第3節 それぞれの未練
鍵を回す音が、やけに大きく響いた気がした。
「……ただいま」
返事なんてあるはずがない。――いや、ある。
「おかえり〜☆」
部屋の奥から、勝ち誇ったみたいな声が飛んできた。
「……いや、お前さっきまで隣にいたろ」
「幽霊の特権〜☆ 先に帰ってプリン冷やしといた!」
「冷蔵庫を私物化すんな」
「え〜? じゃ晴人くんの胃袋を私物化する〜☆」
「やめろ、言い方」
電気をつけると、いつもの狭い部屋がいつもの顔で戻ってくる。玄関の靴、流し台のコップ、畳まれていない洗濯物。現実ってのは、こういう細かい散らかり方でできてる。
なのに――胸の奥だけ、まだ公園のままだった。
あの夜の静けさ。風の層が一枚、剥がれた感覚。音が遠くなって、匂いが途切れて、世界が呼吸を止めたみたいになって――その中で聞こえた、細い声。
『……はる、……と』
かなが冷蔵庫を開ける。いつも通りの、軽い音。
「で、今日の夜イベント、どう思った?」
プリンを片手に、かなが首を傾げる。ふざけた問い方なのに、聞いているのは俺の反応だと分かるのが腹立つ。
「イベント扱いすんな。……静かだった」
「静かって逆に怖いやつ〜」
俺は靴を揃えながら、言葉の続きを探した。でも、続きを言えば言うほど、あの静けさに戻ってしまう気がして、口が止まった。
かなはプリンのフタを器用に開ける。スプーンの音が、台所の空気を現実に戻す。
「ね、晴人くんも食べる? ……てか、その顔。今日、なんか刺さったでしょ」
「刺さってねぇ」
「嘘。刺さってる顔〜☆」
「……うるさい」
言い返しながら、俺の手は勝手にスマホへ伸びていた。
画面を開いて、メモアプリを開く。指先が、勝手に動く。思い出そうとしているわけじゃない。むしろ、思い出したいんじゃない。
消えるのが、嫌なだけだ。
「え、なに? 日記? 恋の記録?☆」
かなが覗き込んでくる。頬にプリンをつけたまま。なんでこいつは、こういう時に限って生きてるみたいに見えるんだ。
「違う。……消えるのが嫌なだけ」
「なにそれ、詩人〜」
「うるさい」
指先で打つ。
『……忘れたのに』
あの言葉の形だけを、置いておきたかった。意味じゃなくて、温度。胸に手を当てた仕草。途切れた呼吸。言いかけて止めた、あの一拍。
「それ、夕月ちゃんのやつ?」
「……そう」
保存。これでいい。これで――
「……よし」
自分で言ってから、妙に乾いた声だと思った。
「残った? それ」
「……」
俺は、閉じたメモアプリを開いた。
――。
「……は?」
そこにあるのは、タイトルだけだった。
本文が、空っぽ。
「どした?」
「タイトルだけだ。……中、空」
「え、なにそれ。バグ? 霊障? ウケる〜☆」
「笑うな。今、打っただろ」
「打ってた打ってた。めっちゃ真顔で☆」
もう一回。今度は少し丁寧に。
『……忘れたのに』
保存。開く。
――。
「……また空」
背中の奥が、薄く冷たくなる。怖い、とは違う。現実の地面が、一瞬だけ頼りなくなる感じ。
「残させてくれない系〜?」
「……残らない、のか」
俺はスマホを伏せた。画面を閉じるんじゃない。伏せる。見ない。――あの空っぽに、視線を吸われたくなかった。
かなは笑っている。でも、笑いながら目だけがこっちを見ているのが分かった。
「じゃあさ、スクショ撮れば?」
「……スクショも、たぶん同じだ」
「なんで分かるの」
「……分かんねぇけど」
言った瞬間、自分の声が少し遠かった。
残らないなら、残る形にする。
俺は立ち上がって、引き出しを開ける。ペン。紙。コンビニのレシート。何でもいい。現実の物に触れさせる。
