魔法の袋と鍋、それと猫
ある町に住んでいた粉ひき屋の男が死んだ。
息子たちはそれなりに大きかったので、兄弟で力をあわせて商売をつづけていくことにした。
父親にかわって家の代表となったのは長男。
この長男は外向きにはとても良い気質の男だが、身内には横柄なもので、なかでも末っ子のイヴァンにはひどくつらくあたった。
末っ子が兄弟のうちでいちばん小柄であるのをわかっているのに力仕事のほとんどを任せ、自分ではなにもしないときている。
家の仕事なので給金もなく、イヴァンは毎日へとへとになりながら藁を敷き詰めた粗末なベッドで眠っていた。
ああもう、こりごりだ。
こんなふうにクタクタになりながら仕事をしたって1テペにだってなりはしない。
まったく無意味じゃないか。
そんなふうに思ったイヴァンはある日、家を出ることを決めた。
イヴァンは兄弟のうちでもっとも体が小さかったけれど、心は大きく、いつか自分だけの力で、自分に似合った商いをしたいと、つねづね考えていたのである。
いつも朝の暗いうちから起き出して仕事をするのはイヴァンだけ。
日が昇るまえからガサコソしていたって、「ああ、イヴァンのやつが朝の支度をしているのだろう」と誰も自分を気にすることはないだろうと考え、背負いカバンに数着の服と幾ばくかのお金(これはまだ両親が生きていたころに貰っていた小遣いの残りだ)、そうして旅へ出るのに必要と思われるちょっとした物をありったけ詰め込むと、つぎに台所へ向かった。
昨日の残りのパンにソーセージを挟んだものを五つほど作ると紙で包み、肩掛けの小さなカバンへ大切に入れてから部屋へ戻る。
もうここへ帰ってくることはないだろう。
働きどおしのイヴァンの部屋は、他の家族から離れた場所に追いやられていて、いつもたったひとりで過ごしていた。
そのため感傷めいた気持ちも湧いてこず、唯一さびしく思ったのは、家でむかしから飼っていた猫との別れだった。
しかし猫というのは薄情なもので、いつもイヴァンの寝床にもぐりこんでいるのに今朝は姿を見せない。
待っている時間も惜しいイヴァンは、まだ寝静まった薄暗い町をこっそりと忍び歩いて、町の外へと繰り出したのだ。
やがて朝日が昇る。
太陽の光がイヴァンの麦わら色の髪をやわらかく照らし、気持ちも上向きになってきた。
「よし、俺の冒険のはじまりだ!」
絵本で読んだ竜退治をする英雄のように、拳を突き上げて大きな声をあげたイヴァンは、しばらく歩きつづけたあと、大きな木立のそばで足をとめて腰をおろす。ここいらで朝飯といこう。
背中のカバンをおろして、湯を沸かすための鍋を取り出そうとしたところ、カバンからなにかが飛び出してきた。
「ふああ、よく寝た。なかなか良い揺れ心地だったよご主人」
「おまえは猫! おい、なんだって俺の荷物に潜り込んでいやがるんだ」
なんとそこに降り立ったのは、家を出るときに姿を見せなかった猫であった。
姿が見えないのは当然のこと。
猫はイヴァンが台所でソーセージパンをこしらえているあいだに、詰められた荷物をカバンから取り出して、その代わりに中に収まっていたのである。
「どうしてこんなところに」
「そこにカバンがあれば中に入る。猫はそういうものだ」
ツンと鼻を反らして、猫はつづける。
「それにご主人は猫を置いていこうとしただろう。そうはいかない。猫を置いていくなんて、とんでもないことだ」
「だっておまえは『粉ひき小屋の猫』じゃないか。おまえがいなけりゃネズミに喰われ放題になっちまう」
