が笑うことなく真っ直ぐと私を見つめている事に気付き、私の頬はじわじわと赤くなっていった。
「嫌か?」
「そのような事は」
「だろうな。王族からの申し出を断れる者はいない。俺がこう言った時点で、君はそう答えるしかない」
「ほ、本当に、そのつもりが……!?」
「さっきからそう言っているだろ? いい加減、覚悟を決めろ」
悪足掻きにもう一度真意を問うも、美しい顔が更に近づけられた。
――ああ、逃げられない。
そう悟るのに、不思議と嫌な気持ちは一切なく。
寧ろ高鳴る鼓動と無意味に浮ついた気持ちに困惑させられる。
柔らかな感触が私の唇に触れた。
それから頭や頬を優しく撫でられる。
異性に、こんな風に優しくされたのは初めてだった。
「離すつもりも逃がすつもりもない。精々、俺を楽しませ続けてくれよ? ――エリーザ」
普段よりも低く艶っぽい声が耳を擽る。
同時に私は悟った。
私はこれから、愉悦好きの王太子殿下に翻弄され続けるのだろう――と。
尚この後、偽りの悪評を流したグスタフとドロテーの社会的地位は下落し、両親に叱られた挙句虫に集られるようになったグスタフが関係修復を申し出て来る。
それをクラウス殿下が凍えるような視線と言葉で薙ぎ払う事となるのだが……
――それはまた別の話である。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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それでは、またご縁がありましたらどこかで!




