第4節 「ありがとう、って言いたくて」
朝の光が、アパートの障子越しにやさしく差し込んでいた。
静かな空気の中、俺は再びあの部屋の前に立っていた。
3度目の訪問。慣れたようで、やっぱり少しだけ緊張する。
「……入るぞ」
ドアを開けると、かなはそこにいた。
いつものように跳ねて飛び出してくるわけでも、テンション高く話しかけてくるわけでもない。
ただ、にこっと笑って、そこに立っていた。
「おはよ、晴人くん」
「……お、おう。おはよう」
その笑顔は、どこか柔らかくて――少しだけ、さみしそうだった。
「昨日ね、すっごく泣いちゃったけど……」
「……うん」
「でも、なんかね、晴人くんが言ってくれたこと、ちゃんと届いてた」
ゆっくりとした口調。浮ついたギャル語も、今日は封印されている。
「今日はね……ちゃんと、伝えたいことがあるんだ」
「ウチね……」
かなは、畳の上にそっと腰を下ろした。
昨日までと同じ場所。でも、まるで空気が違う。
「たぶん、ずっと怖かったんだ」
「消えるのが、じゃなくて――誰にも気づかれずに終わっちゃうことが」
声は落ち着いていて、でも震えそうな感情がところどころに滲んでいた。
「ずっと誰かと繋がってたいって思ってたけど……本音はずっと、言えなかった」
「明るくして、笑って、バカみたいにしゃべって……
でも、本当はずっと、さみしかった」
俺は黙って、ただうなずいた。
彼女の言葉が、ひとつひとつ、自分の中に染み込んでくる。
「晴人くんが、ちゃんと聞いてくれて……ウチ、ほんとに嬉しかった」
「……ありがとう」
最後の一言は、小さくて、震えていて、でもちゃんと届いた。
その瞬間だった。
部屋の空気が、ふっと変わった。
かなの身体が、かすかに光を帯びはじめる。
輪郭が淡く揺らいで、透明感が強くなっていく。
「……あ、やっぱ来たかも」
「来たって、なにが……」
「ウチ、たぶん……行ける」
かなは、まっすぐに俺を見つめて、にこっと笑った。
「ねえ、晴人くん。もし、また会えたらさ――そのときは、ちゃんとデートしてよ?」
「なっ……!?」
「あはは、冗談だってば。でも……それくらい、嬉しかったの」
光が強くなる。
もう、声もかすかにしか聞こえない。
「じゃあ、またね」
最後に残ったその言葉が、優しく響いて――
かなの姿は、ゆっくりと光の粒になって、空気に溶けていった。
部屋には、もう誰もいなかった。
光の粒が消えたあと、ほんのわずかの静けさが訪れた。
俺は立ち尽くしたまま、しばらくその場を動けなかった。
胸の中が、あったかくて、ちょっとさみしくて。
でも、それは悪い気持ちじゃなかった。
「……成仏、したんだな」
声に出してみて、やっと実感が湧いてきた。
今回ばかりは、ちゃんと“救えた”気がする。
俺にできることなんて、話を聞くことくらいだけど。
それでも、誰かの力になれるなら――それでいい。
ドアを閉め、外に出たとき、夕焼けが街をオレンジ色に染めていた。
その色が、ほんの少しだけ目にしみた。