「いや、まえまえから思っていたんだ。この猫は粉ひき小屋のネズミ退治には向いていないって。粉まみれになって、白粉をはたいたみたいになる生活は猫に不向きだ。見てみろ、この白い手足。このままじゃ、体がぜんぶ真っ白になっちまう。ああ、おそろしい」
そういって猫は毛づくろいをする。だからイヴァンは言ってやった。
「いったいなにを言っているんだ。おまえ、手足だけは子猫のときから白いじゃないか。それは生まれつきというやつだ」
なにしろこの猫ときたら、体は深淵の闇のような美しい黒色をしているのに、手と足の先だけは手袋や靴下をはいたように白い色をしている、なんとも変わった猫なのである。
「まったく、わかっていないねご主人。このキュートな配色こそが猫のチャームポイントなのさ。それよりも朝ごはんといこうじゃないか。猫のごはんはまだかい?」
「……まったくおまえときたら、本当に気まぐれな猫だよ」
呆れながらもイヴァンは、たったひとりきりだと思っていた冒険の旅に仲間がいたことに、すこしだけ安堵していた。やはりどこかこころもとない気持ちがあったのだ。
「ご主人ご主人、パンがパサパサしていて食べにくいよ」
「本当ならおまえがいた場所には鍋が入っていて、あたたかいお茶を飲めたはずなんだが」
「それは無理だ。鍋と猫、どちらが大切かわかるだろう」
「鍋だな」
「猫だよ」
猫のためなら仕方ない仕方ない。
しっぽを揺らしながら、猫は味気ないパンをもちゃもちゃと食べることに専念した。
それからイヴァンと猫は歩きつづけ、陽が暮れるころには町に辿り着いた。
とはいえ素泊まりすらあやしい懐事情のイヴァンが宿に泊まることができるはずもなく、町はずれのあばら屋の隅を勝手に借りて腰をおろす。
「猫はどこかの軒先を借りたっていいんだぞ。可愛く鳴いてみせたらミルクの一皿ぐらいは用意してもらえるだろうに」
「ご主人は薄情者だ。猫をどこかへ追いやろうとしている」
「おまえまで俺に付き合う必要はないと言っているんじゃないか」
「猫は猫の好きにするさ。それよりご主人、ごはんをおくれよ」
「朝と昼で、もうぜんぶ食べちまった。パン屑すら残っていない」
なにしろイヴァンと猫のふたりぶんだ。用意してあったソーセージパンはなくなってしまっている。
すると猫は不思議そうに言うのである。
「なにをお言いでか、ご主人。猫が持ってきた魔法の袋があるだろう」
「袋って、カバンに入っていたこの袋のことかい?」
用意したおぼえのない小さな袋を取り出してみせると、猫は鷹揚にうなずく。
「そうとも、そうだとも。それは猫が先代から受け継いだ魔法の袋。いつでもご馳走が取り出せる袋だよ」
「なんだって?」
「食べたいものを想像しながら手を入れてごらんよご主人」
言われたイヴァンは血の滴る分厚いステーキを思い浮かべながら手を入れて引き抜いたところ、右手につかんでいたのはただの粉。
「おい、これはなんだ。見慣れた小麦の粉じゃないか」
「なにを願ったのさご主人。小麦からできていないものは取り出すことはできないぞ」
「なんて不便なんだ」
小麦を袋に戻したあと、今度はホカホカふわふわのパンを想像しながら手を入れて引き抜くと、そこにはまだ熱を持ったパンがにぎられていた。
「パンだ!」
「パンだよ」
「あたたかいぞ」
「焼きたてだからね」
「これはすごいな猫」
「さあさ、ご主人。猫にも分けておくれよ」
「よしきた」
ふたりはつぎつぎに新しいパンを取り出すと、おなかいっぱい食べて眠りについたのだった。
翌朝、イヴァンは夜露で湿らせた布で顔を拭き、猫はみずからの手を使って顔を洗った。今朝も焼きたてのパンを袋から取り出すと、町のようすを見てまわることにした。
