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夜空の下には僕達しかいなかった

作者: 山羊アンテナ木村

部活はテニス部。都内の男子高に通い、部活をして帰る。

それだけで腹がへる。1日4食から5食。金がない。


おまけにテニスラケットのガットがすぐ切れる。何も考えないプレイスタイル、ひたすらハードヒット&ハードスピン。ガットがすぐ切れる。今のような耐久性のあるポリエステルがなかったので切れるたびに3,000円前後の張替費用が飛ぶ。金がない。


バイトをしたいが、テニスもやりたい。腹が減るがテニスもやりたい。

時間がない。


とりあえず夏休みの間だけバイトをやることにする。

テニス部の練習が終わるのが14時頃。それからガッツリ稼ぐのなら最低でも21時頃までのバイトを探す。


いいものを見つけた。神宮球場でのバイト。15時入り、球場入り口で切符のもぎり。試合が始まると内野席通路に座り込み、ファウルボールが飛んできた際にお客さんへの注意喚起の笛を吹く。試合終了後は観客席のゴミを始末する。1回のバイトで8千円前後にはなる。定期券があるのに交通費も出る。

同じテニス部のYと行くことにした。


なかなか悪くないバイトだ。切符のもぎりなど大した労力はかからない。

試合中の笛吹は客席通路に座る。なんたってタダでヤクルトスワローズの試合を見ることができる。僕はヤクルトスワローズのファンだ。

その年はまだ無名の「山田哲人」というバッターが僕にとって彗星の様に現れた。周りはまだ話にも上げない。そんな選手を金を稼ぎながら見ることができる。

一緒にバイトに入るYは奇特なことに広島カープファン。それも大昔の盗塁王、高橋慶彦がお気に入りらしい。高橋慶彦は当時男前で有名だったらしい。


試合終了後の観客席の清掃とゴミ処理。これだけはハードだ。3万人収容観客席のゴミとなるとかなりのもの。今では考えられないが、紙屑紙コップ弁当箱のカラなど、持ち帰りもせず、ゴミ箱にもいれず、座席の下に押し込んで帰る客が多かった。袋の入り口が直径2mぐらいの巨大ズタ袋の中に入り、両手両足を広げて袋の入り口を広げる。そこに巨大ブロアー、つまりでかいドライヤーのようなものを担いだ古参バイトが、人が開けているズタ袋の口をめがけて強風で紙ごみを吹き飛ばす。

大きなズタ袋の口を全身で広げ、そこにゴミが吹き飛んでくる。当然顔めがけてゴミも飛んでくる。目、口は必ず閉じる。なぜ鼻に開閉弁がないのか。試合時間が長引けば帰りも遅くなるが、それでも終電には余裕で間に合う。悪くない。


Yの家は駅が一つ違い、かなり遠回りになるはずなのだが、何故か僕と同じ駅を使っていた。立体の自転車置き場が使いやすいからだとか。

そうなると帰りはいつも同じ電車、行きもほとんど同じになる。Yは物腰柔らかで物事に対して否定をしない。二人で色々なことをたくさん話すようになった。昔のバンドのブルーハーツを教えてくれたり、これも昔のテニスプレイヤー、ステファン・エドバーグが如何に素敵なプレイをするかとか。Yが言うにはエドバーグは貴公子と呼ばれていたそうだ。

Yのテニスのプレイスタイルはサーブアンドボレーのため、さほどガットは切らない。なのになんでバイトをするのかと聞いたらすっと微笑んだだけで答えてくれなかった。


****


あの日は暑かった。部活が長引いた。シングルスの部内戦が行われ、この成績いかんで公式戦や練習試合に出られる順番が決まる。キャンセルはさすがにできない。14時に上がればバイトには間に合うのだけど、14時にまだ僕とYは試合をしていた。


何とか勝ち逃げ、急ぎ支度をし、Yと神宮球場へ向かう。学校から駅、駅から球場。全てダッシュ。


バイトには少し遅れた。切符のもぎり。それが終わると休憩、ようやく水分が取れる。軽い脱水症状だ。というのも、部活で試合をしている途中で僕もYも飲みものがなくなり、試合後半は何も飲んでいない。高校から神宮球場までも急いでいたので水分を取る時間がなかったのだ。