「……紙にする」
「昭和〜! でも強そう☆」
かながプリンを揺らしながら、妙に嬉しそうに言った。幽霊のくせに「強そう」とか言うな。
俺はレシートの裏に、たった一行だけ書く。
――『……忘れたのに』
文字が、そこに残った。
「お、そっちは残った?」
「ああ……残った」
息が、少しだけ戻る。ほんの少しだけ。
でも、書いた字を見て、眉が勝手に寄った。
「……俺の字、こんなんだっけ」
いつもより、わずかに角が丸い。滲み方が、妙に柔らかい。インクのにじみが、紙の繊維じゃなく、別の層に吸い込まれていくみたいに見える。
「え、こわ。字まで霊障?☆」
「霊障とか言うな」
「でもさ、スマホは消えて、紙は残るってさ〜……なんかさ〜」
かなの声が、少しだけ遅くなる。
俺は答えない。言葉にした瞬間、あの静けさが戻ってくる気がして。
かながスプーンを止める。空気が一拍、止まる。
それから、かなはほんの少しだけ、声の温度を落とした。
「……消えるの、イヤなんでしょ」
その一言が、紙の文字よりはっきり胸に残った。
俺は否定できなかった。否定する理由がない。
「……ああ」
かなは、すぐに笑う。戻し方が雑なくらい、いつものかなに戻る。
「ま、じゃ消えない方でいこ☆ ほらプリン、溶ける前に食べよ〜」
「お前、戻り方が雑なんだよ」
「雑がウチの味〜☆」
俺は溜息をついて、レシートを丁寧に折った。二つ折り、もう一回。角を揃える。折り目を作る。現実の手触りで、固定する。
スマホケースの内側に、差し込む。見えない場所。けど、いつでも触れられる場所。
プリンの甘い匂いが、部屋に広がる。日常の匂い。現実の匂い。
俺は折った紙の上から、親指で軽く押さえた。
「……思い出せなくてもいい。今日の分だけ、消さない」
「うん☆ それでいーじゃん」
「正解とか言うな。……まだ何も分かってねぇ」
「分かんないままでも、残しとこ☆」
スプーンがカップに当たる音がする。
その音が、さっきまでの静けさを、少しずつ遠ざけていった。
夜の空気は、二日前と同じ匂いのはずだった。
同じ道。同じ街灯。コンビニの看板の光の色。遠くの車の音。歩道のタイルの継ぎ目まで、たぶん同じ。
なのに、足音だけが妙に慎重になる。
俺は「行こう」とも「会いに行こう」とも言わなかった。気づいたら歩いていて、気づいたらここに向かっていた。言葉にした瞬間、何かが壊れる気がしていたからだ。
「夜イベント、三日目〜☆」
隣で、かなが肩を揺らす。声だけはやたら元気だ。
「イベント扱いすんな」
「でも来たじゃん」
「……歩いただけだ」
言い返しながら、ポケットの中で指が小さく動く。昨夜折って入れた紙の角を、触って確かめる。硬い折り目。指先に残る紙の繊維。
残ってる。
それだけで、少しだけ息が楽になる。
「昨日より顔がマシ。プリンの効果?」
「……違う」
「じゃ、紙の効果?」
「うるさい」
かなは笑って、跳ねるみたいに前を行く。俺は追い越さない。追い越したくない。追い越したら、決意みたいになってしまう。
公園が見えてくる。
ベンチの位置も、街灯の距離も、変わっていない。昼に子どもが走り回っているはずの場所は、夜になると、ただの空き地に戻る。草の匂いが薄く流れて、空の黒が地面に落ちてくる。
同じ場所だ。
けど――同じじゃない。
「ここ、同じなのに…なんか違うね」
かなが言って、ほんの少しだけ声を落とした。
「……うん」
違う、と言うしかない。説明できない違いだった。
「違うっていうか、ここだけ別ルールみたいな?」
「言い方」
「だって、そうじゃん☆」
