第5節 ただいまが増える
佐伯さんの相談所を出た瞬間、夜の空気が「自由」を装って顔に当たった。
自由の顔って、だいたい冷たい。
バッグが肩に食い込む。中身はノートと鉛筆と、あの薄い「条件」だ。紙切れのはずなのに、重さだけは妙に正直だった。
人間は、期限が見えると急に現実を信じ始める。
現実ってのは、だいたい数字の顔をしている。
「ねえねえ、晴人くん。帰り道テンション低すぎじゃない?」
隣で、かなが跳ねる。幽霊のくせに足音がしそうな勢いで。
「低くない」
「嘘。今の声、床に落ちてた」
「拾うな」
「拾う〜☆ はい、拾った。『一週間』と『三日』と『止める』」
口にするな、と思った。
でも、こいつは俺の頭の中を勝手に要約するのが得意だ。得意というか、性格が悪い。
「……言うな」
「言わないと忘れるじゃん」
「忘れねぇよ」
言い返しながら、無意識にストラップを握り直す。バッグを前に回して、ファスナーに指がかかった。
開けたい。中身を確認して安心したい。人間の安堵は、だいたい「確認」でできている。
でも――今、開けたら、もっと重くなる気がした。
指を離す。
「開けないの?」
「帰ってから」
「帰ったら開けるの?」
「……うるさい」
かながニヤニヤして、前を向いた。笑いながら、目だけがこっちを見ている。そういうのが腹立つ。
歩道の端で、風が一枚、薄くなる。
消毒液みたいな匂いが、ほんの少しだけ混じった。
気のせいだ。そう思った瞬間に、鼻の奥が「気のせいじゃない」を覚えているのが分かった。
俺は肩で息をして、歩幅を変えないようにした。怖がったら、負けみたいな気がしたからだ。
「……寒くない?」
「寒いって言えば寒いし~、寒くないって言えば寒くな~い☆」
「どっちだよ」
「晴人くんの背中が、さっきから固いってこと〜」
背中が固いのは、寒いからじゃない。
「見てる」って言ったからだ。
「抱え込むな」って言われたからだ。
守るって、だいたい面倒くさい。
面倒くさいけど、守らないと壊れるものがあるのも分かってしまった。
アパートの前に着く。階段を上がるたび、バッグが肩に「まだあるぞ」と言ってくる。
鍵を出して、鍵穴に差し込む。
(今日は平和で頼む……)
そう願う時点で、平和じゃない。
鍵を回す音が、やけに大きく響いた。
「……ただいま」
返事は、ある。
「おかえり〜」
かなの声が部屋の奥から飛んできた。
玄関の明かりだけが点いている。部屋の中は暗い。俺は靴を脱ぎながら、ため息を押し殺す。
「お前、先に帰ってるなら電気つけとけ」
「つけるとさ〜、夜の雰囲気が死ぬじゃん?」
「死ぬのは俺の疲れだ」
「生きて生きて〜☆」
かなは姿を見せない。声だけで踊ってる。
俺はバッグを床に置いて、肩を回した。沈む重さが、床に移っただけで消えたわけじゃない。
かなが、気配だけでバッグに寄ってくる。
「で、今日の『監督材料』は?」
「……触るな」
「触らないよ? 見守ってるだけ」
「それを触るって言う」
暗闇の中で、かなが笑う気配がした。
「晴人くんさ、真面目だよね」
「真面目にしないと、止められる」
「止められたくないんだ」
「……祓うのは嫌だ」
言ってから、口の中が乾いた。
「祓う/祓わない」の話を、またここでやりたくない。答えは出した。条件も飲んだ。あとは――見るしかない。
「見るって、何を?」
「変化」
「変化がなかったら?」
「……『変化なし』って書く」
暗い部屋で言うと、その一行がやけに重く聞こえた。
「変化なし」は安心の言葉のはずなのに、今は「何も分かってない」の別名みたいだった。
かなが、少しだけ声の調子を落とす。
「……晴人くん、さ。ちゃんと寝てね」
「誰が言ってんだ」
「幽霊だよ」
「説得力ねぇ」
「あるよ。寝ない人間から先に壊れるって、佐伯さんも言ってたでしょ」
言ってない。けど、言ってそうではある。
俺は舌打ちしたくなるのをこらえて、壁のスイッチに手を伸ばした。
夜の公園は、音が少ない。
虫の声が薄くなって、風もやめると、世界は自分の呼吸の分だけ狭くなる。
街灯の下、ベンチに夕月は座っていた。
誰かがそこに置いたみたいに、姿勢が整っている。背筋が伸びて、手は膝の上。目線だけが定まらない。
周囲を見ているのに、何も探していない。探す目的の方が、どこかへ落ちてしまった。
夕月は、ゆっくりと手を握った。
指先の感覚はある。冷たい。硬い。自分の手のくせに、借り物みたいだ。
影が、足元に落ちている。街灯の明かりに、ちゃんと伸びている。
――消えていない。
確かめるように、夕月は小さく言った。
「……消えない」
声は乾いていた。誰かに聞かせるためじゃない。自分の存在を、自分に言い聞かせているだけだ。
そのまま、時間が少しだけ進む。
進んだ分だけ、冷えが濃くなる。
空気が、一枚薄くなる。
肌に触れるものが減ったみたいに、呼吸が落ち着かない。薄い膜の向こうで世界が動いているのに、こちら側だけ置いていかれる感じがする。
匂いが混じった。
消毒液みたいな、あの匂い。鼻の奥に残る、冷たい清潔さ。
夕月は眉を寄せ、腕を抱いた。寒さに耐えるというより、外から押されるものを押し返すみたいに。
「……寒い」
立たない。
立ってどこへ行くか、分からないから。
