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第2節 陽と陰、隣り合わせ

 夜の公園は、昨日と同じはずなのに、どこかが違って見えた。

 街灯の白い輪は変わらない。風の音も、木々の影の揺れも、同じはずなのに――

 胸の奥に昨日の記憶がまだ生きていて、世界の方がそれに合わせている気がした。


「……戻ってきたね、晴人くん☆」

 かなが浮かびながら横に並ぶ。今日は少しテンションが低い。いや、落ち着いていると言うべきか。


「昨日のこと、気になってたんでしょ?」

「まぁ、な……」


 昨日の夕月の声。

 風の層が震えるように届いた。『……また、会えますか』と言うあの小さな声。耳に残ったその揺れが、どうしても消えなかった。


 公園のベンチに近づくと、空気の層が変わった。


「……来てくれた、かな」

 思わず呟くと、かなが目をパチクリさせた。


「……え、晴人くん。今の、デート待ちの男子の台詞じゃん♪」

「黙れ」

 言葉で否定しながらも、胸の奥はざわついたままだ。昨日の再会は偶然に近い出来事――そう思っていた。

 でも――


 風が止まった。

 昼間と夜の間にある境界が、ふっと薄くなる。


「……晴人くん、来たよ」

 かなが指先で、ベンチの方を指す。


 光の輪の端――

 昨日と同じ場所に、でも昨日より少し輪郭のある少女が座っていた。


 夕月だった。


 風が彼女を避けていない。髪がゆっくり揺れ、影は昨日より濃い。世界との接点が、一段深くなっている。


「……夕月」

 呼びかけると、彼女は驚いたように顔を上げた。


「……あなた……今日も……来たの……?」


 声は昨日より少し暖かい。震えは残っているが、消えそうな弱さではない。

「ああ。約束したからな」

「……約束……してくれた……」

 その言葉を噛みしめるように、夕月は胸に手を当てた。


 昨日より、言葉が一つ長い。

 昨日より、感情が一つ前に出てきている。

「来られたんだな。外に」

「……うん。昨日より……少しだけ……怖くなかった……」

 そこで、夕月は一瞬だけ言葉を止めた。小さく息を吸って、胸に手を置いたままゆっくり続ける。


「……気づいたら……ここに居たの……

 理由……わからない……でも、……来たくなった……

 昨日、……あなたの声……胸に残ってて……」


 その静かな告白は、霊の理屈でも、人の理屈でもない。記憶の欠片ではなく、感情の残響が身体を動かした――そう言わなくても伝わるほど、純粋だった。


 かなが少し感動した声を漏らす。

「成長しているじゃん……! 昨日の夕月ちゃんより、存在レベル上がってるんじゃない?」

「ゲームの話みたいに言うな」

「え~、分かりやすいじゃん?」


 夕月はその会話に小さく笑った。

 笑った――意図して笑ったのは、これが初めてかもしれない。


「……わたし……来たかったの」

 夕月は静かに視線を下げる。

「ここ……暖かいから……」


 その言葉が、昨日よりも強く胸に落ちた。


「風も……昨日より、怖くない……」


 髪が夜風に揺れた。昨日は触れられなかった風が、今日は自然に彼女を撫でていく。


 空気が、彼女を受け入れている。


「……夕月」

 俺は半歩だけ前に出ようとして――足を止めた。踏み込みすぎれば、たぶん彼女は揺れる。だから、その手前で言う。

「――来てくれて、ありがとう」


 夕月は驚いたように目を見開き、やがて、胸にその言葉を受け止めるように目を閉じる。


「……また、会えた……」


 昨日とは違う響きだった。

 昨日より存在の輪郭を持った声だった。


「……ここに、居たい……」


 その小さな言葉は、風の中で静かに形を結んだ。

 夜の公園は、昨日よりずっと暖かかった。




 会話が途切れると、夜の公園の音が戻ってきた。

 遠くを走る車の音。葉が擦れる微かな気配。

 虫の声は、まだ本気を出していない。


「……静かだね、今日は」

 かなが小さく言った。

 いつもの軽さは抑えめで、空気を壊さない距離に声を置く。


「……ああ」

 それ以上、言葉は続かなかった。

 沈黙は重くない。

 むしろ、呼吸みたいにそこにあった。


 夕月は、ベンチのそばで立ったまま、足元を見ている。

 昨日より影は濃いが、まだ安定していない。

 地面に触れているようで、少し浮いている。


 俺は、彼女の様子を見ながら、声を落とした。

「……立ってみるか?」


 提案だった。

 命令でも、挑戦でもない。


 夕月はすぐには答えなかった。

 一拍置いて、胸に手を当てる。


「……うん……」


 その声は小さい。

 でも、逃げる音ではなかった。


「無理なら、やめていい」

 そう付け足すと、夕月の肩から、ほんの少し力が抜けた。


 彼女は、ゆっくりと足を前に出そうとする。

