表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/14

第1節 案内図の怪異と夕月の再会

 日が傾き、空が紅く染め始めた頃。

 公園の芝生に長い影を伸ばしていた。風が少し冷たくなってきて、虫の声が混じる。金属の支柱に取り付けられた案内図を、俺はじっと見上げていた。

 案内図は一見するとどこにでもある普通のものだ。ズレも歪みもない。まるで最初から何の問題もないかのように。


「結城さん?」


 背後から柔らかい声がした。

 振り返ると、市の公園課の小坂さんが資料を胸に抱えて立っていた。

「はい。結城です。お世話になります」

「いえいえ、急にお願いしてしまってすみません」

 そう言うと、小坂さんは頭を下げた。

 俺も自然と頭を下げる。霊が見えない人でも、真面目に現場を気に掛けてくれる人が居る――それがどれだけありがたいか、俺は知っていた。

「いえ、こちらこそ。現場を見ておきたかったものですから……休日なのに、ありがとうございます」

 俺がそう言うと頷いて、説明をしてくれた。


「こちらが、問題の案内図です」――資料を胸に抱えたまま、少し眉を寄せる。「夜に通りかかった方が、『地図の道が違う』と市に電話をいただきまして」

「道が違う?」

「はい。実際の公園の道は変わっていないんですけど、案内図の中だけ、道の線が曲がったり、〝現在地〟の印が移動していたと。それで写真も撮ったそうなんですが……」

「写ってなかった?」

「ええ。普通の案内図のままで。だから余計に気味が悪いって」そこで小坂さんが少し言い淀む。「正直、私には見えないものですから、なんとも言えません。でも、『怖くて通れない』って方がいるなら、放っておけませんから」

「……そう言っていただけると助かります」

「いえいえ、これも仕事です。……仕事ですけど、放っておけないのは人として、ですかね」

 そう言うと小坂さんは小さく微笑んだ。


「ありがとうございます。休日なのに」

「こちらこそ。……結城さんも、気をつけてくださいね。何か感じたら、直に引き上げてください」

「はい。確認したら、直ぐ報告します」

「よろしくお願いします」

 小坂さんは深く頭を下げ、去って行った。

 背中が夕陽を受けて、芝生の上に長い影を落とす。その影が、ゆっくりと風に溶けていく。

(休日出勤させて申し訳ない)と心の中で呟く。


「おつかれさまでーす☆」

 いきなり背後から飛んできた声に、さっきまでの静けさが音ごと吹き飛ぶ。


 振り向くと、金髪ギャル霊かなが髪を揺らしてひらひらと手を振っていた。夕陽の光を跳ね返すみたいに明るくて、この場所の現実感を全部リセットしてしまうようなテンションだった。


「……落ち着け」

「えー、いいじゃん。誰も気付かないし~」

「そういう問題じゃない」

「そ? ま、細かいこと気にしすぎ~」


 そんなノリのかなをほっといて、俺は案内図に向き直る。


「……昼間は、やっぱり普通か」

 俺は案内図の表面に指を伸ばした。ただの地図だ。

 けれど、ほんの一瞬――赤い現在地の丸が、光の加減でもないのに、わずかに揺れた気がした。


「ねぇ、それ地図? なんかヤバい感じ?」

 かなが後ろから覗き込んでくる。

「昼間は何も起きない。夜待ちだ」

「ふ~ん。夜限定イベントってやつ?」

「イベント扱いすんな」

「じゃ、前夜祭☆」

 かなは、ふわっと浮かびそのままくるりと反転した。重力なんて存在しないみたいに、空中で姿勢を変える。宙に逆さまになったまま、顎に指を当てて案内図を覗き込む。その髪先が光を拾って、キラリと揺れる。

「……見えてないからって、浮かれすぎ」

「えー、だって浮いてるし~」

「そういう意味じゃない」


「夜になるまで暇だね~。じゃ、晴人くんの代わりに現場レポートしとく☆」

 そう言うと、案内図の上でくるりと一回転した。

「……嫌な予感しかしない」

「こちら現場のかなで~す☆ 霊的反応、ゼ~ロ~~~」

 風に溶けるみたいな声が、公園を染める茜色の空に消えていった。

「……ふざけてんのか真面目なのか分からん」

「だって退屈なんだもん。地面ってさ、固くて冷たいし~」

「……かな。地面の定義、知ってる?」

「してるよ~。〝つまらないところ〟でしょ?」

「……そういう発想がもう浮いているんだよ」

「でしょ~」


 かなが空中であぐらをかいたまま頬杖をついている。その姿が、夕陽の中に浮かぶ影みたいに静かに揺れていた。俺は案内図をもう一度見上げる。昼と夜の境が、少しずつ滲み始めていた。


