終局 ~ルドン「皿の上に」より~
【心を打つ絵に出会った時、言葉が溢れて詩になります】
名画を詩にしてお届けします。著作権フリーの場合は、絵画の画像も掲載します。
素敵な絵も、どうぞお楽しみ下さい。
On the Dish, plate ten from In Dreams Odilon Redon 1879
殺した筈だ
なぜ お前は皿の上にいる
あれから
朝食も 昼餉も 夜の宴でも
従者たちは無言で
俺の前に「お前」を置いていく
責める目つきで
ヘロデ王よ あなたは何故
徳高き聖人を殺めたのですか
息の根を止めれば
もう煩わされることもなかろうと
思っていたのに
皆 忘れない
それどころか 賛美して止まないのだ
人は
己の生きざまを皿の上に載せて
終局を迎える
人は
心動かされる皿に手を伸ばし
日々の糧として生きていく
ヨハネよ
命が尽きても お前は終わらない
これからも生き続ける
信じる者の心に
新約聖書「洗礼者ヨハネの殉教」より
★ ★ ★ ★
読んで下さって、有難うございます。
ここで、題材にした新約聖書「洗礼者ヨハネの殉教」のお話を。
「洗礼者ヨハネの首を。お盆に載せて、それを戴きとう存じます」
サロメの申し出に、ヘロデ王は困惑しました。
「お前の望むものを褒美として与えよう。なんでもよいぞ」
宴の場で、彼女に約してしまったからです。
王として、「できない」とは言えません。沽券にかかわります。
かくして、洗礼者ヨハネは、首を刎ねられてしまった。それが、大まかなあらすじ。
しかし。なぜ、サロメはヨハネの首を欲したのか?
新約聖書の話は、シンプル。情報が、あまり書かれていません。
ヘロデ王は、弟の妻に横恋慕し、強引に自分の妻としていた。
それを公然と批判したのが、洗礼者ヨハネ。
「自分の兄弟の妻と結婚することは、ユダヤ法で許されていない」
ド正論です。
誰も、権力者に面と向かって言えなかっただけ。
激怒したヘロデ王は、ヨハネを捕らえ、監獄に繋ぎ留めました。
とはいえ。ヨハネは民に絶大な人気があった。
そして、ヘロデ王自身も、心の内側では認めていた。
ヨハネこそ聖人である、と。
捕らえたはいいが、どうしたものか……。
処遇に悩んでいるところに、事件は起こりました。
ヘロデ王の誕生日。祝宴が催され、そこでサロメが踊りを披露したのです。
「素晴らしい!」
皆が口々に褒め称えました。いい気になったヘロデ王も、絶賛。浅はかにも、冒頭のセリフを言ってしまったわけです。
実のところ、サロメの立ち位置は微妙なものでした。
彼女は、ヘロデ王の実の子ではありません。例の、強引に手に入れた妻の連れ子でした。
それでもプリンセスとして扱われていたのか?
私は違うと思います。なぜなら、ヘロデ王は、こうも言ったからです。
「望むなら、お前にこの国の半分を与えてもよい」
実子認定ですかね。
もしくは、「お前も俺の妻になれ」的な意図も感じます。
どっちにしても、いやらしさがプンプン。
サロメの母親、つまりヘロデ王の妻は、名を「へロディア」といいました。
時の王様に、無理やり妻にされるくらいなのですから、かなりな美貌の持ち主と思われます。
そして、こう書かれているのです。
へロディアはヨハネを憎んでいた。理由は、結婚を非難されたから。
う~ん。ということは、へロディア自身は、この結婚を「イエス! OK! 王妃に昇格、権力上等!」と捉えていたんだなあ。
恥じる気持ちや、元の夫への愛情があれば、悲劇のヒロインです。結婚を非難するヨハネは、自分の味方と思うでしょう。
憎んでいた。余計な事言うんじゃないわよ。私はこれでいいんだから。
ヘロデ王に褒美を問われたサロメは、この母親に尋ねます。
「何を願ったらよいでしょう?」
渡りに舟。
「洗礼者ヨハネの首を望みなさい」
娘のサロメは、母に言われた通り、ヘロデ王に申し述べたわけ。
「洗礼者ヨハネの首を。お盆に載せて、それを戴きとう存じます」
さらっと書いてあるけど、サロメが変だ。絶対に、おかしい。
なぜ母親に尋ねるのだろう?
