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恋唄

人の痛みがわからない霧島くんは、泣き虫美少女に付き纏われる

作者: 間咲正樹
掲載日:2023/05/12

「ふぐっ……えっぐ……うぐぇ……」

「……!」


 ある日の学校の帰り道。

 女の子が一人、道端でうずくまって嗚咽していた。

 この子は確か……隣のクラスの……。

 名前は何だったか……。

 ダメだ、思い出せない。

 やたら男子人気が高かったことだけは覚えているが。

 まあ、ラノベの表紙に載ってるくらいの可愛い子だから無理もない。

 今は涙と鼻水でぐしゃぐしゃで、見る影もないが……。

 とはいえ、俺には関係のない話。

 厄介事に関わるのも御免だし、ここは無視して通り過ぎよう。

 ――が、


「ううぇ……! うぶぇっ……!! ぶびええええええ……!!!」

「…………」


 悪魔に取り憑かれたんじゃないかってレベルの大号泣で、逆に怖くなってきた。

 これをこのまま放っておいたら、後で呪われそうな気さえする……。

 ……ハァ、しょうがねえな。


「……あのー、はい、これ」

「ふえっ?」


 ハンカチをそっと差し出す。

 途端、号泣少女はピタリと泣き止み、ツチノコでも目撃したみたいなポカンとした顔になった。

 まあ、俺みたいな陰キャに急に話し掛けられたら、そりゃそんな顔にもなるか。

 あー、こりゃやっちまったか。


「……ゴメン、何でもないです」


 ハンカチを引っ込めようとする。

 ――が、


「ちょ、ちょっと待って!? ありがとう霧島(きりしま)くん! 優しいんだね!」

「――!」


 素早くハンカチを奪われ、それでゴシゴシと顔を拭かれた。

 ……この子、俺の名前を知ってたのか。


「ゴメンねハンカチ汚しちゃって。洗濯して返すから!」

「……別にいいよ」

「そういうわけにはいかないよ! あのー、私、隣のクラスの温水(ぬくみず)正美(まさみ)っていうんだけど、知ってる?」

「う、うん」


 温水さんはガバリと立ち上がり、グイグイ距離を詰めてきた。

 まあ、名前は今知ったんだけど。

 それにしてもこの感じ、さてはこの人ゴリゴリの陽キャだな?

 正直苦手なタイプだ……。

 俺は早くも話し掛けたことを後悔し始めていた。

 かといって「じゃあ俺はここで」と会話をブツ切りにして帰る勇気もない。

 適当に会話を繋げて、折を見て切り上げよう。


「随分泣いてたけど、何か辛いことでもあったの?」

「っ!」


 温水さんの大きな瞳に、再度大粒の涙が浮かんだ。

 あっ……!


「う、うん……、それがね……、く、車に轢かれちゃった、猫ちゃんがいて……。うぶえあああああああ……!!!」

「っ!?」


 温水さんは漫画みたいに滝のような涙を流し始めた。

 涙には小さな虹がかかっている。

 見れば温水さんの足元の土が、こんもりと膨れている。

 ああ、温水さんは猫の死骸を埋めてあげてたのか。


「……凄いね、温水さんは」

「え?」


 またしても温水さんはピタリと泣き止んだ(赤ちゃんみたいだな)。


「温水さんは、自分以外の人の痛みも、自分のことみたいに感じられるんだね」

「……!」

「俺にはそういう感覚……ないから」


 そう、俺は生まれてこの方、人のために泣くという経験をしたことがない。

 テレビを観ていて、事故で何人もの人が死んだなんてニュースが流れてきても、気の毒だなくらいには思うけど、悲しいという感情はまったく湧いてこない。

 だって俺とは関係ないからだ。

 この世界では、毎日数え切れないくらいの命が失われている。

 その命一つ一つに同情していては、とてもじゃないが身が持たないだろう?

 だから俺は、一度も募金とかもしたことはない。

 俺は誰にも同情はしないし、誰のことも助けない。

 ……今日温水さんにハンカチをあげたのは、ほんの気まぐれだ。


「……そっか。霧島くんは、幸せな人生を送ってきたんだね」

「……え?」


 俺が……幸せ?