そうだ。ここは、現実とそうじゃないものが、同じ顔で並ぶ場所だ。街灯の輪が、ただの光じゃなくなる。風が通るだけで、音が一枚だけ薄くなる。
俺はベンチの前で止まった。座らない。座ってしまったら、待つことになる。待つってのは、要求に近い。
かなも、今日はやたらと静かに隣へ立つ。背中の軽さだけが、いつも通りだった。
街灯の光の輪の端。
そこに、最初から居るみたいに、影があった。
昨日より、輪郭が少しだけ濃い。光に当たっているのに、浮かび上がるのは輪郭じゃなく、存在の重さだった。
俺は喉を鳴らして、息を整える。
「……夕月」
名前を呼んだ瞬間、影がゆっくりこちらを向いた。
「……あ……」
声が出るまでに、一拍遅れる。胸に手を当てる仕草が、昨夜と同じで――それが、妙に胸に刺さった。
「……また……来た……」
小さな言葉。責めるでもなく、喜ぶでもなく。確認みたいに、そこに落ちた。
かなが、すぐ茶化さない代わりに、かなり小声で言った。
「来ちゃった〜☆」
「黙れ」
俺の言い方はぶっきらぼうだったが、かなはむしろ安心したみたいに口を閉じた。こういう時のかなは、空気の扱いだけは上手い。
夕月は、何か言いたそうに唇を動かして、それを引っ込めた。目線が下がり、呼吸が遅くなる。言葉を探して、見つからない人の顔。
俺は、聞きたい言葉を飲み込んだ。
何があったの?
何を忘れたの?
思い出したい?
どれも――この場で言ったら、夕月の足元を引っ張る気がした。
だから、出したのは別の言葉だ。
「……今日は、話さなくていい」
夕月が、目を少し大きくする。
「……え……?」
「……ここにいるだけでもいい」
それは許可だった。俺が許すんじゃない。夕月が自分を許していい、という形だけを渡した。
少し長い間が落ちた。
風が一本、抜ける。
それから夕月は、ほんの小さく頷いた。
「……うん……」
その頷きで、影の輪郭がほんの少しだけ安定した気がした。街灯の光の輪が、夕月の輪郭を責めなくなる。
夕月は胸に当てた手を下ろしきれずに、指先だけを握ったり開いたりする。
「……わからない……」
俺は頷く。
「……うん」
分からないは、ここでは正解だった。無理に分からせると、壊れる。
夕月の唇が動き、声が出る。
「……忘れたのに……」
そこまで言って、夕月は止まった。
止めたのは俺じゃない。夕月自身だ。言葉が続く前に、自分でブレーキを踏んだ。踏んでしまった、というより、踏めた。
俺は、止める理由を聞かない。止めたことを肯定する。
「……止めてもいい」
夕月が、もう一度頷く。小さく、小さく。
俺はその頷きに、余計な重さを乗せないように、声を落ち着かせた。
「……思い出す/思い出さない、どっちでもいい」
どちらを選んでも、ここにいていい。そういう言い方にしたつもりだった。
夕月は、少しだけ笑いそうになって、笑えなかった。
「……どっちも……こわい……」
その言葉が、夜の公園に落ちた。乾いた土に落ちる水みたいに、静かに染みる。
かなが、ここで初めて踏み込んだ。長くは言わない。置いて、離れる。
「……こわい日は、こわいままでいーよ」
そしてすぐに、いつもの温度へ戻す。
「ほら、深呼吸深呼吸〜☆」
夕月は一度、目を閉じた。息を吸って、吐く。風の中に溶けるみたいに、少しずつ力が抜けていく。
俺は、それ以上を望まない。
望まないことが、今夜の約束だった。
「……今日は、ここまでにしよう」
夕月は頷いた。
「……うん……」
夕月の輪郭が、ゆっくり薄くなる。消えていく前に、声がひとつだけ残った。
「……ありがとう……」
俺は追わない。手を伸ばさない。声だけ返す。