 地面に体重を預けようとして――

 その瞬間、輪郭が揺れた。


「……っ……」


 声にならない息が漏れる。

 影が伸び、また戻る。


「あー、あるある」

 かなが、わざと軽い調子で言った。


「最初は地面、信用できないよね☆

 幽霊的には、床ってだいたい裏切ってくるし」


「……お前、経験談だろ」

「もちろん♪」


 そのやり取りの間に、夕月は深く息を吸った。

 自分で、もう一度、足元を見る。


 誰も手を出さない。

 誰も、成功を急がせない。


「……少し……だけ……」

 夕月は、そう呟いて、体重を落とした。

 完全じゃない。

 それでも、影は前より長く、地面に留まった。


 風が、彼女の周りで止まる。

 通り抜けるのではなく、そこに居る。


「……それでいい」

 俺は、それだけ言った。


 褒めるでもなく、評価するでもなく。

 ただ、許可を置く。


 夕月は、安心したように小さく頷いた。

「……ここ……いま……」


 言葉は途中で切れたが、それで十分だった。


 夜の公園は、静かなままだ。

 光は揺れず、風は一定のリズムで動く。


 夕月はまだ不安定だ。

 でも――

 確かに、そこに在った。




 夕月がその場に留まってから、少し時間が経った。

 身体の輪郭は、さっきより安定している。

 影も、地面に落ちたまま揺れなくなっていた。


 それなのに――

 彼女の呼吸だけが、微かに乱れている。


 胸に手を当てたまま、夕月は視線を落とした。

 風が触れても、さっきのように反応しない。

 受け入れているのに、どこかで立ち止まっている。


「……」


 言葉は出てこない。

 沈黙が長くなっても、誰も急がせなかった。


「……無理しなくていい」

 俺は、それだけを置く。

 理由も、続きを促す言葉も、足さない。


 夕月は小さく息を吸い、吐いた。

 その動きが、ほんの少し遅れる。


「……わからない……」


 声は低く、掠れていた。

 何が分からないのか、自分でも掴めていない響き。


「……なのに……」


 そこで、言葉が途切れる。

 続きを探しているというより、

 続きを出してしまうことを、どこかで避けているようだった。


「……うん」

 俺は相槌だけを返した。

 肯定でも否定でもない。

 ただ、そこにあるという合図。


 少し間が空く。


「今日は、ここまででもいい」

 選択肢を渡す。

 進まなくてもいいという逃げ道を、はっきり示す。


 夕月はすぐには答えなかった。

 視線を落としたまま、胸元に指を食い込ませる。


 かなは、何も言わない。

 いつもなら空気を割るはずの声が、今日は出てこない。

 その沈黙が、この場の重さを物語っていた。


 やがて、夕月が小さく首を振る。


「……忘れたのに……」


 それは、独り言に近かった。

 誰に向けた言葉でもない。

 それでも、確かに“何か”を指している。


 それ以上、夕月は何も言わなかった。

 続きを自分から閉じた。


「……大丈夫」

 俺は短く告げる。

 説明も、保証も付けない。


「……うん」


 かなが、小さく頷いた。


 夜の公園は静かだった。

 風は一定の速さで流れ、光は揺れずに地面を照らしている。


 夕月は、まだ全部を思い出してはいない。

 でも――

 思い出さないままではいられない場所に、もう立っている。


 そのことだけが、はっきりしていた。




 しばらく、誰も動かなかった。

 風が向きを変え、街灯の下で影の角度だけがわずかにずれる。

 虫の声が、さっきよりはっきりと戻ってきた。


 かなが、息をひとつ整える。

「……そろそろ、冷えてきたね」


 言葉は軽くも重くもなく、ただ現実の温度を運んだ。


 俺は頷いて、夕月を見る。

 彼女はもう揺れていない。けれど、胸の奥に残ったものが消えたわけでもない。

 それでいい、と思った。


「……今日は、ここまでにしよう」


 提案でも命令でもない。

 今夜を終えるための、共有だ。


 夕月は一拍おいて、静かに頷いた。

「……うん……」


 短い返事。

 それ以上、言葉を足さない選択が、ここでは正しかった。


 風が、もう一度だけ通り抜ける。

 光の輪の縁で、夕月の輪郭が少し薄くなった。


「……ありがとう……」


 それは別れの挨拶じゃない。

 今夜が、ここまで来られたことへの感謝だった。


 かなが、前を向く。

「……行こっか」


 俺たちは歩き出す。

 背後で、夜の公園がいつもの静けさに戻っていく。


 振り返らなくても、分かっていた。

 この場所は、もうただの公園じゃない。

 でも――今夜は、ここで終わる。


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