ここはイヴァンが生まれ育った町と似たような規模の大きさ。
そうなると、先はなんとなく見えてくる。
「どうしたのさご主人、この町に住まないのかい?」
「いいや猫。それは無理だよ。こういった小さな町は余所者を信用しないものだ」
さいわいにもイヴァンと猫には魔法の袋がある。食べるものに困ることはないのだから、もっと良い町を探したっていいはずだ。
水筒に新しい水を汲んで、ふたりは新天地を求めてふたたび旅路につく。広い街道を歩き、あるいは森のなかの獣道を進み、何日も何日も旅をつづけた。
魔法の袋から、いくらだってパンは取り出せる。
ふわふわのパンはつねに出来立てほやほやのあたたかさではあるけれど、どれほど美味しくたってパンはパン。あいにくと狩りの腕はからっきしなイヴァンに肉を調達する術はなく、ただのパンをひたすら食べる毎日はそろそろ飽きてきた。
「猫は狩りが得意だぞ」
「いくら腹が空いているからって、ネズミを食べるほど頭は狂っていないぞ」
「猫はネズミを捕るしか能がないような言い草はよくない、ご主人。猫は鳥だって狩れるし虫だって捕れる」
「ああ、そうともさ猫。だからおまえまで俺に付き合ってパン生活を送る必要はないんだ」
おなかは空いて、食べるものだってあるのに、それを食べる気がしない。
なんとも贅沢なことをかんがえていると、猫がなにかに気づいて声をあげた。
「ご主人、ひとがいるよ」
「おや本当だ、旅人とはめずらしい」
ずいぶんと遠くにいると思っていたけれど、相手は意外とすぐ近くを歩いていた。距離を見誤った理由は、そのひとがとても小柄だったせいであろう。
背丈はイヴァンよりも低く、ひどく痩せている。まるで背負われているような大きなカバンには、小ぶりな鍋がぶらさがっており、歩みにあわせてゆらゆらと揺れていた。
「おうい、そこのひと」
イヴァンが声をかけると、そのひとは振り返る。
イヴァンよりもいくつか年下に見える少年だ。まるで丈の合っていないシャツとズボンを折り畳んで着ている。
色の褪せた金髪はざんばらに切られており、どこか澱んで濁ったような青い瞳で、いぶかしそうにこちらを見てきた。
「なんだよ、あんた」
「俺はイヴァン、それと猫。旅をしている」
「猫だ」
「そうか。それではな」
視線をそらせてふたたび歩き出す少年に、イヴァンはあわてて声をかける。
「待て、せっかちなやつめ。見たところ、おまえも旅をしているんだろう? どうだ、一緒に行かないか」
「なぜそんなことをする必要がある」
「簡単に言ってしまえば、俺が仲間を欲しているからだな」
いつもひとりで過ごしていたイヴァンだけれど、さすがに人恋しい気持ちが湧いてくる。おなじ方向へ歩いている者にはじめて出会ったのだ。ならば共に向かってもいいはずだ。
返事をしたのは猫だった。
「猫がいるのに仲間が欲しいだって? ご主人、どういうことだ。猫は仲間ではないと言うのか」
「猫は家族だろう」
「そうか、そうだな。猫は家族だ」
途端に機嫌をなおした猫はしっぽをピンと立てて少年のそばへ寄ると、体を相手の足にこすりつける。
少年は戸惑いながらも猫の背に手をやると、その艶やかな毛並みに驚いたのか、座りこんで本格的に撫ではじめる。
頭のうしろから背中をとおってお尻へ手を這わせ、何度も何度も繰り返す。
すると猫は喉をゴロゴロと鳴らして機嫌を良くし、ついには地面に転がりはじめた。
「猫、おまえは……」
「ご主人よ、この者はよいな。猫にはわかる。猫の家族になる者の手だよ」
「猫はこう言うが、きみはどうだい?」
「知らないよ。うちに猫はいなかったし、この子がはじめての猫なんだから」