「……こちらこそ」
「じゃ、撤収〜☆」
かなが言って、俺の袖を引いた。軽い力なのに、不思議と逆らえない。現実へ戻す力がある。
夕月の輪郭は、街灯の輪の端で、最後に一度だけ揺れて――風に溶けるみたいに消えた。
俺は振り返らなかった。
振り返らないことが、追いかけないことが、夕月が自分で止めたことを守る唯一の方法だと思ったからだ。
ポケットの中で、折り目の角が指に当たる。
紙は残っている。
残るべきものは、ちゃんとそこにある。
――でも、昨夜書いたはずの一行は。
インクの匂いだけを残して、字だけが薄くなっていく気がした。
あるいは、字が消えても、筆圧の凹みだけが残るのかもしれない。
残るのは〝紙〟で、逃げるのは〝意味〟だ。
だからこそ、俺は今日もここに来た。
昼の部屋は、夜よりも狭く見える。
窓から入る光が、散らかったもの全部を容赦なく照らすからだ。脱ぎっぱなしのパーカー。机の上の空き缶。床に転がる充電ケーブル。現実ってのは、こうやって無言で細部を突きつけてくる。
昨夜の公園は、細部がなかった。あったのは気配と、間と、息だけだった。
だから昼の空気は、逆に落ち着かない。
俺はポケットに手を入れて、硬い折り目を探った。指先に角が当たる。紙の端。折り目。確かにある。
取り出して、机の上に置く。
レシートの裏に残したはずの一行は――そこにあった。
……いや、「あった」と言っていいのか、分からない。
紙は残っている。折り目も残っている。俺が昨夜、指で押し込むみたいに作った角も、ちゃんと硬いままだ。
でも、字が。
字だけが、薄い。
「お、昨日のやつ?」
かながいつもの調子で、机の端に寄りかかる。昼でも夜でも、こいつはやることが変わらない。というか、昼間のほうが腹立つくらい元気だ。
俺は紙から目を離さずに言った。
「……書いた」
「読めないね☆」
言われなくても分かる。分かるから腹立つ。
俺は息を吸って――言いかけてやめた。
何を書いたか。
あれだけ必死に残したのに、言葉の形が頭に浮かばない。思い出そうとすると、輪郭だけが逃げる。まるで、霧に指を突っ込むみたいに。
「……。 ……覚えてるのに」
ぽつりと漏れた声が、妙に子どもっぽかった。
「なにそれ、ムカつくやつ」
かなが笑う。笑うけど、いつもみたいに大げさに茶化さない。その温度が、逆に分かりやすかった。
俺は紙を指で押さえ、別の手順を探す顔になった。
「……次」
かなが肩をすくめる。
「次、って言うとこがもう職人っぽい☆」
無視して、スマホを取った。
文字が薄れるなら、読めるうちに別の形で残す。写真は、たぶん無理だ。昨日の時点で、そういう予感はしていた。
だから――音だ。
俺はボイスメモを起動した。
「……読めるうちに」
かなが目を丸くする。
「ボイスメモ? かしこ〜☆」
録音ボタンを押す。赤い点が点滅した。
俺は紙に顔を近づける。薄い線を目で追う。追えるところだけ追う。追えないところは、飛ばす。
「……、『……忘れた……のに……』」
声が途切れ途切れになる。
言っている間に、自分の声が自分のものじゃなくなる。言葉が、口から出た瞬間に他人のものになる感じ。妙に気持ち悪い。
「読めてないじゃん☆」
かなが言う。いつもならムカつくはずなのに、今日は腹が立たない。読めてないのは事実だ。
「……いい」
録音を止めて、すぐ再生した。
スピーカーから、さっきの自分の声が流れる。
……流れる、はずだった。
最初の息づかいは聞こえた。衣擦れの音も入っている。かなの小さな笑い声まで、ちゃんと入っている。
なのに。
言葉だけが、抜けている。