「あっ、ゴメン! 何か感じ悪い言い方だったよね!」

「あ、いや、別に」


 むしろどういう意味か訊きたいくらいだけど。


「……私も昔は霧島くんと似たような性格だったから、気持ちよくわかるんだー」

「……!」


 温水さんが、俺と……!?

 そんなバカな……。

 野良猫の死にも号泣するほどの温水さんが、俺と似てるなんて……。


「でもね、中学生の時に、お母さんが病気で死んじゃってさ」

「っ!」


 お、お母さん、が……。


「それ以来、ずっと心に消えない傷が残ってて、ふとしたことがキッカケでその傷がまた開いて、涙が止まらなくなるの……。う……、うぐ……、ぶええええええ……!!」

「……」


 温水さんはまたしてもワンワン泣き出した。

 そうか、お母さんが……。

 確かに俺の両親は健在で、それどころか父方と母方のじいちゃんばあちゃんもまだまだ全然元気だ。

 俺は身近な人間の死というものを、一度も経験したことがない。

 ともすれば俺も家族の死を目の当たりにしたら、温水さんみたいになるのだろうか?

 ……いや。


「それでもやっぱり温水さんは凄いよ。俺はきっと温水さんと似たような立場になっても、温水さんみたいにはならないだろうから」

「――!」


 俺が野良猫の死骸を見て号泣している様は、想像することすら難しい。


「いーや、霧島くんも絶対私みたいになるよ! 霧島くんからは、私と同じ匂いがするもん!」

「に、匂い!?」


 温水さんはビシッと俺に指を差してきた。

 温水さんが言っているのが物理的な匂いではないのはもちろんわかっているが、つい自分の体臭が気になってしまう。


「……実は前から廊下とかで霧島くんを見掛けるたび、シンパシーを感じてたんだよね。だから何となく霧島くんのことは、気になってたの」

「――!」


 温水さんはえへへと笑いながら、恥ずかしそうに頬をポリポリ掻いた。

 そんな、温水さんが前から俺のことを……。


「私は自信がある! 霧島くんもいつかきっと、私みたいな泣き虫になっちゃうよ!」

「……そうかな」

「絶対そうだよ! わかった。じゃあその証拠に、私が霧島くんのこと泣かせてみせるね!」

「……はぁ?」


 温水さんが、俺を……?


「とりあえず連絡先交換しよ!」

「あ、うん……」


 流されるままに、スマホのトークアプリのIDを交換してしまった。

 お、俺のスマホに、初めて女の子の連絡先が……。

 しかも温水さんみたいな、ラノベ表紙美少女の……。

 これ、新手のドッキリじゃないだろうな?


「よし! 霧島くん、明日って何か用事ある?」

「明日?」


 明日は土曜日で学校は休みだが、帰宅部の俺に用事なんかあるわけがない。


「別に、ないけど」

「じゃあ明日の午後の二時に、駅前に集合ね! 霧島くんに見せたいものあるからさ!」

「へ?」


 ぬ、温水さん??