そして、「人を殺せ」という望みなのに、なぜ唯々諾々として従うのだろう。
サロメの年齢は書いていない。
だが、そう幼くはない筈。
彼女の踊りは、宴の列席者から誉めそやされている。
そう、男心をくすぐる程度には熟していたと思われるのだ。
これが幼い子供の舞であったら、「あらあら、かわいいねえ。お上手ねえ」で終わるだけだから。
なのに、自分で考えていない。
母に聞く。そのまま伝える。その行動に、幼さを感じる。
母へロディアにも、空恐ろしさを感じる。
自分の邪魔者を消すために、我が娘を利用する。まったく躊躇わない。
そもそも、ヘロデ王がヨハネを殺せなかったのは、
「聖人殺して、地獄行きとか怖いな~」
だった。へロディアだって、それを分かっていたはずだ。
なのに、娘に片棒を担がせてしまう。
そしてサロメは言いなりになる。
全て分かって母の望みを叶えたかったのか、反抗できないだけなのか。
歪んだ母子関係が、あったのではないかと思う。
支配する母親。そして、宮廷に自分の明確な居場所は無い。
そんななか、踊りを認められて、何か褒美を頂けるという。
ねえ、私、すごいでしょ。ほめて。
お母さまの役に立てるでしょ?
貰った獲物を口に銜えて、母親の前に差し出すサロメ。
だが、支配欲の強い人間は、自分に隷属する者を見直したりはしない。
下す評価は、常にマイナス。自分の役に立って、はじめてゼロになる程度だ。
永遠に、プラスにはならない。
へロディアが娘のサロメを認める日は、永遠に来ない。
また、サロメの側には、義理の父に対する反感があったに違いない。
ヨハネを殺したら、王として困る事態になる。幼女でなければ、そのくらいは分かった筈だ。
ふん、困ればいいんだわ。
国の行く末を案じる視点は、継子のサロメには無い。
そして、殺されるヨハネに対する同情も、サロメにはなかった。
たぶん、それどころではなくなるのだ。
ずっと母親から認められたくて、愛情が欲しくて、でも得られない。
この満たされない欲求は、原始的なものだ。
加えて、思春期の暴風が、その体内に巻き起こっていただろう。
両方が合わさる時、それは破壊的な衝動となって、他者へと向けられる。
死んだって構わないでしょ、そんなやつ。
もともと、王族に連なるお嬢様だ。食うに困ったことのある生まれではない。
他者に対する憐れみも、自分に精一杯の状況で、軽く吹っ飛んでいる。
お盆に載せられたヨハネの首。
それを、サロメはどんな気持ちで受け取ったのだろうか。
縋るような目で母に差し出す。
だが、へロディアは、目を向けて認めると、それきり。手を払って追いやる。
彼女にとっては、ヨハネが死にさえすればいいから。
あらそう。もう終わったの。あっちへやって頂戴。
母親の様子に、サロメは悟るだろう。
何も変わらない。
人を殺したって、自分に愛情を持ってくれるわけではないのだ、と。
そして、取り返しのつかない事実だけが残る。
ただ、聖人が一人、犠牲になっただけだという……。
〔注意書き〕
オペラの「サロメ」ではなく、新約聖書の話から考察しています。
オペラの元となったオスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」は、いわば二次創作。
新約聖書の話を独自に脚色し、キャラ設定等もモリモリに盛ったもの。
それはそれで楽しいのですが。
★ ★ ★ ★
ブログサイトには、以下の詩を公開しています。
狼の巣穴「ミレイ」
ということで、「名画の詩集2」ルドン、ようやく無事に完結致しました。
テーマは、「人生」です。
出発 「堕天使はその時黒い翼を開いた」
恋 「キュクロプス」
挑戦 「笑う蜘蛛」
別離 「オフィーリア」
老苦 「老いた天使」
終局 「皿の上に」
無事完結できてよかった~。
今後、詩に関しては、主にnoteの方で発表していく予定です。
これまでお読み下さいまして、有難うございました。
どうぞよろしくお願い致します。
※「講談社NOVELDAYS」にも同作品を投稿しています
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