肝心なところだけ、音が薄い。ノイズみたいな空白に変わっている。編集されたみたいに、綺麗に消えている。
俺は眉を動かしただけで、声は出なかった。
かなが覗き込む。
「……なに? 変?」
「……肝心なとこ、抜けてる」
「え、こわ。編集されたみたい」
俺は画面を消して、短く息を吐いた。
「……やっぱりな」
「知ってた顔〜☆」
「……次」
言い直さない。説明もしない。言葉にすると、余計に逃げていく気がした。
俺はレシートを指でなぞった。
紙の表面はざらついている。インクの盛り上がりはほとんどない。薄くなった字が、どこにあるのか分からない。目で追うのは難しい。
でも、指先は止まった。
折り目とは違う場所で。
そこだけ、微妙に凹んでいる。
「……」
かなが首を傾げる。
「なに? しわ?」
「……違う。……凹んでる」
「え、文字の形?」
「……たぶん」
俺は紙を持ち上げて、光に透かした。薄い字は見えない。でも、角度を変えると凹みが影になる。そこに「形」がある。
インクが消えても、圧は残る。
俺は引き出しを開けた。ペンはある。けど、ボールペンじゃだめだ。こすり出すには、鉛筆がいい。
鉛筆……。
机の上を探す前に、かながひょいと手を挙げた。
「これ?」
いつの間にか、短い鉛筆を持っている。どこから出したんだよ。幽霊のポケットって無限なのか。
「……それ、どっから」
「秘密〜☆」
俺は受け取って、紙の上に別の紙を重ねた。コピー用紙でも、ノートの切れ端でもいい。こすり出しは、薄い紙のほうが出る。
「職人ごっこ?」
「ごっこじゃない」
鉛筆を寝かせて、軽くこする。
……さら、さら。
音が部屋に増える。昼の部屋に、夜みたいな静けさが一瞬だけ混ざる。
紙の上に、灰色の影が浮いてきた。線。曲がり。途切れ。文字の輪郭。
「……出た」
かなが思わず身を乗り出す。
「うわ、ほんとだ。文字っぽいの出てる」
俺は目で追う。追える。追えるのに、意味が遠い。言葉として掴めそうで掴めない。
「……インクじゃない。……凹みが残ってる」
その瞬間。
部屋の温度が、ほんの少しだけ落ちた気がした。
風がないのに、肌の表面だけが冷える。鼻の奥に、消毒液みたいな匂いが一瞬だけ刺さる。遠くで、電子音みたいな音が鳴った気がした。
ピッ――……みたいな。
俺は鉛筆を止めた。
「……」
かなが顔を上げる。
「……?」
「……今、ちょっと……」
言葉にしようとして、できない。できないものは、無理に言わないほうがいい。昨夜、夕月がそれをやっていた。
「え、なに? 変なの見えた?」
「……見えてない。……でも、混ざった気がした」
「混ざったって何☆」
「……分かんねぇ」
かなは笑いながらも、笑い方を少しだけ抑えた。そういうところが、こいつはずるい。
俺は紙を丁寧に折り直した。今度は、凹みを潰さないように。折り目を合わせる角度も、少しだけ変える。守りたいものができた時の手つきになる。
「もうそれ、完全に職人じゃん☆」
「必要だからだ」
俺は財布を掴んで立ち上がった。鉛筆は短すぎる。ノートも必要だ。こすり出し用に紙もいる。ちゃんとした道具があれば、少しは逃げるのを追いかけられるかもしれない。
かながついてくる。昼の部屋の外に出ると、空の青さがやけに眩しい。昨日の夜が嘘みたいだ。
「鉛筆、何買う? 2B? 4B? 〝闇に強い鉛筆〟とか?」
かなの冗談に、俺は返す。
「普通のでいい」
「でもさ〜、濃い方が出るよ?」
「……じゃ、濃いやつ」
文具コーナーは、やたら明るい。蛍光灯の白い光が、紙を照らす。皮肉みたいに、紙がよく見える。見えるのに、逃げるものがある。
