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第4節 境界線の上で

 佐伯さんの相談所は、いつ来ても整ってる。

 机の上に余計なものがなくて、書類の角が揃ってて、空気に無駄がない。事務所特有の昼白色の光が、影を作らずに床を平らにする。


 俺はドアの前で一度だけ息を整えてから、ノックした。


「……どうぞ」


 中に入ると、佐伯さんは白衣の袖を軽くまくったまま、ファイルを閉じるところだった。紙が擦れる音が、部屋の静けさを仕事に変える。


「来てくれて助かる。座って。無理してないか?」

「大丈夫です」


 言いながら、椅子に腰を下ろす。背もたれがやけに真面目な角度で背中を支えた。


「……顔、疲れてるな」


 責める声じゃない。むしろ、当たり前の事実を言ってるだけの声。


「寝不足で」

「だろうな。そういうのが一番危ない」


 佐伯さんは、俺の言い訳を切るんじゃなくて、言い訳が出ない場所に話を置く。

 「疲れてる」は、怪異より先に人を壊す――そういう現実を、さらっと渡してくる。


「報告、少し空いた。責めたいわけじゃない。状況だけ教えてくれ」

「……はい」


 かなが、壁際の棚の上に腰を下ろして、足をぶらぶらさせている。

 俺にしか見えないくせに、堂々としたやつだ。


(ほらほら〜、頼れる大人来たよ〜?)

(黙れ)


 目線だけで制すると、かなは口を尖らせて、でも大人しくした。


「今の様子は。落ち着いてるか」

「……今は、落ち着いてます」

「近所は? 変な噂、増えてないか」


 第三者への影響。言葉にしなくても、聞かれているのはそれだと分かる。


「出てないです。……目は離してません」


 佐伯さんは、少しだけ頷いた。


「『目を離さない』のはいい。……でも、それだけだと、君が潰れる」

「……ありがとうございます。気をつけます。

 でも、放ってはいません。毎日、変わったところがないか見てます」


 言ってから、自分の声が少し乾いているのに気づく。

 俺は様子を見てるって言った。だけど、ただ眺めてるわけじゃない。怖いから見てる。消えないように見てる。危なくならないように見てる。


 ――書けば安心する。人間は、だいたいそういう生き物だ。

 なのに最近は、その安心のための言葉ほど、信用できない。


 ふっと、一瞬だけ空気の温度が落ちた。

 消毒液みたいな匂いが、ほんのわずかに混ざる。気のせいと言い切るには、鼻の奥が覚えてしまう匂い。


 佐伯さんの視線が、机の上からふと上がる。何かを見たというより、何かに気づいた目だ。

(……見えてたのか)

 でも、佐伯さんはそれを口にしない。口にすると逃げるものがある、と知ってるみたいに。


「……記録。取ってるか?」


 制度の言葉が、やっと出た。怒鳴らない。詰めない。ただ、確認するだけ。


「……書いてます」


 俺が言うと、かなが耐えきれずに小声で笑った。


(うわ、頼れる大人ムーブ)

「……」


 佐伯さんは、ほんの少しだけ口角を上げる。乾いた笑いの形。


「褒めるなら後で。……で、記録、あるな?」


 かなの軽口を、一言で受け流して、そのまま話を戻す。

 空気が崩れない。むしろ、締まる。


「あります」

「見せてくれ。君が抱え込みすぎないために」


 君のためという言い方で、逃げ道を塞ぐ。

 頼れる人ほど、優しい顔で現実を渡してくる。

 俺はバッグの口を開いて、ノートを取り出した。


「……分かりました」


 机の上に置いた瞬間、紙の表面が、妙に軽く見えた。

 中身が言葉として残っていないことを、俺だけが知っている。

 それでも――凹みは残る。影は拾える。

 俺はページを開いた。




 インクのはずの線が、薄く、ところどころで途切れている。

 ……読めそうで、読めない。

 佐伯さんは身を乗り出しもせず、距離を保ったまま目を落とした。仕事の目だ。


「……これが記録か」

「はい。書いたはずなんですけど……残りません」


 佐伯さんは、驚きもしない。眉だけが、ほんの少し動く。


「この手のは、だいたい意味から抜ける」


 淡々とした言い方が逆に怖い。俺が必死に抱えてきた違和感に、名前が付けられたみたいだった。


「写真は?」

「もう試しました。写るのは紙だけで、肝心なところが残らないです」


 かなが棚の上で腕を組んで、得意げに足を揺らす。


(ほらー、言ったでしょ。紙のこと嫌いなんだって)

(黙れ)


