第6話 347のケセラセラ
橙色の陽光は傾いて、放課後の時間は未だに続いている。
迷路みたいな土地柄と陰鬱とした路地裏の異様な光景とは違って、風通しの良い広場には人の気配を離れた雰囲気があり、着想が捗りそうな場所だった。
不意に訪れる胸の苦しみ。
秘密にしていたノスタルジアを思い出す。
隠れ家、なんて物懐かしさを浸るのに相応しい言葉を送る。
都会の杜撰な空気とは程遠い涼感と、儚くて明るい日差しの暖かみ、一望出来る青空の領域は距離に気付いている筈なのに、伸ばした手が届きそうな気がして。
寂寥感が漂う喫茶店の存在。
年季の入った木製のオープンクローズの看板。
淹れたばかりのコーヒーの芳香が過去の情景を呼び起こす。かつて無知な少年が求めていた理想、当たり前の日常を特別にしようと奔走していた、美徳の記憶。
今は自分自身さえも見失い、見る影もない。
後悔の連続だった。何が正しい選択なのか自問自答を繰り返す。
心だけがずっと乾いていた。
幸せだった日常が徐々に色褪せていく。反省する時間が増えてきた。
霞み始める幸せ。ふと気付けば独りになろうとしている。あの日、大事な約束を守っていれば、バカみたいな毎日が続いていたのかもしれない。
最近、笑う頻度が減ったする。
それ以前に、腹の底から笑ったのは何時だったのか、とうに忘れてしまった。
『―――■■』
涙は出ない。情熱は死んだ。見劣りする猿の真似事。
小心者の悪足掻き。狭い世界で観測したペラペラの損得勘定。腐り切った名誉は要らない。ただただ欲しいのは、責任転嫁ではなく自己犠牲の志だけ。
自分だけが不幸になれば。自分だけが我慢をすれば。
積み重ねてきた『嘘』で他者の人間関係を改善出来るのならば。
肩からするりと落ちて、主人の元に歩み寄る黒ネコも身勝手でしかないように。
不条理な現実を。
それでも式守新は受け入れるつもりだ。
「……どうやら、曰く付きのようじゃな。お前さん、死出の道が見えるわい」
「死出の道……?」
思い当たる節がない新は不思議そうに首を傾げている。
一方、黒ネコと戯れる老婆は慣れた手付きで猫の顎を撫でている。黒ネコは上機嫌に喉を鳴らしており、地面に寝転んでいた。
「死相が見えとる。お前さんから死出の道が匂うぞ」
「え!? いや、ちゃんと風呂に入っているし、消臭剤も使っているし……」
「安直的な嗅覚の問題ではない。お前さんに降りかかる火の粉は……」
「お、あった。消臭剤」
「ワシの話を聞け! この若造が!」
制服や身辺を意識したり、素っ頓狂な一面を露呈する新に対して、腑抜けた光景に老婆は大層呆れており、やれやれと首を左右に振る。
全く、最近の若者は融通も利かんのか、と幻滅そうに老婆は溜め息を吐いた。
痺れを切らしたのか率先して新の方に歩み寄る老婆。
如何にもインチキな心証を残る為不審者にしか見えないが、目の前に止まる老婆は戸惑いと強張る微笑をした新のことを品定めのようにサングラスの奥にある瞳を凝らしていた。
特徴的な星形のサングラス。年齢は70代後の印象だろうか。
白髪と黒髪、そして金髪混じりのロングヘアー。黒を基調としたパンクな服装は単なる若作りというよりも激動の時代を経験した齢の凄みを感じさせる。
何より、サングラスに隠す眼光は只者じゃない。
そもそも誰なんだこの人は、なんて不審げに考えていると。
途端、老婆は手の平を見せてきて。
「お前さんは運が良い。ワシの占星術を渋沢一枚ポッキリで特別に占えるぞ」
「ない。金。全部無い」
差し出されたのは金のハンドサインだった。
判断は正しかった。目の前にいる老婆が詐欺師だと確信した新は明確に目の色を変える。意味不明な単語と高校生に厳しい高額請求。元来素寒貧なのに、生命線を搾取されるのは御免だ。
「高校生相手に大金を巻き上げるのは、流石に金の亡者すぎないか?」
「はて? 商売に年齢は関係あるんか?」
「いや、あるだろ。商品の価値に対する価格。その為の金額設定があって……」
「……お前さん。価額設定以前に我々は消費者なんじゃよ。税金は未来への投資。つまり、お前さんは運勢を占えるし、ワシも救えて一石二鳥じゃ!」
「その屁理屈こそがペテン師の発想じゃん……」
「……やれやれ、これだから青二才の考える正義感など到底理解に苦しむ。お主、背伸びした程度の価値観を改めると良い。元来地頭が回るお前さんには、値段相応のニーズの大切さが分かるじゃろ?」
「ふざけるな。悪質な高額請求は原価の格差が一方的に広がるだけだ」
徹頭徹尾不運の繰り返し。占いについて一切信じていない。
おみくじもそうだ。大吉を引いても効果はない。
神頼みは自分自身と向き合う為の鏡であって、一年間の心構えを意識すること。本心を理解することでご利益を授かるが、可能に出来る人間はほんの僅かだ。
だがしかし、この世は弱肉強食の縦社会。藁にも縋る気持ちで霊験を肖りたい人達の悲痛な感情を、金品を巻き上げようとする欺瞞者は決して許さない。
文化を踏み躙る。下賎な連中を。
悲劇を好み、蹂躙を望む、極彩色の欲望を。
怒りだけは今も佇んでいる。
「ハッキリ言ってやるよ。―――アンタ、俺の腹の中を探ろうとしてるんだろ?」