「また明日ねー!」

「あ……うん」


 子どもみたいに両手をブンブン振りながら、温水さんは走り去って行った。

 ……これは厄介なことになったな。




「お待たせ霧島くん! ゴメン待った?」

「……いや、俺も今来たとこ」


 そして迎えた翌日。

 半ばドッキリですっぽかされるんじゃないかとドキドキしながら駅前で待っていると、二時ちょうどに温水さんは小走りで現れた。

 ……ドッキリじゃなかったのか。


「ん? どうかした? 私の顔に何か付いてる?」

「い、いや! 何でもないよ……」

「ふふ、じゃあ行こっか」

「……うん」


 今日の温水さんは、フリルをふんだんに使った小花柄のブラウスと、ピンクのプリーツスカートという出で立ちだった。

 ラノベ表紙美少女がラノベ表紙美少女みたいな格好をしているので、破壊力ばつ牛ン(誤字にあらず)だ。

 道行く男たちの、「何であんな冴えない男がラノベ表紙美少女と……」という視線が痛い。

 そんなの俺が訊きたいくらいだよ。


「ふっふふっふふーん」

「……」


 が、当の温水さんは俺のいたたまれなさを知ってか知らでか、鼻歌交じりにおもちゃの兵隊歩きをしている。

 ホントこの人は、太陽みたいな人だな……。


「あっ、そうだ! はい霧島くん、これ昨日はありがとね!」

「……!」


 昨日俺があげたハンカチを手渡された。

 綺麗にアイロンまでかけられている。


「別に返さなくてもよかったのに」

「いやいや、そういうわけにはいかないよ! お、お母さんにも、借りたものはちゃんと返しなさいって、教わったし……。うぐ……ぶぇ……」

「っ!」


 途端に目がうるうるになる温水さん。

 言わんこっちゃない!

 こんな人前で号泣されたら堪らん。

 何か話題を変えなければ……!


「そういえば、俺に見せたいものってのは、何なのかな?」

「え? ああ、よくぞ訊いてくれました!」


 ふぅ、いつもの太陽みたいな笑顔に戻った。

 よしよし、大分温水さんの扱い方がわかってきたぞ。


「これだよ!」

「……え?」


 温水さんが「ババーン」という擬音を自分で言いながら指差したのは、最近CMでよく流れている、『猫と僕の10の約束』という映画のポスターだった。

 うわぁ。


「もしかして、この映画を今から観るの?」

「そうだよ! これメッチャ感動するらしいんだよね! これを観たら霧島くんも絶対号泣間違いなしだって!」

「……」


 温水さんはペコちゃんみたいに舌を出して、サムズアップを向けてきた。

 その自信はどこからくるのだろう……。

 そもそも俺、映画ってミリも感動しないんだよね。

 だってあれはあくまでフィクションだろ?

 どれだけ劇中で多くの人が死んでも、所詮は虚構なんだから、感動しろってほうが無理な話じゃないか。

 まして俺は、現実の人の死にすら心が動かないってのにさ。


「ぐふふー、楽しみだなー、霧島くんが赤ちゃんみたいに泣いちゃう様を見るの!」

「……」


 俺はむしろ、温水さんが赤ちゃんみたいに泣いちゃわないか心配だよ。




「ふっ……、ふぐぅ……、ふんぎゃああああ……!!」

「…………」


 が、映画が始まって五分もしないうちに、温水さんは赤ちゃんみたいに泣き出した。

 早……。

 まだ全然感動的なシーンまでいってないのに。

 確かに冒頭の雰囲気から、最終的に主人公の少年とペットの猫との間に、悲しい別れが待っているのであろうことは想像できたが、まさかその想像だけで感極まってしまったとでもいうのか?

 いよいよ温水さんの日常生活が心配になってきたぞ。

 やれやれ。


「……」

「……! あ、ありがと」


 俺はさっき返してもらったハンカチを、再度温水さんに無言で差し出した。

 温水さんは頬を染めながらそっとハンカチを受け取ると、目元に押し当てて涙を吸わせる。

 映画が終わる頃には、ハンカチから「自分はもう……限界であります……!」と悲鳴が聞こえてきそうなほど、ハンカチはぐっちゅぐちゅになっていた。

 因みに俺は案の定、一滴の涙も流れなかった。




「ひぐっ……、ひっく……、うぐっ……」

「だ、大丈夫温水さん?」


 映画館を出て外の光を浴びてからも、温水さんの嗚咽は続いていた。

 いつか干からびてミイラになっちゃうんじゃないかと、気が気じゃない。

 どうしたもんかな……。


「……あ」

「?」


 その時だった。

 温水さんは急にピタリと泣き止み、ある一点を見つめた。

 温水さん?