それでも、空気は薄くなる。匂いは濃くなる。
世界が、ここに居ることを許さなくなっていく。
人は、居場所を失った時に初めて居場所を意識する。
幽霊も、あまり変わらないらしい。
もう一度、風が止んだ。
静けさが、押しつぶすみたいに重くなる。
匂いが、ひとつ段を上がる。
清潔なはずの匂いが、ここでは傷みたいに感じた。空気の薄さと一緒に、喉の奥へ貼りついてくる。
夕月は、ベンチの端に指をかけて、立ち上がろうとして――一瞬、止まった。
足元が、見えない水に沈んでいるみたいに重い。
それでも、言葉だけが先に出た。
「……ここ、だめ」
拒否というより、判定だった。
夕月は立つ。
街灯の輪の外へ一歩出た瞬間、背中に冷えがまとわりついた。薄い空気が追いすがってくる。
視線が自然に、遠くへ向く。
公園の外。住宅の並び。小さな明かりの集まり。
その中に、ひとつだけ温度の違う光がある気がした。
何かを思い出したわけじゃない。名前があるわけでもない。けれど、そこだけは――
胸のあたりが、ふっとほどける。
「……落ち着く」
夕月は歩き出した。
足音はしない。けれど、歩幅はちゃんと前へ進む。迷っているのに、引かれていく。
公園の街灯が背中で小さくなる。
薄い空気と匂いも、少しずつ離れていく……はずなのに、完全には消えない。背中に、細い糸みたいに残り続ける。
道を渡る手前で、夕月は一度だけ立ち止まった。
人のいない横断歩道は、妙に現実的だった。白い線が、ここが生活の場所だと言っている。
夕月は、その線を越えた。
明かりが近づく。
暖かい気配が近づく。
そして――そこから先は、言葉にしない方がいい気がした。
理由が言葉になった瞬間に、ほどけてしまうものがある。
夕月は、ただ一度だけ、同じ言葉を胸の中で繰り返した。
(……落ち着く)
部屋の明かりは点いているのに、奥の空気だけが薄い。
さっき玄関で感じた冷たい清潔さ――消毒液みたいな匂いが、壁紙の裏にまで染みたみたいに残っていた。
俺はバッグの口を少し開けて、ノートの端を確かめた。
紙の手触りはいつも通りで、そこだけが現実だった。
確認しろ。
期限まで一週間。三日ごとに報告。止めるライン。
そういう言葉が、頭の中で鳴る。
かなが、部屋の隅から見ている気配がした。声は軽い。
「まだ気にしてる」
俺は返事をしなかった。返事をしたら、気にしてることが確定する。
確定は便利で、便利は怖い。怖いものほど、簡単に名前がつく。
「確認する」
言いながら、靴を履いた。
かなが何か言いかけて、結局言わなかった。そこだけが少しだけ、本当に幽霊っぽかった。
「すぐ戻る」
玄関を出て、階段を下りる。夜は冷たい。冷たいのに、妙に落ち着く。
人間は、動いていると「やってる感」に騙される。俺も例外じゃない。
公園までの道は短い。短いのに、やけに長く感じた。
街灯の下をいくつもくぐるたびに、影の形が変わる。影ってのは、存在の証明みたいで腹が立つ。
公園に着いた。
ベンチは、そこにある。
街灯も、そこにある。
風も、ある。
でも――夕月はいない。
俺はベンチの前で立ち止まって、視線を左右に動かした。
見落としはない。誰もいない。座っている影もない。
匂いだけが残っている。薄い消毒の匂い。
空気の薄さも、ほんの少しだけ残っている。
「居た」痕跡だけが、いやに丁寧だ。
喉の奥が冷たくなる。
最悪の想像が、勝手に先回りしてくる。
(……消えた?)
声にしない。声にしたら、本当にそうなる気がした。
俺は深く息を吸った。肺の中の空気が、いつもより硬い。
それから、肩の力を抜くふりをした。
消えたなら、匂いだけ残るか?
残ることがあるなら、移動することもある。
最悪じゃない。
――でも、厄介だ。
俺は踵を返した。
確認して、空振りして、帰る。面倒くさい作業のひとつとして、身体に叩き込む。
「祓わない」は、放置じゃない。
見張るってのは、こういうことだ。
アパートの階段を上がる足が、さっきより重い。
それでも帰る。帰らない理由がない。帰った先が一番、現実だからだ。
鍵を差し込む。
回す。
扉の向こうから、生活の匂いがした。
洗剤と、部屋干しと、いつもの散らかり――その中に、さっきの消毒みたいな匂いが一筋だけ混じっている。
「……ただいま」
声が、思ったより小さかった。
「おかえり〜」
かなの返事はいつも通り軽い。
軽いのに、どこか落ち着きすぎている。軽口の角度が、ほんの少しだけ整っている。
靴を脱ぎながら、俺は部屋の奥へ視線を投げた。
投げた視線は、途中で固まった。
ソファのあたり。
薄い空気の場所。匂いの筋。
そこに、夕月が座っていた。
さっき公園にいた時と同じように、姿勢が整っている。
まるで最初からここが定位置だったみたいに。
夕月が、ゆっくりと顔を上げた。
目が合うまでに、一拍遅れる。
「……おかえり」
かなが、笑っている気配がした。
いや、笑ってない。笑いを我慢している気配だ。そっちの方が腹立つ。
俺は息を吸って、吐いた。
整理が追いつかない。追いつかせたくない。追いついたら、次にやることが増える。
口から出たのは、ツッコミじゃなくて、状況報告に近い言葉だった。
「……どうしてこうなった」