 風が通り抜けた。


 かなは、空中で動きを止める。髪がふわりと揺れる。逆さになったまま笑っていたけれど、途中でふと眉を寄せる。

「う、ん……?」

 声というより、息の動きみたいな音だった。そのままの姿勢で止まり、目だけが風の方を見た。

「……どうした」

「んー……なんか、変」ふざけるでもなく、真剣でもなく。ただ、何かを探すようにかなは答えた。「……ねぇ、風の匂い、変じゃない?」

 その言葉に、俺は空を見上げた。

「……ああ」

「さっきまでは、陽の匂いだったのに」


 陽が沈み、藍色の空が広がる。地平線の紅が藍色へと溶けるグラデーションを描いていた。昼の空気が夜に溶けていく。風が少しだけ冷たくなっていた。


 ――気配が、変わった。




 風の音がまるで切り取られたみたいに消えた。さっきまで葉を揺らしていた木々も、急に呼吸を止めたみたいに静まっている。音の輪郭が世界からひとつずつ削れていく。葉のざわめきも、虫の声も、遠くへ押し流されていった。

 今は、遠くでかすかに鳴いているだけになった。


 空気が重くなった。

 匂いが途切れ、時間が呼吸をやめる。それは湿り気というより、何かが通ったあとの静けさだった。


「……風、止まったね」

 かながぽつりと呟く。いつもみたいな軽さがない。その声が空気に吸い込まれていく。かなの声がやけに遠く感じる。

「ああ。……匂いも、消えた」

 言ってから自分でも気づく。さっきまで鼻の奥にあった、土と草の混じった匂いが、跡形もなく消えている。言葉がやや遅れて胸に響く。

「ねぇ、これ、夜の風じゃないよね?」

 晴人はゆっくりと顔を上げる。視界の中で、何も動いていないのに――空気の層だけが、わずかに揺れた。

「……いや、違う。空気の層が、ひとつ動いた」

 その言葉を口にした瞬間、自分の声が世界から少し遅れて返ってくるような気がした。

 音がなくても、何かがこちらを見ている感覚。誰も言葉を発さないのに、空気が会話を始めた。


 風が戻らない。

 音も戻らない。

 世界が何かを飲み込むように沈黙した。


 空気の粒が肌に張り付いて呼吸が浅くなる。風の層が剥がれるたびに、胸の奥で何かが軋んだ。呼吸を忘れたみたいな沈黙が、肌の上を歩いて行く。


「……ねぇ、風。止まったままだよね?」

 かなの声がやけに遠くに聞こえる。音が空気に吸い込まれて、すぐ消える。

「ああ。さっきの動きが最後だった」

「なんか、空気。変じゃない? 重たいっていうか……」

「戻ってないんだ。……風の層が」


 晴人の言葉に合わせて、世界が一段と静かになる。沈黙が形を持ち始めていた。


「層? なにそれ、理科の授業?」

「違う。空気が……ひとつ、抜けてる」


 虫の声が一匹だけ遠くで鳴いた。その音が届くよりも先に、風が頬をかすめる。逆向きの風。――


「……ねぇ、今。前から吹いたよね?」

「風じゃない。誰かが通った」


 その瞬間、背中に微かな熱を感じた。


「見られている。……けれど、見ているのは誰かではなく、かつての自分だ」

「やめてよ~、そういう言い方……」

「怖がるな。……何となく、懐かしい感じがするだけだ」

「懐かしい……?」

「ああ。前にも……この気配、感じたことがある」


 風が静かなまま、髪が一瞬だけ揺れた。音も光も世界の端まで引いてゆく。


「ねぇ、誰か来てる?」

「……来てる。けど、まだ届いていない」


 その言葉に空気がわずかに波打った。まるで、見えない湖面の下で誰かが息をしているみたいに。


「届いてないって、なにそれ。郵便じゃないんだから……」

「思い出の方が先に届くんだ。身体よりも先に」


 風が一呼吸だけ戻った。夜の空気が息を取り戻すかのように。

 そして――


『……はる、……と』


 空気の層を震わせるような微かな声。それは音ではなく記憶の方から届いた。


「っ!? いまの。誰!?」

「――夕月?」


 時間がほんの一瞬だけ戻った気がした。風が通り抜け世界が息をし直す。


「……いま、呼んだよね。――絶対。呼んだよね?」

「ああ。……やっと、届いた」


 その言葉がどこか遠い記憶の方から響いた気がした。




 公園の空気は昼間の熱をすっかり手放していた。湿った土と花の匂いが混ざり、夜風がそれを静かに運んでくる。案内図の前で俺とかなは立ち止まったまま奥のベンチを見ていた。街灯の白い光が落ちて、路に淡い光の輪を描いている。けれど、その輪の外は暗く、風の流れが酷く不自然に見えた。

 夜は深く静かだった。虫の声も、木々のざわめきも、どこか遠くへ押しやられたように薄い。息を吸うと、冷えた空気が肺の奥にしみてくる。時間がゆっくりと止まりかけているような気がした。


