その6
「ここは……」
そこは見るからに女の子の部屋だった。
華埜子は茫然としたまま、フラフラとベッドのところへ行き、枕元に置いてある茶色い小犬のぬいぐるみを手にした。
「チロちゃん……」
そこは自分が小5まで過ごした部屋だと、華埜子は確信した。
そうとは知らない流風は、風景の一変に訳がわからず唖然としていた。
その時、
「キャァァァ!」
階下から悲鳴が聞こえた。
「ママ!」
その声にすぐ反応した華埜子は、ぬいぐるみを手放してドアへ向かった。
一人になるのを恐れた幼い流風は後を追った。
階段を駆け下り、ダイニングへ行った華埜子は入口で立ち尽くしていた。
追いついた流風は、横から室内を見て息を呑んだ。
食卓には夕食が要されていた様子だが、荒らされて床にハンバーグやサラダが散らばっていた。
30歳くらいの男が立っていた。
手にした包丁には血のような赤い液体がベットリついている。
男の足元には女性が横たわっていた。
「ママ……」
華埜子は震える唇から声を絞り出した。
足はガクガク、立っているのがやっとと言う感じ。
倒れたママの体の下からは鮮血がドクドクと広がっていた。
そして、その奥にはもう一人、パパだろう男性も倒れていた。同じく血の海の中に。
凄惨な光景を目の当たりに固まっていた流風を突き飛ばして、横をすり抜け、幼い男の子がダイニングに駆け込んだ。
「ママ!」
「アカン! 明希斗!」
止めようと伸ばした華埜子の手は明希斗に届かず空を掴んだ。
明希斗は倒れているママに一直線、包丁を持った男など目に入っていなかった。
明希斗は倒れているママに駆け寄った。
男は無造作に包丁を持つ手を振り上げた。
「やめてぇ!!!」
華埜子の叫びもむなしく、包丁は振り下ろされた。
一瞬の出来事だった。
華埜子は一歩も動けなかった。
包丁は明希斗の背中にグサリと突き刺された。
明希斗は悲鳴をあげることもできなかった。
男が包丁を抜くと明希斗の体はママの上に重なった。
続いて男は華埜子に目をやった。
虚ろな目、感情が見えない男の顔は能面のようだった。
男はまた包丁を振り上げながら華埜子に迫った。
「逃げて!」
流風は華埜子の手を掴んだ。
そして男は目の前、しかし、華埜子は動かない。
「これは夢や!」
そう言いながら流風の手を強く握り返した。
男の虚ろな目をまっすぐ見上げた。
「あんたは捕まって刑務所や! 現実であるはずない! 早よ覚めて!」
男から目をそらさずに叫んだ。
次の瞬間、
周囲が真っ白になった。
リビングダイニングも、男も、ママもパパも明希斗も消えた。
* * *
深い霧に包まれた場所になっていた。
そして周囲には、大きな蜘蛛の巣が張り巡らされていた。
白い霧の中に広がる蜘蛛の巣の中に華埜子は立っていた。
円網の所々に糸の塊がある。よく見ると、手や足がはみ出している。おそらくグルグル巻きにされているのは人間なのだろう。
「今のは、なに……?」
流風は恐る恐る華埜子を見上げた。
「あれは……小5の時起きた事件の記憶」
華埜子は焦点の合わない目で言った。
「それじゃ、あなたの家族は」
「みんな殺された、あたしも刺されたんや、けど奇跡的に助かってしもた」
固く握りしめた拳が掌に食い込んでいた。
「犯人はすぐに捕まったわ、近所に住む男でな、そいつは自分の家庭環境が最悪で、その上、なにをやってもうまく行かへんし絶望してたらしい、それで、いつも幸せそうなうちの家族を妬んで、滅茶苦茶にしてやりたかったんやて」
「そんな理不尽な……」
流風は泣きながら華埜子に抱き着いた。
「そんな辛い目に遭ってたなんて! なのになぜ笑顔でいられるの?」
「……なんでやろな」
「犯人が憎くないの? 恨まないの?」
「憎んでも恨んでも、家族は生き返らへんし、そんな気持ちに囚われてたら犯人と同じになってしまう……」
「あたしは、そんなふうに思えない」
流風は憎んでいた。自分を捨てた親を、浩平を殺した妖怪を、自分の生い立ちの不幸すべてを恨んでいた。
「流風ちゃん?」
気が付くと幼い流風の体は糸に絡めとられて、胸元まで隠れてしまっていた。
「なんで?」
華埜子は慌てて糸を解こうとしたが、粘着力が強くて剥がせない。
その間にも、蜘蛛の糸は重なり、流風の体を包んでいく。
流風は目を閉じ、グッタリとした。
つづく