それは静かに始まった。
「……また食われてる……」
眠い目をこすりながら台所に入ると、かなが冷蔵庫の前でプリンを咥えていた。
「おはよ〜晴人くん。朝のエネルギー補給は大事だよね♪」
「それ俺の朝ごはん。あと、霊のくせにカロリー気にすんな」
「失礼な〜、ウチだって成分くらい気になるし〜」
どこまで本気なんだか。
食う霊、寝る霊、テレビ見て笑う霊……全部、目の前のギャル霊の話である。
除霊師の家に生まれて、こんな朝が普通になってる自分が一番こわい。
「ねぇ晴人くん、今日も依頼あるの? ウチ、ヒマなんだけど〜」
「さすがにそんな毎日は来ないって……」
そう答えながら、スマホを手に取る。
未読メッセージが1件。差出人:佐伯さん。
胸の奥に、わずかな冷たさが走った。
なんとなく――予感があった。
『またひとつ、気になる場所があるんだ。時間のあるときに見てきてくれ』
佐伯さんからのメッセージには、住所と『空き家』『気配』『住民なし』とだけ書かれていた。
曖昧すぎる。けど、そういう案件こそ変な霊が出る。経験上、そういうものだ。
「で? どんな依頼?」
かながプリン片手に、スマホを覗き込んできた。
「空き家に“気配”があるんだとさ。詳細はなし」
「またそういうアバウト系〜?」
俺は軽くため息をついて、椅子にもたれた。
ここ最近、祓えない代わりに“話を聞く除霊師”として妙な知名度がついてきた気がする。
「でも、今回は……なんとなく、嫌な感じがするんだよな」
「え? なになに? 霊感的な勘?」
「そうじゃなくて……ただの、気配。なんか静かすぎるっていうか……」
「ふーん。じゃあ、ウチも一緒に行こっか!」
「当然行く気だっただろ」
にっこり笑うかなの横で、俺のスマホがもう一度鳴った。
『もし今日中に無理そうなら、早めに連絡を』
早めに片付けたほうがいい。
でも――本当に、ただの“気配”だけなのか?
現場は、街のはずれにあるアパートの一室だった。
外観は古びているが、壊れているわけでもない。
人が住まなくなって時間が経った、というだけの場所。
でも――ドアを開けた瞬間、空気が変わった。
「……静か、だな」
「だね……。なんか、音が吸い込まれるみたい」
かなの声も、やけに響く。
廊下の奥まで、誰もいないのに気配だけが張りついているような、そんな空間。
ゆっくりと部屋の中を見渡す。
家具はなく、ほこりっぽい匂いが鼻をついた。
けれど、それ以上に――何かが“いないはずなのに、いる”。
「なあ、かな。見えるか?」
「……ううん。なーんにも。むしろ、見えなさすぎて怖い」
彼女が霊としてそう感じるのなら、そこに“なにか”はいる。
ただ、それがまだ現れようとしていないだけ。
ふと、壁の隅――カーテンのかかった窓に目をやった。
そこだけ、わずかに空気が揺れていた。
でも風なんて、吹いていないのに。
結局、今日は“何も見えなかった”。
けど……俺は確かに感じていた。
背中にまとわりつくような空気の重さ。
足元をなぞる気配。
息を吸うたび、何かが俺の中に入り込んでくるような感覚。
「……今日は、これ以上はやめとこう」
「だね。ウチも正直、これ以上は居たくない感じ」
ドアを閉めた瞬間、外の空気が妙にあったかく感じた。
中が、それだけ異常だったってことだろう。
「でもさ、晴人くん」
かながぽつりと呟く。
「“見えない”って、一番こわいよね」
「……ああ、わかる」
見えないから正体がわからない。
わからないから、余計に不安になる。
油断すれば、すぐ飲み込まれそうになる――そういう“何か”。
明日は、もう一度ここに来ることになる。
次はきっと、“何か”が出てくる。
そう思って、俺は一度だけ振り返った。
カーテンの隙間が、かすかに――揺れていた。