 その時、風の向きが変わった。

 肩に掛かる髪がそっと流れる。俺の隣でかなが小さく息をのんだ。街灯の光の端で、何かが形になろうとしていた。

 光の輪の中で空気だけが一つ重なって見えた。何かがそこに溜まっているのに、まだ形がはっきりしない。


「……来たな」


 風がほどけ、また結び直される。その結び目の奥に細い肩の線がわずかに浮かんだ。

 目を凝らすまでもなく輪郭はゆっくりと人の姿になっていく。黒髪が、風の層に引かれるように揺れた。街灯の白い光がそれを照らし、ベンチの端に誰かが座っているように見えた。


「ねぇ晴人、あれ……まさか、あの部屋の子?」

「ああ。夕月だ」

「うっそ~……! だって、部屋に居た子でしょ? 外に出られたの!?」


 胸の奥が、理由のわからない懐かしさで一瞬だけ熱くなる。その感覚に追いつく前に、俺の口が自然に動いた。

「……出たんじゃない。自分で来たんだ」

「そんなこと、できるの……?」

「『残りたい』って思ったとき、縛りは形を変える」


 街灯の光がベンチの端に座るその人影をはっきり照らした。風が彼女の黒髪をそっと押し返し、輪郭が現実の線を取り戻していく。

 かなが隣で小さく息を呑む。

 その気配に気づきながらも、俺は目を離せなかった。

 ベンチに座る少女――

 その姿は、あの空きアパートで見た時とほとんど変わらない。ただ一つ違うのは、部屋の影ではなく、夜風の中に居るということだ。


 風が音を連れてくる。木々のざわめき、遠くの道路の気配。その全部が、彼女の周りだけ避けて流れているように見えた。


 目が合った。

 理由もなく、懐かしさが胸に落ちてくる。それでも言葉は自然と喉の奥から流れ出た。

「……夕月」

「……あなた。前にも……どこかで、会いましたか?」

「あ~……忘れられてるやつだ。これ……」


「前に、アパートの空き部屋で話した」

「空……部屋……」


 夕月の視線は、どこか遠くを探すように揺れていた。街灯の光に照らされる横顔は、薄い影をまとっている。記憶と言うより、感覚の端だけを頼りにしている様な表情だった。

「……夢。の様な気がする」


「夢でもいい。……また話せたから」

「ねぇ。それって、夢の続きってやつ? ロマンある~。少女漫画展開?」

「うるさい」


 俺とかなの立つ位置まで風が届く。その風に混じる花の匂いに夕月の髪がわずかに揺れ、その動きに合わせて、目がゆっくりこちらへ向けられる。


「……夢。じゃないのかも」夕月は、目元に指をやりながら話しを続けた。「知らないはずなのに。……あの部屋よりも、生きている気がする」

「外に出られたのは、自分で選んだからだ。『ここに居たい』って、言ったろ」

「……そう、なのかな」

「覚えてなくても、心は覚えている。……それでいい」

「はい、出ました。感情だけ覚えている系~!」

「黙ってろ」


 声にならない呼吸が一度、胸で止まった様に見えた。まるで思い出の断片を指先でなぞるみたいな動作で、夕月は目元に触れた。


「……わたし、ずっと待っていた気がする。でも、どこで待っていたのか、思い出せない」

「それでも来てくれた。……それで十分だ」

「ねぇ。これ、泣くところ?」

「違う。……始まるところだ。夕月が自分で決めた」


 かなが小さく肩を竦める気配がする。緊張をほどくように、わざと軽い声を差し込んだ。その声は、空気の重心をほんの少しだけ現実側へ引き戻した。


「……ありがとう。来てくれて」

「また、来るよ」

「えっ。デートの約束!? 出ました。それ、デートフラグ~!」

「違う」

「え~~。『違う』って言い方が一番それっぽいんだよねぇ~」


 夕月はその明るさに、微かに息を漏らして笑った。その笑みは弱くて、直ぐ風に溶けてしまうほど小さい。けれど、確かに生きている気配があった。


 俺たちの間に距離があった。けれど、言葉を交わすたびに、風の流れが少しずつ変わっていく。

 夕月が近づくわけでもないのに、空気だけがこちらの世界へ重なって来るように感じた。


 夜の音が、ほんの少しずつ戻っていく。木々のざわめき、遠くの車の音。だが、夕月の周りだけは、まだ風がためらうように回り込んでいた。


 彼女の視線がふっと揺れ、どこか迷った様に俺を見た。

 迷いの色が、その瞳の奥に静かに揺れる。

 言葉にならない問いが、風と一緒に滲んでいるように見える。


 俺はその揺れを壊さないように、一歩も近づけなかった。距離は保ったまま、ただ目を逸らさずに受け止めた。急かさず、説明もせず、『ここに居ていい』ことだけ伝えるために。


 風がまた向きを変える。

 ベンチの影がわずかに揺れ、夕月の髪が静かに流れた。


 その瞬間――彼女はとても小さな声で言った。

「……また、会えますか」


 夜の空気が、ひときわ澄んで感じられる。

 返事は、言葉よりも先に胸の奥から自然に落ちてきた。

「ああ。……風の通る場所なら、どこでも」


 踏み込まないことが、いまの俺にできる唯一の“寄り添い方”だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