ようやく休憩と思いきや、親子連れが自分の席がわからないと尋ねてくる。チケットをみるとバックネット裏。僕らがいるのはライトスタンド手前のポール際。結構距離がある。

一緒に行くことにする。お父さんが球場というか野球に親しみがないようだ。バックネット裏がよくわかっていない。ヤクルトの帽子を被った小学3年生ぐらいの男の子。ぴょんぴょん跳ねてる。通な事に山田が目当てらしい。僕はさっき山田をバックヤードで見ていた。そんなに大きくないのに姿勢が良かったよ、だからあのスイングが出来るんだね、と言ったら目を輝かした。


親子を内野まで連れて行き、急ぎ今日の持ち場内野ポール近くまで戻る。休憩時間が潰れた。水が飲めない。少し離れた場所にYがいた。僕を見つけると手を振る。彼もお客さんの対応をずっとしていたようだ。おそらく水は飲めていないだろう。


****


試合が始まる。日が落ちても気温が下がらない。試合が一度始まると休憩は取れない。イニング中は笛吹、イニングの間は通路の交通整理。

のどが猛烈に乾きはじめる。


暑いからお客さんたちも、売り子からしきりに飲み物を買う。目の前でそれを飲む。何でもいいからそれを奪い取って飲み干したくなる。


そんな時に限って試合がもつれる。投手戦になるとスムーズに試合は運ぶが、今日は打撃戦、それも四球が多い。21時の時点でまだ6回の裏。これはかなり遅いペースだ。


のどの渇きが酷い。唾液を出してごまかそうとするがそもそも唾液が出ない。口の中が粘る。この後、試合が終わったとしても観客席の清掃がある。憂鬱にはなるが、流石にその合間にトイレで水を飲むことは出来るはずだ。


しかし、試合は終わらない。延長に入る。頭がふらふらする。締まらないぬるい試合に観客は帰り始めている。

ようやく試合が終わる。時計を見ると、22時をかなり過ぎている。ありえない時間だ。観客席の清掃をすると終電が微妙だ。


スタッフの誰もが終電を気にしている。全ての作業が猛ダッシュで始まる。ズタ袋が僕に投げられる。水は飲めない。

Yに目を遣る。やはり水を飲めなかったようだ。


ズタ袋を広げる。ブロアーでごみが吹き飛ばされる。ズタ袋に入らなかったごみは手で拾う。皆、終電を気にして猛烈な勢いで働く。そこから一瞬でも抜け出すことは出来ない雰囲気だ。水は飲めない。


なんとか終わりつつあるが終電が近づく。


社員が大声で叫ぶ。終電の奴は帰っていいぞ。


****


僕とYはテニスバッグをロッカーからひったくり、転がるように球場を後にする。トイレに寄って水を飲む時間はない。表参道まで走る。なんとか終電には間に合った。


しかし地元の駅まで1時間。のどの渇きは限界だ。

Yと話もせず、二人黙りこくる。

駅に着いてから飲むものを考えないと。財布を見る。23円しかない。Yに聞く。僕よりひどい。12円。水だ、駅のホームやトイレで水が飲めるはずだ。


ようやく地元の駅に着く。水が飲めると思いきや駅の水道すべてが使えない。駅の工事で昼から明日の朝まで断水との貼り紙。


二人、絶望とのどの渇きで朦朧として駅を出る。そして気が付いた。今日は朝、雨だった。家から駅まで僕らは自転車を使うのだが朝はバスを使った。終バスはとっくに出ている。そして二人して金がない。


家まで歩かなければならない。歩くと40分以上かかる。のどの渇きはもう耐えられない。


Yが言った。立体の自転車置き場に水道があるかも。


あった。清掃のための水道の蛇口が地面から生えている。そこから水が既にちょろちょろと出ている。周りは水浸しだ。これを飲むには這いつくばる必要がある。しかし、水浸しの地面で這いつくばるのは躊躇する。そこまで口を近づける勇気はない。


Yは言う。そういえば、この間の大会でスクイーズボトルもらったよな、あれで水をすくえる。


二人のバッグの奥深くから訳の分からぬごみくずと一緒にスクイーズボトルが発掘された。


慎重にボトルを傾ける。僅かではあるが少しづつ水はボトルに溜まっていく。しかしYは言う。このボトル、綺麗なのかな。


いやいや、そんなこと言ってる場合じゃないだろ。

俺たち脱水でもうすぐ死ぬぞ?


