「ありがとう、って言いたくて」
朝の光が、アパートの障子越しにやさしく差し込んでいた。
静かな空気の中、俺は再びあの部屋の前に立っていた。
3度目の訪問。慣れたようで、やっぱり少しだけ緊張する。
「……入るぞ」
ドアを開けると、かなはそこにいた。
いつものように跳ねて飛び出してくるわけでも、テンション高く話しかけてくるわけでもない。
ただ、にこっと笑って、そこに立っていた。
「おはよ、晴人くん」
「……お、おう。おはよう」
その笑顔は、どこか柔らかくて――少しだけ、さみしそうだった。
「昨日ね、すっごく泣いちゃったけど……」
「……うん」
「でも、なんかね、晴人くんが言ってくれたこと、ちゃんと届いてた」
ゆっくりとした口調。浮ついたギャル語も、今日は封印されている。
「今日はね……ちゃんと、伝えたいことがあるんだ」
「ウチね……」
かなは、畳の上にそっと腰を下ろした。
昨日までと同じ場所。でも、まるで空気が違う。
「たぶん、ずっと怖かったんだ」
「消えるのが、じゃなくて――誰にも気づかれずに終わっちゃうことが」
声は落ち着いていて、でも震えそうな感情がところどころに滲んでいた。
「ずっと誰かと繋がってたいって思ってたけど……本音はずっと、言えなかった」
「明るくして、笑って、バカみたいにしゃべって……
でも、本当はずっと、さみしかった」
俺は黙って、ただうなずいた。
彼女の言葉が、ひとつひとつ、自分の中に染み込んでくる。
「晴人くんが、ちゃんと聞いてくれて……ウチ、ほんとに嬉しかった」
「……ありがとう」
最後の一言は、小さくて、震えていて、でもちゃんと届いた。
その瞬間だった。
部屋の空気が、ふっと変わった。
かなの身体が、かすかに光を帯びはじめる。
輪郭が淡く揺らいで、透明感が強くなっていく。
「……あ、やっぱ来たかも」
「来たって、なにが……」
「ウチ、たぶん……行ける」
かなは、まっすぐに俺を見つめて、にこっと笑った。
「ねえ、晴人くん。もし、また会えたらさ――そのときは、ちゃんとデートしてよ?」
「なっ……!?」
「あはは、冗談だってば。でも……それくらい、嬉しかったの」
光が強くなる。
もう、声もかすかにしか聞こえない。
「じゃあ、またね」
最後に残ったその言葉が、優しく響いて――
かなの姿は、ゆっくりと光の粒になって、空気に溶けていった。
部屋には、もう誰もいなかった。
光の粒が消えたあと、ほんのわずかの静けさが訪れた。
俺は立ち尽くしたまま、しばらくその場を動けなかった。
胸の中が、あったかくて、ちょっとさみしくて。
でも、それは悪い気持ちじゃなかった。
「……成仏、したんだな」
声に出してみて、やっと実感が湧いてきた。
今回ばかりは、ちゃんと“救えた”気がする。
俺にできることなんて、話を聞くことくらいだけど。
それでも、誰かの力になれるなら――それでいい。
ドアを閉め、外に出たとき、夕焼けが街をオレンジ色に染めていた。
その色が、ほんの少しだけ目にしみた。