鉛筆を選ぶ。濃いの。何本か。ノートも取る。でかすぎない、薄いの。
「ノートもいるよね。スケブとかさ」
「でかいのはいらない」
「でも、残す用でしょ? ちゃんとした方がよくない?」
「……じゃ、薄いのでいい」
「はいはい☆ じゃあそれと、鉛筆と、消しゴムと〜」
かながカゴに消しゴムを入れようとする。
「消すな」
「冗談☆」
会計を済ませて、帰る。
部屋に戻ると、昼の散らかりがまだそこにあった。でも、さっきより腹が立たない。やることができたからだ。
俺は買ってきたノートと鉛筆を、バッグに入れた。紙も挟む。レシートも挟む。
バッグの口を閉める音が、部屋に小さく響く。
かなが、わざとらしく腕を組む。
「で、いつ行くの?」
俺は答えない。言ったら、決意になってしまう。
「……」
「行くって言わないやつだ☆」
「……言わなくても、やる」
「はいはい。……じゃ、今日も夜イベントだね☆」
「イベント扱いすんな」
バッグは、そこにある。
紙も、そこにある。
逃げるものを追いかける準備だけが、静かに整っていった。
夜の公園へ向かう道は、もう知ってる道になりかけていた。
それが嫌で、俺は歩く速度を変えたり、呼吸の回数を数えたり、どうでもいいことをして気を紛らわせた。目的を口にしたら、その瞬間に約束になってしまう気がする。だから言わない。言えない。
バッグが肩に食い込む。
昨日までと違う重さだ。ノートと、ペンと、鉛筆。たったそれだけのはずなのに、現実の道具は妙に主張する。
「職人夜イベント〜☆」
横で、かなが軽快に言った。
「イベント扱いすんな」
「だって今日、バッグまで装備してるじゃん」
「……必要だからだ」
「重くない?」
「……」
答えなかった。答えると、目的が輪郭を持つ。輪郭を持った瞬間、こっちの都合になる。
公園が見えてくる。
街灯の輪は、相変わらず同じ場所に落ちていて、同じベンチがそこにある。なのに、ここだけ空気が薄い。音の層が一枚少ない感じがする。昨日、冷えた匂いが混ざったのを思い出す。思い出して、すぐやめる。思い出そうとすると、逃げるものがある。
ベンチの前で立ち止まる。
座らない。今日は特に、座ると待つになってしまうから。
俺はバッグを下ろし、ノートを取り出した。ページを開く。ペンを出す。鉛筆は横に置く。並べ方だけで、やることが決まってしまう気がして、手は慎重になる。
「うわ、ガチだ」
かながのぞき込み、笑いそうで笑わない顔をした。
「……」
「圧強いと逃げない?」
「逃げたら、閉じる」
それだけ言った。これ以上の言葉は、圧になる。
街灯の輪の端。
そこに、影が増える。
増えるというより、最初からそこにあったものが、こちらの視界に馴染む。夜の黒に、別の黒が混ざる。昨日より少し輪郭がある。目が合うまでに、半拍遅れる。
「……夕月」
呼ぶと、夕月がわずかに顔を上げた。視線が、俺の手元――開いたノートと、ペンの先に止まる。
そして、少しだけ身を引いた。
「……それ……こわい……」
声は小さくて、でも真っ直ぐだった。
かなが、ここで一歩だけ踏み込む。
「こわいの、分かる〜」
それ以上は言わない。言いすぎると、夕月の感情を奪う。
俺は、ペンを握ったまま、力を抜いた。ペン先が紙に触れない距離で止める。触れた瞬間に始めてしまうから。
「話さなくていい」
夕月の目が、瞬いた。
俺は続ける。短く。
「……でも、今の言葉だけ。残していい?」
質問の形だけど、答えはどっちでもいい、という形にする。答えを強要しない言い方を探す。
夕月の唇が動く。
「……のこ……す……?」