 温水さんの視線の先を追うと、そこには一台の献血バスが停まっていた。


「ゴメン霧島くん、私ちょっと献血してくるから、少しだけ待っててね!」

「あ、うん」


 温水さんはいつになく真剣な表情で、献血バスへと走って行った。

 献血かぁ。

 いかにも温水さんぽいな。

 もちろん俺は、献血も一度もしたことはない。

 何で俺の貴重な血を、どこの馬の骨ともわからない人間に無償で提供してやらなきゃいけないのか。

 せめて相応の代金がもらえるなら、バイトと割り切ることもできるのに。

 これで輸血が成り立ってるんだから、日本人には本当にお人好しが多いんだろうな。

 みんながみんな俺みたいな人間だったら、あっという間に輸血用の血液は枯渇することだろう。




「お待たせ、霧島くん!」

「いや、別にいいよ」


 献血から戻った温水さんは、新しいパンツをはいたばかりの正月元旦の朝のよーな、スゲーッ爽やかな顔をしていた。

 献血をしただけでここまで幸せそうな顔になれるなら、ある意味ウィンウィンと言えよう。


「実は私、AB型のRhマイナスでさ、一番貴重な血液型だから、なるべく献血はするようにしてるの」

「……!」


 ……そうなんだ。


「私のお母さんも、AB型のRhマイナスだったから、お母さんと同じ血液型の人が、一人でも手術で困らないようにって……。う、うぐぅ……!」

「……!」


 よし、こういう時は――。


「温水さん、あそこでクレープ売ってるよ。一緒にクレープ食べない?」

「えっ!? クレープ!? ひゃっほー! 食べる食べるー!」


 ふぅ、危ない危ない。

 ふふ、温水さんを見てると、本当に飽きないな。

 …………あれ?

 もしかして今俺、ちょっと楽しいって思ってた?

 い、いやいやいや、有り得ない有り得ない。

 俺にそんな、人間らしい感情があるわけないんだから。


「ねえねえ霧島くんは何味にするー? 私はねー、ハムチーズ!」

「まさかのおかずクレープ!?」


 ハハッ、そうきたか。




 ――こうしてこの日以来、温水さんは何かにつけて俺のことを泣かそうと絡んでくるようになった。

 そのたびに洗ったハンカチを返してくれるのだが、結局また号泣してそのハンカチを差し出すというのの繰り返し。

 そんな日々を過ごすうちに、いつの間にか俺の隣には温水さんがいるのが当たり前になっていた――。




「あー、もー、どうやったら霧島くんを泣かせられるのかなー」


 ある日の放課後。

 隣を歩く温水さんは、今日も無駄な努力に頭を使っていた。


「いい加減諦めなよ。俺が人のために泣くことなんか、生涯有り得ないんだからさ」

「いーや、そんなことはないね! 霧島くんもいつかきっと――あっ」

「?」


 不意に温水さんが不穏な顔をしたので目線を追うと、横断歩道を一匹の子猫がテクテクと渡っているところだった。

 ちゃんと青信号で渡っているので、賢い猫なのかもしれない。

 でも、何で温水さんはそんな顔をしているんだ?


「あの車……、何かおかしくない?」

「ん?」


 温水さんの指差したほうを見ると、一台のスポーツカーが、蛇行しながらこちらに向かって来るところだった。

 確かにおかしい……。

 ひょっとして居眠り運転とかか?

 スポーツカーは横断歩道を渡る子猫に、スピードを落とさずに向かっている――。


「危ないッ!」

「温水さん!?」


 温水さんは脇目も振らず、子猫のところに飛び込んだ――。

 ――温水さん!

 次の瞬間、ドンッという鈍い音が、俺の鼓膜を震わせた――。




「ぬ、温水さん……」


 何が起きたのか理解するのに、数秒の時間を要した。

 スポーツカーは直前で急ブレーキを踏んだものの、それでも間に合わず、子猫に飛び掛かった温水さんと衝突した。

 温水さんの頭から流れた血が、横断歩道を赤黒く染める――。


「オイオイオイ、勘弁してくれよマジで」

「――!」


 スポーツカーから降りてきたのは、千鳥足で赤い顔をした若い男だった。

 こいつ、酒を飲んでやがる――!!


「ヤベーヤベー、知ーらねっと」

「オ、オイ!?」


 飲酒運転男はそそくさと車に戻り、あっという間に逆方向に逃げて行った。

 あの野郎、フザけやがって……!!

