第一話:はじまりのはじまり
どさり、と音を立てて一杯に詰まったボストンバックをコーチ(長距離バス)の網棚に載せる。背伸びをして落ちないように押し込むと、すぐに窓に手をかけて一息に引き上げた。秋の始まりを感じさせる肌寒い風が吹き込む。ロンドンの外れにあるコーチ乗り場から見上げる空は、灰色の雲に覆われて昼だというのに薄暗い。窓が開いたことを見て取った女性が一歩近寄って声を掛ける。
「ヒロ、忘れ物はないわね?」
いい加減耳慣れた、丁寧でゆっくりとした発音を聞いてヒロは笑顔を浮かべて頷いた。しかしこの言葉ばかりは聞きなれていなくても理解できただろう。これまで幾度となく繰り返されてきた問いだ。窓から少し身を乗り出して、半年間ホームステイさせてもらっていたホストファミリーの母親に握手を求める。
「マクリーンさん、半年間、お世話になりました。ありがとうございます」
「いいのよ、お礼なんて。あなたは今までホームステイでやってきた子のなかでも一番の子だわ。……だから、絶対ウォーラム校でもうまくやれる。自分を信じて頑張ってね」
握手をし、軽くハグをしてマクリーン夫人はそう言い、ヒロの頬を軽く撫でた。ヒロは目を伏せ、深く頷いて応える。彼女が離れると、コーチのエンジンが掛かって扉が閉まる。出発の時刻だ。ヒロは笑みを満面に浮かべて手を振った。
「ニックとソフィア、それから旦那さんにも宜しく伝えておいて下さい。ありがとうございました!」
ゆっくりとコーチは走り出し、マクリーン夫人は遠ざかるコーチへと手を振る。カーブを曲がって彼女が見えなくなったところでヒロは体を車内に引き戻し、窓をしっかりと下ろした。エンジンの音が遠くなり、道路を走る震動が車内に響く。ヒロは座席に深く座りなおすが、すぐに屈み込んでボストンバックを開き、二枚のエアメールを取り出した。宛て先、差出人ともに流暢ながら精確な筆記体で書かれたものと、乱雑なブロック体で書かれたものの二枚だ。差出人は筆記体がアキト・ムロイ、ブロック体がカオル・ミヤサカと書いてあり、宛て先は両者ともに「マクリーン家のヒロ・ミシマ」となっている。ヒロはそれを見て口元に笑みを浮かべ、まずアキトからの手紙を開いた。本文は丁寧な日本語で書かれている。
時季の挨拶に始まり、ヒロの環境を心配する文言と自分の状況、つまりイギリスに到着しホテルで数日過ごしながら準備を終えた後にウォーラム校へ向かう旨が書かれており、ヒロと出立前に交わした魔術の形成に関する回答が記され、ヒロに向けた準備に関する諸注意やパブリックスクールでの生活に関する要点が入り、最後にまた修辞的な決まり文句で締められている。形式のしっかりした横書きの手紙を数回読み返したヒロは、折り目に沿って丁寧に三つ折にして元通り封筒に入れた。
続けてカオルの手紙を取り出す。折りたたむのに失敗したのか、折り直したような折り目の跡がついたその手紙は、簡単な挨拶のあとイギリスに向かう旨、学校での寮生活に対する期待、ヒロに英語を教えるとの宣言などのあと、なぜか最近食べたラーメンの話が始まり、イギリスでのライスカレーへの興味など、取り留めのない書かれている。ヒロはやはり数回読み直し、折り目に沿って畳んで、誤った折り目のあとを逆折にして相殺できないか試したあとすぐに諦めて封筒にしまった。
ヒロは顔を上げて窓に視線を投じる。無自覚に微笑んで、つぶやいた。
「向こうについたらまた二人に会えるんだ。早くつかないかな」
窓から見える景色はロンドンの都会的な街並みからすでにがらりと変わって、なだらかな丘陵が続く田園風景が広がっている。イギリスは日本の本州より一回り大きい程度しか面積がないのだが、国土のほとんどが可住地であるために可住地面積は日本の倍近い。気候は北緯五十度から六十度という、北海道よりも北に位置する高緯度にもかかわらず温暖で、年間を通しての気温差が少ない。首都ロンドンの年平均気温は10度前後で、九月頭である今日は夏の気温がすでに鳴りを潜め、14度ほどまでしか上がらない見込みだ。果たして慣れなのかすでに体質が違っているのか、車内にちらほらと見える乗客のなかには薄手のものを羽織っただけという姿の人も見える。来るべきイギリスの冬は、もっと寒い。
ヒロは窓から視線を戻すと再びボストンバッグにエアメールを大事にしまい、代わりに薄い本を取り出した。ゆったりと椅子に体を預け、挿絵の多い童話の本を開いて読み始める。ヒロは濃紺の制服にガウンを羽織っている。ガウンの右胸には黄色い糸で「W」を意匠化した刺繍が縫い付けられている。他でもないウォーラム校の制服である。
ウォーラム校はイギリスイングランド中部に位置する英国の私立学校で、なかでもパブリックスクールと呼ばれるものだ。全寮制で生徒が暮らし、共同生活の中で礼儀と知識を身につけていく。ウォーラム校は、イートン校やラグビー校といった名門に比べればまだまだ若い学校だが、その歴史は長く18世紀後半からの200年以上もの間続く伝統ある学校である。しかし伝統ある中でも時勢に対し柔軟な面を見せていることでも有名な学校だ。たとえばパブリックスクールの男女共学も、まだ共学制にしている学校のほうが少数派にもかかわらず果敢に乗り出している。伝統の精神と柔軟な革新は必ずしも対立しない、というのが現校長の持論らしい。
数時間バスに揺られ続け、いつの間にかうたた寝していたヒロは、コーチが停車する慣性で体が傾いて本が膝から滑り落ちたところで目を覚ました。寝起きのぼんやりとした頭で車窓に目をやり、しばらく古い町並みをぼうっと眺めて到着したことを悟る。慌てて本を拾いボストンバッグにしまいこんで口を締め、担ぎ上げて重さにふらつき、背もたれに手をついて体勢を整えてよろよろとコーチから降車した。
肌寒い風が土と草のにおいを帯びている。思い出したようにポケットから時計を取り出し、時刻を確認する。余裕を持って出発しただけにまだまだ刻限には時間があった。ヒロは時計をしまい、辺りを見回して笑みを浮かべた。バッグを抱えなおして歩き出す。
今回ははじまりのはじまり、ほんの序章。まだ舞台となる学校さえも出てこない、物語が始まったと思えないほどの小さな始まり。でも、何事も何気ないことからすべてははじまると思いませんか?
というわけで、「親友の魔術」に目を通していただきありがとうございます。
定期更新と称して隔週土曜に更新しようかと思ってます。今までの一話あたりの量が尋常ではなかったので、今回は3000~4000文字を目安にしていくつもりです。
今回説明ばかりになってしまったのがなんとも口惜しいのですが、いちおう予備知識ですので避けると言うわけにもいかず……。次からは多少減ってくると思います。たぶん。
次回、いよいよヒロはウォーラム校の土を踏みます。お楽しみに。