すっかり少年が気に入ったらしい猫が抱っこをねだり、マリオと名乗った少年が猫を抱える隣を歩いているうちに、互いの身の上話をすることになった。
イヴァンは粉ひき屋の下働きしかさせてもらえない生活がイヤになって、独り立ちをするために旅に出たことを告げると、相手もまたうなずいたものだ。
「こっちも似たようなものだ」
家は金物屋で、職人の子として生まれたけれど、父親も周囲もみんな「おまえには無理だ」と言って、まともに仕事をさせてくれなかったという。
近所の鍛冶屋から火の粉が飛んだせいで家を焼き出され、親方だった父は死んでしまった。金物屋は一番弟子が継ぐこととなり、世話係として雇ってやろうとニヤニヤ笑いながら言われたことで腹が立ち、「そんなことをするぐらいなら出て行く」と啖呵を切り、そうして追い出されたのだそうだ。
「餞別にくれてやると言われたのが、この鍋だ」
「親父殿が作った物か?」
「さあ、知らない。家の焼け跡から見つかった、頑丈でしぶとい鍋だよ」
カバンにくくりつけてあった鍋をカンと手のひらで叩いて、マリオはくちを尖らせる。
「こんな鍋ひとつでなにができるってんだ。頭にかぶれば保護帽、手に持って前にかざせば敵の攻撃を防ぐ盾。あとはただスープが湧いてくるだけのシロモノだ」
「なんだって? スープが湧いてくる?」
イヴァンが驚くと、マリオはまずいことを言ったぞ、という顔をしてくちごもる。
猫がマリオの胸に白い手を当てて、ぐいっと背を伸ばし「どういうことだい? 猫に教えておくれよ」と顔の近くで問いかけると、マリオはいよいよしまったといった顔つきで息を吐いた。
「……この鍋はさ、おかしな鍋なんだ。湯を沸かそうと水を入れて火にかけたら、ただの井戸水がスープになった」
「どんなスープなんだ」
「どんなもなにも、具のないスープだよ。豆のひとつでも入っていればいいものを。まあ、おかげで水さえ手に入れば食事にはありつけるが、さすがにもう飽きた」
「その気持ち、すごくよくわかるぞ」
しみじみと呟くイヴァンにマリオが首をかしげる。
だからイヴァンはカバンから例の袋を取り出して説明をした。いくらでもパンを出すことできるけど、それしかなくて飽き飽きしてしているのだと。
「それは不思議な袋だね。パンを食べてみたいな」
「俺もそのスープを飲んでみたい」
「猫がいいことを考えた。一緒にごはんを食べればいいんだ」
ぴょんと猫が跳ねてマリオの腕から飛び出すと、しっぽをピンと立ててふたりに言う。
「そうと決まれば、さあ行こう。新しい冒険のはじまりだ」
太陽が沈むよりも前に、新しい町に辿り着いたが、イヴァンもマリオも宿に泊まるほどのお金はなく、森近くの小屋を借りることにして火を熾す。
道中で汲んできた水を鍋に注ぐと、マリオは手馴れたようすで鍋を火に掛けて杓子でかきまぜる。
するとどうしたことか、ただの透明な水にだんだんと色が付きはじめ、やがていい匂いが漂ってくるのだ。
イヴァンはごくりと喉を鳴らし、ぐるぐると腹も鳴らした。
「ひどくうまそうな匂いがするぞ」
「そうかな。いつもとかわりないけれど」
「いつもこんなスープを、飽きるほどに飲んでいるだなんて」
「そりゃあ、最初はよかったけど。具が入っていなけりゃ、ただの水分だよ」
「ならば、これでどうだろう」
イヴァンは袋に手を入れて「香ばしく焼き目のついたパンの欠片が欲しい」と唱えてから、手を引き抜く。
にぎった拳を開くと、そこにはひとくち大に揃えて切ったような形のパンがたくさんあった。まるでオーブンで焼いたように表面がカラリと焦げていて、香ばしい匂いもする。