 俺の中でかつて感じたことのないほどの、ドス黒い何かが湧き上がってきた。

 今すぐあの男を追いかけて、温水さんと同じ目に遭わせてやる……!


「き、霧島……くん……」

「――! 温水さんッ!」


 よかった、息はある……!


「ね、猫ちゃんは……無事だった……?」

「……なっ」


 君ってやつは……!

 こんな時まで……!


「にゃぁ、にゃぁ」


 子猫は温水さんの腕から抜け出し、温水さんの頬をペロペロ舐めた。


「ハハ……よかっ……た……」

「温水さん!?」


 温水さんはゆっくりと目を閉じた。

 ……くっ!

 俺は震える手でスマホを取り出し、119番に電話をかけた。




「温水さん……」


 程なく到着した救急車に俺も一緒に乗り、最寄りの病院へと向かう。

 救急車の中で温水さんはよくわからない器具をたくさんつけられて、サイボーグみたいになっていた。

 そんな温水さんを眺めていたら、胸の辺りが鉛を付けられたみたいにズグンと重くなっていく感覚がした。

 何だこの感じは……?

 何故俺はこんな気持ちになっているんだ……?

 こんな心が押し潰されそうになる感覚、俺は知らない――。


「さあ君、着いたよ」

「――!」


 病院に着いたことを救急隊員さんに告げられた。

 ストレッチャーで病院の中に運ばれて行く温水さんを見ていたら、俺は――。


「あ、あのッ!」

「っ?」


 気が付けば俺は、救急隊員さんに声を掛けていた。


「その子の血液型は、AB型のRhマイナスなんです!」

「……!」

「AB型のRhマイナスって貴重なんですよね!? も、もし輸血が足りなくなったら、俺の血を使ってください! 俺も、AB型のRhマイナスなんで!」

「……」


 途端、救急隊員さんは目を少しだけ細めた。


「ありがとう。でも心配しなくて大丈夫だよ。AB型のRhマイナスの血液も、ちゃんとストックはあるから」

「――!」


 あ、ああ、よく考えたらそりゃそうか。

 こういう時のために、温水さんみたいな人が全国でこまめに献血してるんだもんな。

 俺は恥ずかしくて、救急隊員さんの目が見れなかった。

 ――が、


「君は優しい子だね。君みたいな子がそばにいるなら、きっとこの子も助かるさ」

「……っ!」


 去り際にそう言ってくれたので、余計俺はいたたまれなくなった――。




「……ハァ」


 温水さんが手術室に入ってから、どれだけ経っただろう。

 一時間か二時間か……。

 ひょっとしたらまだ五分くらいしか経っていないのかもしれない。

 頭の中が最悪の想像でいっぱいで、何も手につかない。

 こんなこと生まれて初めてだ。


「……神様」


 いつの間にか俺は、指を組んで天に祈っていた。


「温水さんが助かるなら、俺の残りの寿命をいくら分けても構いません。だからどうか、温水さんのことを助けてあげてください」


 オイオイ、マジか俺。

 俺はそんなキャラじゃないだろ?

 俺がこの世で大事なのは俺だけなんだ。

 俺以外の人間がどれだけ死のうが……俺は……。

 …………くっ。


「温水さん……!」


 ポタリという音と共に、俺の足元に水滴が落ちた。

 ……え。


「……あ」


 ふと頬を触ると、しっとりと濡れていた。

 嗚呼、俺、泣いてるのか――。

 ――そうか、俺は、温水さんのことが――。


「――!」


 手術室の扉が開き、メガネを掛けた女医さんが溜め息を吐きながら出て来た。


「せ、先生ッ! 温水さんは! 温水さんは無事でしたかッ!?」

「っ!」


 女医さんは一瞬面食らったような顔をしたが、すぐに――。


「ええ、もう大丈夫よ。命に別条はないわ」


 目を細めて、コクリと頷いたのであった。

 あ、ああ……!!


「ありがとうございます! ありがとうございます……!」

「いえいえ、これが仕事だから。――君からも声を掛けてあげて」

「……え。――!」


 頭に包帯が巻かれた温水さんが、ストレッチャーに乗せられて出て来た。

 温水さん――!!


