その9
流風が突き出した右手から手裏剣のように風刃が無数飛び出し、羅刹姫に襲いかかった。
「なに!」
羅刹姫は飛び上がり、かろうじて刃から逃れた。
風刃は蜘蛛の糸を切り裂いた。
円網の一部が崩れて、糸の塊が数個、落ちて行った。
真っ白で見えなかったが、底はあったらしく、地面に転がった塊は糸がほどけて、囚われていた人は解放された。
しかしみんな意識を失ったままだ。
「せっかくの獲物を!」
怒りに顔を歪める羅刹姫に、流風は容赦なく風刃を繰り出す。
刃をかわしながら、羅刹姫は指先から糸の束を投げた。
矢のようなスピードで発射された糸の標的は流風ではなく華埜子だった。
「キャッ!」
華埜子は糸の束に絡めとられ、そのまま引き寄せられた。
華埜子を手元に引き寄せた羅刹姫は、体を密着させて盾にした。
「これで妙な武器は飛ばせないわね」
「弱い者を狙うなんて、卑怯なヤツ!」
「力のない者を攻撃するのは、人間の十八番じゃないの」
羅刹姫は華埜子の体に巻き付けた糸をきつく締めた。
「うっ!」
糸が二の腕に食い込んで苦しそうなうめき声をあげる華埜子を、流風は歯をきしませる思いで見た。
「人間はひ弱な生き物よ、こんな細い腕、糸を引けば千切れちゃうわよ、そしてあたしの左腕みたいに再生することはないしね、出血多量で死んじゃうかしら? ここで命を落とすってことは、現実世界の体も生命活動を止めるってことよ」
羅刹姫の嘲るような笑みは、楽しんでいるように見えた。
「あなたが何者かは知らないけど、ここで死ぬんだから関係なわね、あたしの糸に包まって悲しみに溺れながら死になさい」
羅刹姫は糸を飛ばすべく右手を前に出そうとした。
その時、
「ギャァ!!」
華埜子が羅刹姫の右手首に噛みついていた。
猛犬のように歯をむき出して、顔を歪めながら必死で顎に力を込めていた。
もちろん真琴のような牙はない、噛む力も普段は人並みだろう、しかしこの時は火事場の馬鹿力が出たようだ。
羅刹姫は悲鳴を上げながら、華埜子の体を放して振り払おうとした。
「なにすんのよ!」
しかし、犯人を捕らえた警察犬のごとく、華埜子は食らいついて放さない。
「離れて!」
と流風の声が聞こえるまでは。
華埜子は顎を緩めたとたん、振り回されていた勢いで飛ばされ、糸に拘束されたまま蜘蛛の巣に引っ掛かって絡まった。
それと同時に流風は風刃を放っていた。
今度は独立した短刀ではなく、竜巻が羅刹姫を包み込んだ。
その渦は細かい刃が高速回転しており、四方八方から羅刹姫に襲いかかった。
「ギャァァァァ!!」
竜巻が消えた時、全身傷だらけの羅刹姫の姿が見えた。
どす黒い血が傷口から噴き出している。
「よくもあたしの美しい肌をズタズタにしてくれたわね!」
般若の形相で流風を睨みつける羅刹姫だが、傷ついた両手はダラリと下がり、反撃する力は残っていないようだった。
まだ生きてるのを見た流風はとどめを刺そうと、ポケットから独鈷を出した。浩平の形見は今も肌身離さず持っている。
それを見た羅刹姫の顔から、わずかに残っていた余裕が消えた。
流風が独鈷を投げた瞬間、羅刹姫はジャンプすると共に、矢のように逃げ去った。
目にも止まらぬ速さで、どこへ消えたのかさえ分からなかった。
羅刹姫が消え、標的を失った独鈷は蜘蛛の糸に突き刺さった。
糸は独鈷の先からほぐれて、ハラハラと地面に落ち始めた。円網全体に弛緩が広がっていき、絡まっていた華埜子も落下した。
「痛たっ」
お尻を打ち付けて顔を歪める華埜子の横に、流風は軽やかに着地した。
流風の問いに華埜子は緩んだ糸をほどきながら、
「あなた、思い切ったことを」
「あ、顎が痛い」
「でしょうね」
「真琴が言うてたんや、羅刹姫って見かけより全然弱っちいって」
華埜子は周囲を見渡した。
「逃げ足も驚くほど速いって」
真っ白い空間には崩れた蜘蛛の巣の残骸と、捕らえられていた人達が横たわる姿しかなかった。
「呪者が逃げてもこの場所は消えへんやて、どうしたらエエんやろ」
と言いながら、華埜子は倒れている友哉が握っている筆に目をやった。
「そうや! 真琴が言うてた筆って」
なんの変哲もないただの筆に見えたが、華埜子はそれを友哉の手から拾い上げた。
「これが呪いの元凶なんやね、流風ちゃんの法具で浄化できひん?」
流風は独鈷を拾った。
「あのおじさんの形見?」
おじさん? 浩兄が聞いたら怒るだろうな、確かにオッサンだったけど、自分では認めてなかったし、と流風はフッと目を伏せた。
浩平の豪快な笑みが瞼に浮かんだ。悲しみが胸を締め付けたが、もう涙は零れなかった。
「やってみるか」
流風は決心したように瞳を上げた。
* * *
「ほんまアンタら、仲良しやなぁ」
つまらない口論を繰り広げる真琴と霞を、那由他は呆れ顔で見た。
「仲良し違う!」
真琴は即否定したが、霞は、
「そうなのか? 真琴はわたしと仲良くしたくて突っかかってくるのか」
ニヤリとした。
「違う!」
「照れなくてもよいでないか」
「なんで照れんならんねん!」
「ちょっと見て!」
那由他が絵を指さした。
絵がぼやけていた。
絵の具がにじんで輪郭がぼやけ、風景が崩れていく。
色が混ざり合ってグチャグチャになり、心揺さぶる風景画はたちまちただの絵の具のシミになった。
「呪いが解けたようやな」
糸も消えていた。
「ほな、ノッコは?」
「魂が体に戻ってるん違うかな、行ってみよ」
那由他が真琴の手を取った瞬間、二人の姿は森から消えた。
「おい……」
残されて憮然と佇む霞。
「わたしを置いて行くな」
つづく