木をくりぬいて作ったお椀にスープを注ぎ、イヴァンが取り出したパンを浮かべる。
「そら、具ができた」
「本当だ。おいしそうに見えるね」
さっそく食べてみたところ、目を見張るほどにおいしいものだった。
スープもパンも、それぞれがそれぞれの味に飽きていたけれど、ふたつが合わさることによって、まったくべつの、新しい料理へ変わっていたからだ。
「猫にもおくれよ」
「それはいいけど、おまえ、熱すぎるものは苦手じゃなかったか?」
「冷まして食べるから問題ないよ」
イヴァンは平たい皿にスープを注いでやり、カリカリのパンを添えてやる。
スープを吸ったパンを食べ、ほどよく冷めたスープを飲んで、猫もご満悦。全員がひさしぶりに満足のいく食事をし、眠りについたのであった。
それから、イヴァンとマリオ、それと猫はともに旅をつづけ、道中で見つけた食材を鍋に入れて、さまざまなスープを作ることになった。
森で採ったキノコ、群生していたハーブ、畑の隅に捨てられていた野菜くず、猫が捕まえた魚。
木の実はスープに向かなかったけれど、小麦の袋に入れて振ったところ、木の実入りのパンになって出てくることもわかった。
パンと引き換えにして貰ったミルクを鍋に入れて掻き混ぜると、クリーミーなスープができあがる。小麦の粉をそのまま取り出してミルクで溶けば、トロリとしたシチューだって食べられた。
マリオはじつにさまざまなスープを作り、それを惜しげもなくイヴァンと猫に分け与えてくれる。申し訳ないと謝るイヴァンにマリオは首を横に振る。
非力で、重たい道具を使った職人仕事はうまくいかず、父親の弟子たちに出す食事や周囲の掃除なんかをやっていて、できることはそれしかなくて。
だから今だって、イヴァンの足手まといにならないように、せめてこれぐらいはと精を出しているのだとさびしそうに笑ったものだ。
イヴァンがなんと言っていいものか考えていると、先に猫が憤慨した。
「それはひどいことだ。嫌ならばもうやらなければいいと猫は思う」
「俺も同意だよ。いままでありがとうマリオ。きみはきみの道を行けばいい。無理をして俺たちに付き合う必要はないんだ」
「無理なんてしていないよ。自分になにができるのか、なにがしたいのか、よくわかっていなかったけれど、それでもこうして自分が作ったものをおいしいと食べてくれるひとがいること、それはとてもうれしいことだって知れたから。だからこっちこそ、一緒にいてくれてありがとうイヴァン、それと猫」
「これからも、猫においしいごはんを作ってくれると、猫はうれしい」
「おい、ずるいぞ、猫」
ちゃっかりしている猫にイヴァンがくちを尖らせると、マリオが笑う。
今度はとても楽しそうに。
その笑顔を見て、イヴァンはうれしくなった。
イヴァンもマリオも道半ば。
お互いにやりたいことを見つけるまでは旅をつづけていくことに決めて、それからは自分たちの荷物を共用したり、分け合ったりしながら先へ進む。
「思ったのだけど、どうしてイヴァンはパンばかりを取り出しているの? 猫が言うことが本当なら、小麦を使って作る食べ物は、なんだって取り出せるんじゃないの?」
「それはどういう意味だろう」
「たとえばパスタだって小麦からできているじゃない。小麦粉を使ってシチューを作ったように、クッキーやケーキだって出そうと思えば出てくるはずでしょう?」
「それらはすべて小麦で?」
「……イヴァンは本当に粉ひき屋の子どもなの?」
「粉ひき屋は粉をひくだけ。そのあとのことなんて知るものかい」
マリオが呆れたようにイヴァンを見るけれど、そんなことを言われても仕方がない。知らないものは知らないのだ。