「温水さんッ! 温水さんッ!!」


 慌てて温水さんに駆け寄る。


「あはは、霧島くん、酷い顔ー」

「っ!」


 確かに今の俺は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。

 初めて温水さんと道端で会った時と、立場が逆になったな。

 でも、温水さんが無事で、本当によかった――。


「ね? 私は言ったでしょ。霧島くんも、絶対私みたいになるって。――初めて霧島くんにハンカチを貸してもらった時から、私はこうなる予感がしてたもん」


 温水さんは太陽みたいに微笑んだ。


「……そっか」


 こりゃ完全に俺の降参だな。

 ――俺はもう一生、温水さんなしじゃ生きられない身体になっちまったみたいだ。

 ……だからこそ、温水さんをこんな目に遭わせた飲酒運転男のことだけは、絶対に許さない。




 この後駆け付けた警察官にパトカーに乗せられ、俺は事故現場に連れて行かれた。

 そこで現場検証をし、その際に飲酒運転男が乗っていたスポーツカーのナンバーも伝えた。

 温水さんから流れた血の跡が、俺の胸を抉る。

 警察官からは「これだけ証拠が揃っていれば、早晩犯人は捕まるから安心してね」と笑顔で言われたが、俺の心の中には安心とは真逆の暴風が吹き荒れていた。

 確かに近日中に捕まるだろうが、最早一分一秒でも犯人が俺たちと同じ空気を吸っていることが我慢できない。

 俺は警察官と別れた後、犯人が逃げて行った方向に一人で走り出した。

 絶対に今日中に奴を捕まえて、ブタ箱にブチ込んでやる……!




 が、現実はそう甘くはなかった。

 自分なりに犯人が隠れていそうなところをしらみつぶしに探したが、犯人の影すら追うことができなかった。

 よもやもう家に帰ってしまったのか?

 ……いや、あの時奴は走って来た方向と逆方向に逃げて行った。

 酒を飲んでいたことからも、家に帰る途中だった可能性が高い。

 だがその途中で温水さんを轢いてしまい、思わず家とは反対方向に逃げた。

 つまり今奴は、どこかに隠れて酔いを冷ましているはず……。


「クソッ……!」


 そろそろ陽も沈んでしまう。

 そうなったらいよいよ俺一人じゃ捜索は困難だ。

 イライラが募り、拳で自分の腿を叩く。

 ……ここまでなのか!


「にゃぁ、にゃぁ」

「――!」


 その時だった。

 後方から猫の鳴き声が聞こえてきた。

 この鳴き声は――!

 慌てて振り返ると、そこにはさっき温水さんが助けた子猫が。


「にゃぁ」

「……?」


 子猫は付いて来いとでも言わんばかりに、テクテク歩き出した。

 まさか……!

 俺はある種の予感めいたものを抱きながら、子猫の後を追った。




「にゃぁ」

「……あっ!」


 そして子猫に連れて行かれた廃工場の裏手に、見覚えのあるスポーツカーがポツンと停まっていた。

 ――間違いない、奴の車だ。

 こんなところに隠れてやがったのか……!

 気付かれないようにそっと車に近付き運転席を覗くと、犯人が間抜け面でガーガーいびきをかいていた。

 コイツ……!


「オイ、起きろッ!!」

「んあっ!?」


 俺は運転席のドアを思い切り蹴った。


「アァン、何しやがんだテメェッ!!?」


 次の瞬間、犯人は物凄い剣幕で飛び出してきた。

 何しやがんだはこっちの台詞だよボケが。


「あっ、お前、さっきの女と一緒にいたガキ!」

「ああそうだよ。お前のことだけは何があろうと許さねーからな。覚悟しろよ」

「ハッ、ダサ坊がイキってんじゃねーぞッ! オラァ!!」

「ぐあっ!?」


 目の前に火花が散り、鼻がカッと熱くなった。

 鼻に触れると、手にドロリとした血が。

 どうやら男に殴られたらしい。

 生まれて初めて鼻血を出したが、俺の血ってこんな色だったのか。

 温水さんと同じAB型のRhマイナスのはずなのに、俺のほうがちょっとだけ色が濃い気がする。


「女のほうから飛び出して来たんだから、むしろ被害者は俺のほうだっつーの。逆に車の修理代請求したいくらいだぜ」

「……アァ?」


 お前それ本気で言ってんのか?