「消えてもいい」
「痕だけでいい」
痕と言った瞬間、夕月の肩が少し落ちた。怖さが消えたわけじゃない。けど、逃げ道が見えた顔だった。
夕月は一度、街灯の光を見上げた。そこには何もない。ただ白い光が落ちているだけだ。でも夕月の目は、そこに何かを探しているみたいに見える。
そして、言葉が落ちた。
「……白い……」
俺は頷かない。相槌を減らす。相槌は続けてになってしまうから。
代わりに、ペンを紙に置いた。
カリ、と小さな音。
意識して筆圧をかける。インクじゃない。凹みを作る。残るのは、そこだ。
「……におい……」
夕月の声が、最後だけ少し震えた。
カリ、カリ。
ペンの先が、紙を押す。字を書くというより、紙に刻む。それでも、文字は文字でしかない。意味は逃げる。だから意味を追わない。痕を残す。
「……ピッ……」
何か電子音のようなものが聞こえた。
俺はそのまま書いた。短く。欠けてもいい。欠ける前提で。
かなが、息を殺して見ている気配がした。軽口を言わないのは、こいつなりの支え方だ。
書き終えて、俺は一度だけページを見た。
……薄い。
さっき書いた線が、もう薄い。欠けている。まるでインクが紙に乗る前に、紙の奥へ落ちていったみたいだ。目で追おうとすると、輪郭が崩れる。
かなが小さく言う。
「……あ、また?」
俺は答えない。答えたら、現象に名前がついてしまう。
代わりに、鉛筆を取った。
鉛筆を寝かせ、紙の上を軽くこする。凹みがあるところにだけ、黒鉛が乗る。影が浮く。文字というより、文字の亡霊みたいな線が出る。
……出た。
薄いのに、確かにそこにある。
「……残る」
ぽつりと漏れた声は、誰に向けたものでもなかった。
「影だけ?」とかなが言う。
「それでいい」
その言葉を言った瞬間、空気が一度だけ冷えた。
風はないのに、手の甲が冷たい。鼻の奥に、消毒液みたいな匂いが一瞬刺さる。遠くで、電子音みたいな〝ピッ〟が重なる。心電図の〝ピッ〟と、どこかの機械の〝ピッ〟が、同じ音に見えてしまう。
俺はそれを言葉にしない。言葉にしたら、意味になる。意味になったら、逃げる。
夕月が小さく息を吸った。
こわいのか、安心なのか、分からない顔だった。ノートに視線が落ちて、次に俺の手元を見る。俺の手が、追いかけていないことを確かめるみたいに。
俺はペンを置いたまま、言った。
「……大丈夫」
言い過ぎない。これ以上は、守るになってしまう。守られるは、夕月にとって重い。
夕月は少しだけ頷いて、でもその直後、首を振るみたいに俯いた。
「……もう……」
止めるのは夕月だ。止めさせるのは俺じゃない。
「うん。今日はここまで」
夕月の肩が、ふっと軽くなった気がした。言い終えたというより、止められたという顔だ。
「……ありがとう……」
短い言葉。大げさじゃない。だから、刺さる。
「……こちらこそ」
かなが、ここでようやく明るさを戻す。
「撤収〜☆」
「イベント扱いすんな」
言いながらも、俺はノートを閉じた。ページを閉じる音が、小さく夜に響く。閉じた中には、薄い線と、もっと薄い意味と、確かな凹みが残っている。
夕月の輪郭が、街灯の輪の端で揺れた。昨日みたいに、風に溶けるみたいに薄くなる。
俺は追わない。手を伸ばさない。振り返らない。
言葉を足さない。
バッグにノートをしまう。ペンも鉛筆も、元の位置に収まる。重みが戻る。現実の重みだ。
かなが、帰り道の途中で言った。
「言わないね、また来るとか」
俺は前を見たまま、返す。
「言わなくても、来る」
約束じゃない。宣言でもない。
ただ、そういう手順になった。