 佐伯さんは、小さく頷いた。


「だろうな。……念のため」


 白衣のポケットからスマホを出し、ためらいなく一回だけ画面をこちらに向ける。

 シャッター音はしない。設定のせいか、あるいは――。


 画面にはノートが写っている。罫線も、指先も、紙の黄ばみも。

 ただ、文字のあるはずの部分だけが、白く抜けていた。消しゴムでこすったみたいに。

 俺は変な笑いが出そうになって、喉の奥で噛み殺した。


「……ね?」

「うん」


 佐伯さんはスマホを伏せる。困った顔はしない。ただ、確認が終わった顔をした。


「型は同じだ」


 紙は写るのに、意味だけが写らない。

 人間の安心って、たいてい意味のほうに寄りかかってるから、こういうのは性格が悪い。


「で、凹みは残るか」

「……残ります」

「見せて」


 俺は鉛筆を取り出して、ページの上を横に擦った。力を入れすぎない。紙を破いたら、それこそ全部終わる。


 薄い影が浮かぶ。線じゃない、くぼみの輪郭。

 文字ではなく痕跡が、ページの上に立ち上がる。


「……読めるな」


 佐伯さんの目が、ほんの一瞬だけ鋭くなる。読む速度が変わった。

 俺も、同じ場所を追う。確かにそこには――「書いた」がある。


「読めます。けど……」


 俺が言い切る前に、佐伯さんが小さく息を吐いた。


「口にすると、抜ける」


 佐伯さんは影の列を指でなぞるように見て、言いかけて止まった。

 言葉が、舌の先まで来ているのに、掴めない。


「……今、何て書いてあった?」


 自分に苛立ってるんじゃない。現象を確かめているだけの声。


「分かってるのに……言えない感じです」


 俺の中でも同じだ。理解はある。でも、言葉にしようとすると、霧みたいにほどける。

 ――紙に書けば安心する。口に出せば確かになる。

 そんな人間の小さな迷信が、ここでは通用しない。


 かなが、面白がるでもなく、妙に真面目な顔で呟いた。


(証拠化させない系だね)


 佐伯さんは、それを咎めもしないで、影の残り方をもう一度だけ見た。


「……これは証拠にならない」


 制度の言葉で言えば、正しい。

 でも俺は、首を振った。


「証拠じゃなくていいです」


 佐伯さんが視線を上げる。確認する目。


「……何のために残してる」


「変化を追うためです。危なくなったら分かるように」

「読めなくても?」

「凹みが残る。昨日と違えば分かる。ズレは追えます」


 佐伯さんは黙って、ページの端を指先で軽く押した。

 そこにある薄い確かさを、測っている。


「分かった」


 言い切る声は柔らかいのに、逃げ道が消える感じがした。


「証拠じゃない。監督の材料として扱う」


 佐伯さんはノートから目を離し、俺を見る。


「……次は条件を決める」

「はい」


 俺は鉛筆を置いた。

 紙の上には、読めないくせに消えない影が残っている。




 佐伯さんは、ノートから目を離して俺を見た。

 「分かった」と言う時の目だ。でも、それは許す目じゃない。整理して、箱に入れて、落ち着くべき場所へ戻そうとする目だ。


「……ここまでやってるのは、正直えらい」


 褒め言葉みたいに聞こえるのに、背中が伸びた。

 褒められると人は油断する。だからこの一言は、油断を殺すための合図でもあるんだと思った。


「ただし、これは証拠にはならない。そこは変わらない」

「分かってます」


 佐伯さんは頷く。責めない代わりに、事実だけを置いていく。


「それでも、監督の材料にはなる。……今は処理を保留する」


 「今は」。

 その二文字で、部屋の空気がきゅっと締まる。猶予は許可じゃない。期限付きの保留だ。


「……ありがとうございます」

「礼はいらない。代わりに、条件を付ける」


 そこから先は、優しい声のまま、逃げ道が閉じていった。


「一つ。期限。まず一週間で見直す」

「一週間……」


 短い。短いけど、長くも感じた。

 人間は、期限が見えると急に現実を信じ始める。現実って、だいたい期限の顔をしている。


「二つ。定期報告。三日に一回でいい。口頭じゃなく、残る形で」


 俺は一瞬、ノートの薄い文字を思い出して口を噛んだ。


「……凹みを擦ったやつ、持ってくればいいですか」

「それでいい。君の頭の中だけにするな」


 「抱え込むな」を、佐伯さんは別の言葉で言った。

 大人の気遣いは、だいたい箱を用意する。箱の外にあるものは、事故になるからだ。


「三つ。介入ライン」


 佐伯さんは指を三本立てる。落ち着いた手つきのまま。


「近所に影響が出た。ズレが強くなった。兆候が増えた——その時は俺が止める」


「……分かりました」


 頷くと、もう戻れない気がした。

 でも、その「戻れない」は、怖さだけじゃない。守りの形でもある。


「守るためだ。君も、周りも」

「はい」

「抱え込むな。抱え込んだら、判断が遅れる」

「……気をつけます」


 かなが棚の上で小さく息を吐いた。珍しく、ふざけない。


(条件って、縄だよね)

(……守る縄だ)


 心の中で返すと、かなは一瞬だけ目を丸くして、すぐにそっぽを向いた。

 俺は一度だけ息を吸った。

 佐伯さんの条件を受けるのは、負けじゃない。だけど――譲れないものがある。


「……条件、守ります」


 言うと、佐伯さんは少しだけ目を細めた。頷くでもなく、促すでもなく、続きがあるのを待つ目。


「でも、祓いません……」


 部屋が静かになる。

 怖い静けさじゃない。測られる静けさだ。

 俺は続けた。ここで止まったらただの反抗になる。


「残す方法を探します。危なくならないように」


 佐伯さんは、しばらく黙っていた。

 ――大人は、すぐに答えない。答えを出すことで責任が生まれると知っているからだ。人間の賢さは、だいたい面倒くささと同じ場所に住んでいる。


「……分かった」


 短い。重い。


「なら、その条件でやれ」

「はい」


 俺が答えると、かながようやくいつもの調子で、口の端を上げた。


(除霊師じゃなくて、記録師かもね)

(うるさい)


 佐伯さんは、ほんの少しだけ笑ったように見えた。


「……悪くない。少なくとも、放置よりはずっといい」


 佐伯さんは椅子の背に軽く寄り、最後に念を押すみたいに言った。


「一週間後、また来い。……そのノートも忘れるな」

「分かりました」


 ノートを閉じると、紙の軽さが戻った。

 中身は薄い。けれど、痕跡は残る。期限も残る。

 抱えるべき重さは、こっちだ。


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