致命的な事がわかる。ボトルを水平近くまで傾け水を汲む。そしてボトルを持ち上げる時に蛇口が邪魔をするので水平より上に角度をつけなければいけない。水が駄々漏れ。


流石に頭にきた。蛇口のハンドルをガシガシ廻す。


小さな噴水が現れた。水が汲める。


ボトルに水を溜め一気飲み。体の隅々まで、細胞の一つ一つまで、水がいきわたる。交代で7、8杯を無言で飲む。


Yが口を開いた。乾杯しよう。俺たち今日は頑張った。


お互いボトルを水で満たし、勢いよくボトルをぶつけた。


Yの提案で立体自転車置き場の最上階まで上がった。自転車は数えるほどしか無い。

月はなく、雲もなく、東京に近いベッドタウンだというのに星がよく見える。思わずその場で寝転ぶ。昼間の熱がほのかにコンクリートから伝わる。涼しく柔らかな風が体を通り過ぎる。Yも隣で大の字になる。


夜空の下には僕達しかいなかった。


****


ボトルに水を満たし、蛇口のハンドルをきつく締め、歩く。

家まで40分以上かかるが、なんてことない。

真夜中の誰もいない夏の街を歩く。時折蝉の声がする。満ち足りていた。

僕は言う。


なんかさ、今日は朝からお前とずっと一緒いるな、あれ、もしかしたらここ最近毎日か!


僕は楽しくなりYから教えてもらったブルーハーツの「ラブレター」を口ずさんだ。

俺、なんか酔っ払いみたいだな。


Yは僕の目の前に立ち、僕の顔を覗き込んで、言った。

僕は、ずっと酔っ払っているよ。


****


それからしばらくしてYは姿を消した。


****


覚えてるか?山田。あのスイングスピード。

知ってるか?ブルーハーツのヒロトとマーシー。今クロマニヨンズってバンドでやってる。

知ってるか?ステファンエドバーグ。今、最強のテニスプレイヤーって呼ばれるロジャーフェデラーのコーチやってる。


覚えてるか?あの夏の夜空を。


Y、知ってるか?新型コロナって。あの頃からは考える事も出来なかった病気が世界を蔓延してる。そっちでも新型コロナってあるのか? たぶんないな。でさ、昔みたいに気軽に居酒屋で飲み会できないの。でもさ、離れたところで飲み会出来るんだよね、今。


今のお前と俺、距離とか時間とかよくわかんないけど、何だか離れたところにいると思うんだよ。だからさ、飲み会しようぜ。リモートとかで。PCとか用意しておけよ、そこ、何でも用意できそうじゃん、ああ、そこは要らないのかな、端末とかは。


俺さ、あと何年かで30超える。お前まだ17だろ、17のまんまだろ。未成年だからお前の飲みものはあの自転車置き場の水道の水な。俺はさ、大人だからビール。キンキンに冷えたビール。お前は苦労してボトルに入れた自転車置き場の水道水。なんか可哀そうだけど、しょうがないだろ。


それでさ、あれからしばらくしてなんとなく気が付いたんだよ。

お前がさ、駅、違うのに同じ駅で通ったり、たくさん手を振ってくれたり、同じバイトした理由ってやつを。今更でごめんな。まあ、その時気が付いたところでどうにもできないかもしれないけど。

今ならお前も少しは楽に過ごせる世の中になったんじゃないかな。

とにかく、あの夏のあの夜の、のどの渇きと神宮球場と自転車置き場と延々と歩いた帰り道の事は忘れないから、大丈夫。


ビールと自転車置き場の水で乾杯だからな。ボトル、洗いたかったら洗えよ。


またな。

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