 お前は飲酒運転してたうえ、赤信号を無視して横断歩道に突っ込んで来たんだぞ?

 ――こんな奴に俺の温水さんは……!!


「――フザけんじゃねええええッッ!!!!」

「ぶべら!?!?」


 俺は限界まで握り締めた右の拳を、全体重をかけて男の顔面にブチ込んだ。

 男は噴水みたいな鼻血を吹き出しながら、仰向けに倒れて白目を剥いた。

 見れば前歯も数本欠けている。

 フン、これでほんの少しは温水さんの痛みがわかっただろう。

 人を殴ったのも生まれて初めてだったが、帰宅部の俺にまさかこれだけのパンチが打てるとはな。

 ――これも愛の力ってやつなのかな。


「にゃぁ」

「……!」


 子猫が祝福するかのように、俺の足に擦り寄ってきた。

 フフ。


「なあお前、よかったらうちの子にならないか」


 俺は子猫を抱き上げ、そう提案する。


「にゃぁ」


 子猫は「いいよ!」とでも言わんばかりに、軽快に鳴いて俺の頬をペロリと舐めてきた。

 フフ、お前の名前は、温水さんに決めてもらうからな。


 ――俺はこの瞬間、温水さんが元気になったら告白すると決めたのだった。







「ねえねえ、お父さん大丈夫?」

「んえ?」


 五歳になる娘の萌美(もえみ)に頬をペチペチ叩かれ、我に返る。

 俺はリビングのソファに座っており、目の前にはスタッフロールが流れているテレビ。

 ああそうだ。

 久しぶりに萌美と二人で『猫と僕の10の約束』のDVDを観てたら、ラストシーンで大号泣して、そのまま精神がトリップしてたんだ。

 まさか妻と出逢った時のことを思い出すとは……。


「はーい二人共、おやつのクレープが出来たわよー」


 その時だった。

 妻がいつもの太陽みたいな笑顔を浮かべながら、大皿に乗せたクレープを持って来た。


「わーい! 萌美はハムチーズがいいー!」


 萌美も妻に似て、おかずクレープが大好きだ。


「ふふ、タマにもおやつあげるわね」

「にゃおん」


 妻がちゅ○るを取り出す。

 当時は子猫だったタマも、今ではすっかりオッサンになり狸みたいな風貌になっている。


「あー、お母さんズルいー! 萌美もタマにおやつあげたいー! んぎゃっ!?」

「「っ!」」


 慌てて駆け出した萌美は、思い切り滑って転んでしまった。

 ――嗚呼ッ!!


「萌美いいいいッ!!!! 大丈夫か萌美いいいいいッッ!!!!! お前が死んだら、俺は……俺はああああああッッ!!!!!」


 光の速さで萌美を抱きしめて、頬擦りする。

 俺の溢れ出る涙で、萌美の頬はびちゃびちゃになった。


「もー、お父さんは大袈裟だなー。これくらい萌美、平気だもん」

「ふふ、そうよ。本当にあなたは、泣き虫なんだから」

「にゃおん」


 早くちゅ○るをくれよとでも言いたげに、タマがふてぶてしく鳴いた。

 ええい、萌美の無事を確認するまで、少しだけ待ってろや!



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― 新着の感想 ―
[良い点] 最高に素敵なお話♪ 愛の力おそるべし( *´艸`) 無事にハピエンになって良かったですー! お正月パンツ、経験はないけどなぜか共感はしたのです笑
[良い点] 良かったです~!!! 心温まるお話でした(人*´∀`)。*゜+ 読ませていただきありがとうございました♪ お正月の新しいパンツ表現にワロタ♪
[良い点] いつも凄いけど、今回はいつもに増して凄かったです。 グイグイ読ませる底力を如何なく発揮されましたね。 ありがとうございます。
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