長男に言われるがままに雑用をこなし、粉ひき小屋の仕事はすべて知っているような気持ちになっていたけれど、イヴァンの知っていることは世界のほんの一握りでしかなかったことにようやく気づく。世界はとても広いのだ。
イヴァンはマリオに乞われるままに、魔法の袋から食材を取り出す。
パンを浮かべたスープから、スープパスタや、クリームパスタがメニューに加わった。
乾麺であるパスタを束ねておいて、立ち寄った町で売ったり、物々交換で別の物と取り換えたり。
マリオが持っていた大きなカバンにはたくさんの香辛料や燻製肉が詰め込まれ、それを背負うのはイヴァンのお役目。
各地をまわり、その土地ごとのめずらしい物を手に入れては別の土地で売り、行商のように暮らす生活は、なかなかに楽しいものだ。
ある日に立ち寄った町、大きな市場でいつものように露店を広げていると、ひとりの男が立ち止まった。イヴァンは声をかける。
「すまないお客人、まだ準備中だが、欲しいものがあるなら用立てよう」
「おまえ、マリオンじゃないか。こんなところでなにをしている。それに、この男はなんだ」
男の視線はイヴァンを通りすぎ、そのうしろで荷の整理をしているマリオに向いていた。そのマリオはといえば強張った顔をして客を見ており、けれどつぎには冷たい目をして言葉を返す。
「ひさしぶりだね。そっちこそ、どうしてここへ? 買い付けにでも来たの?」
「弟子仲間のひとりが、ここで商いを始めるというから覗きに来たんだ。おまえはなんだ、逃げた先で男を作ったのか。オレへの当てつけか」
「意味がわからない」
「親方になったオレの嫁になり、金物屋の女将になればいいものを」
「わたしがなりたいのは職人であって、あんたの小間使いじゃない」
「女のくせに職人を名乗るなど、生意気にもほどがある。おまえはむかしからそうだ、小賢しいことこのうえない。オレに逆らってばかりいて、おとなしく言うことを聞いていれば嫁にしてやるのに」
「まっぴらごめんだね」
イヴァンが見ている前で、なにやら喧嘩がはじまった。足下にいた猫が言う。
「猫は知っているぞ。こういうのは修羅場というんだ。ご主人、間男になにか言ってやれ」
「この場合の間男はどちらなのだろう」
「そんなものは決まっているじゃないか。猫にだってわかるのに、どうして同じ人間のご主人にはわからないんだ」
猫が呆れた声をあげた。
高圧的に、一方的に、こちらの言うことなんて意に介さずに自分の意見ばかりを言う男に、イヴァンは兄を思い出した。
いつも言い含められて、うまく逆らうこともできず、萎縮してばかりの人生だった。結局は夜逃げ同然に粉ひき小屋から出てきたイヴァンだが、もうあのころのイヴァンではない。
ぐっと拳をにぎると、マリオを庇うように前に立ち、イヴァンは男に言った。
「勝手なことを言わないでくれ。彼女は立派な職人だ。手先が器用で、細かな仕事が得意。物知りだし、俺の知らないことをたくさん教えてくれる。料理上手で、彼女の作るものはなんだってとびきり美味い。まるで魔法の手だ」
イヴァンの背になにかが触れる。
それはきっとうしろにいるマリオの手。
細くて小さくて、折れそうなほどに華奢な、イヴァンとはまったくちがう女性の手だった。
父親を亡くし、家も失くし。身なりをまともに整える金もないまま、ひとりきりで旅をするために男を装って髪を短く切り落としたのだろう。
あのとき自分と出会わなければ、彼女はどうなっていたのか。想像すると、イヴァンは胸が引き千切られるような心地がする。
「さあ帰ってくれ、あなたに売る物はなにもない」
シャー!
とどめとばかりに猫が威嚇すると、男はびくりと肩を震わせて逃げるように去って行った。イヴァンは振り返ってマリオに頭を下げる。
「すまない。勝手に断ってしまった。きみは帰ることだってできたのに」
「家なんて、とっくに燃えてなくなってる。それよりも、騙していてごめんなさい。わたしの本当の名前はマリオンというの」
男でなければ職人になれないと言われて育ち、それならばと村を出たときに男の子として生きようと、名前を偽ったのだ。
頭を下げる彼女に猫が答えた。
「なあに、猫は最初からマリオンが女の子であると知っていたのだから、騙されてなんていやしないのさ」
「おまえ、猫よ。知っていたのなら、どうして教えてくれないんだ」
「ご主人は優しいから、知っていて黙っていると思っていたのになあ」
イヴァンと猫が言い合いをしていると、マリオンはくすくすと笑う。
やわらかい笑顔はイヴァンよりも年下の女の子そのもので、いったいどうしていままで気づかずにいられたのだろうと、イヴァンは胸をドキドキさせる。
猫はそんな主人の足を白い手で叩いて励ました。
「こんなわたしだけど、まだ一緒に旅をしてもいいかな」
「それは俺こそが言いたいことだよ。こんな情けなくて弱い俺だけど、これからも一緒にいてほしい」
「イヴァンは弱くなんてないよ」
「そうだよ。ご主人は猫を助けてくれた、優しくて勇敢な、猫にとって自慢のご主人さまだよ」
生まれて間もなく親猫とはぐれ、意地悪な子どもたちに泥をぶつけられて死にそうになっていた猫を助けてくれたのがイヴァンだ。
近所の子たちに『弱虫イヴァン』と笑われていた幼いイヴァンは、けれど必死になって猫を守って、家に連れて帰ってくれた。粉ひき小屋には猫が必要だと家族に訴えて、猫に『家』を作ってくれたのだ。
イヴァンの両親はいそがしく、子どもにあまりかまってくれない。
兄たちも自身のことでせいいっぱい。末っ子のイヴァンはいつだってひとりぼっちで、猫と過ごした。
だから、猫にとっての家族はイヴァンである。
猫はなにがあってもご主人の傍にいると決めているし、猫はどうしたって『猫』であることを知っているので、イヴァンに家族を作ってあげることが、猫の最大のご恩返しと心得ていた。
猫はそのために冒険の旅に出て、そうしてマリオンを見つけて捕まえた。
猫はとても賢い猫なので、捕まえた大切なものは、きちんとご主人に献上もした。
イヴァンとマリオン、それと猫は、また新しい町を目指して旅に出る。
次はどんなスープができるだろう。
なんでも知っている猫でも、それはわからない。
わからないから、楽しみなのだ。
とある町に建っている『なべとふくろ亭』は、焼き立てのパンと美味しい日替わりスープが安く食べられる、人気の食事処である。
麦わら色の髪をした優しい店主がパンを焼き、金色の長い髪をひとつにまとめた美しい妻が、大きな鍋を使ってスープを作る。
仲の良い夫婦が営む店内はカウンターとふたつのテーブル席でいっぱいになる程度の、小さな小さなお店だけれど、いつでもお客でいっぱいだった。
店のなかでもいちばん日当たりのよいカウンターの片隅には、年季の入った小ぶりな鍋が置いてあり、いつだってそこには一匹の猫が入っている。
闇のように美しい黒い毛並みをしているけれど、手と足の先っぽだけは雪のように白いところが特徴的な猫だ。
どうしていちばんの特等席に猫がいるのかって?
一見の客に不思議そうに問われると、店主は笑っていつもこう答える。
そこに鍋があれば中に入る。猫はそういうものだよ。
「いそがしければ、いつだって猫が、猫の手を貸してあげるよ」と猫は言っているとかなんとか。
追記
たくさんの方に読んでいただいて、嬉しいです。ありがとうございます。やはり猫は強い。
今は亡き猫たちを思い出しながら、猫を書きました。
よろしければ感想欄で、皆さんも猫あるあるを語っていってくださいませ。
余計な補足
猫の声は誰にでも聞こえているわけではありません。
猫が家族と認めているイヴァンにだけ聞こえていたけれど、マリオンも最初から猫の声を聞いているということは、つまりそれは=家族で、イヴァンの嫁になる者だと猫は知りました。
最初のころ、抱っこされて、胸に手を置いたこともあるので、性別をすぐに悟りました。
猫はなんでも知っているのです。