その3
綾小路浩平は流風の教育係だった。
屈強な大男で一見強面だが、裏表のない性格で根は優しい男だった。幼い流風に妖怪ハンターのイロハを叩き込んでくれた、生き残る為の術を教えてくれた師匠だった。
物心ついた時から、訓練に明け暮れ、子供らしい生活はさせてもらえなかった流風だったが、浩平はただ一人、甘えることができる、信頼できる大人だった。
それがあの日……。
* * *
「まずったなぁ」
浩平と流風は渓谷に追い詰められていた。
右手は切り立った崖、その上には紅葉が美しく色づいている。左手は急流が飛沫を立てていた。
河原を砂利鼠の大群が押し寄せていた。
浩平は流風を肩に担ぎ上げると、急流の中に入り、中洲の岩まで非難した。
しかし鼠たちは果敢に川へ飛び込み、流されながらも、幾重にも重なりあい、中洲に迫ってきた。
ここまで来るのは時間の問題、もう逃げ場はない。
「お前が行け」
そう言った浩平の視線の先には、ひときわ大きな岩石鼠がいた。牙をむき、こちらを威嚇しているように見えた。
「あいつを殺れば、砂利は消える」
「どうやって」
浩平は胸元から金色に輝く独鈷を取り出し、流風の手に握らせた。
「俺があそこまで飛ばす」
浩平が立つ岩を砂利鼠達が上りはじめた。
「一撃で、殺れるな」
「わかった! 早く飛ばせて!」
鼠が浩平の足元に達したのを見て、流風は焦った。
「まだだ、まだ届かない」
足に食いつく鼠を浩平は蹴散らしながら、踏ん張っていた。
「早くしないと、浩兄が!」
「お前は生き残れ」
浩平は寂しそうに微笑んだ。足元はもう鼠に埋め尽くされ、腰のあたりまで上って来ている。
大軍と共に親玉の岩石鼠も近づいて来た。
「行けぇぇ!」
浩平は砲丸投げのように、流風の体を飛ばした。
流風の小さな体は矢のように、岩石鼠に一直線。
飛ばされながら流風の目の端に、一瞬、浩平の姿が入った。
と言っても、もう首元まで鼠に覆いつくされていた。
しかし、目だけは流風の行方をしっかり見届けていた。
「いやあぁぁぁ!」
流風は握りしめた独鈷の先を、岩鼠の額に突き立てた。
岩石砂利鼠は凶暴ではあるが低能な妖怪だ。優秀なハンターだった浩平が、なぜあんな雑魚に敗れたのか、浩平の死を知った綾小路家の人々は訝った。
優秀なハンターを失い、後継者を育てることが急務となり、流風の訓練は以前にも増して厳しくなった。
浩平の死は流風のせいだと思っている者もいて、風当たりもきつかった。
* * *
「流風ちゃん! 流風ちゃん! 流風ぁぁぁ!」
華埜子の大声に、流風はハッと我に返った。
「大丈夫?」
流風は涙でクチャクチャになった顔をあげた。
「あたしを助ける為に……」
流風はまた顔を伏せて頭を抱えた。
涙がとめどなく溢れた。
「鼠、消えたみたいやで」
「えっ?」
流風は鼠の鳴き声がしないのに気付いた。
「いつの間に親玉やっつけたん?」
なにもしていない、ただ、昔のことを思い出して……。
あれは幻だったのか? しかし浩平の顔が脳裏に浮かび、流風の目からまた涙が零れた。
そんな流風を見て、華埜子はどうしていいかわからず繰り返した。
「大丈夫や、鼠はいなくなったんやし」
そうじゃない、鼠が怖くて泣いているんじゃない、悲しいことを思い出したから……。だが、言葉にならなかった。幼い流風はただ、しゃくり上げながら泣き続けた。
流風自身、なぜこんなに涙が出るのかわからない、自分が人前でこんなに大泣きするなんて信じられない。しかし悲しみが止まらず、涙が滝のように流れるのを堪えられなかった。
その時、流風は華埜子に腕を強く掴まれていることに気付いた。
尋常でない握り方に、驚いた流風は涙も途切れ、華埜子を見上げた。
華埜子の顔は青ざめていた。
「ここは……」
華埜子の視線を追って部屋の中を見た流風は驚き、涙は完全に引っ込んだ。
さっきまでは古い民家の屋根裏部屋、埃のかぶった物置のような所だったのに、景色が一変していた。
そこは子供部屋。
ピンクの花柄のカーテンに、ピンクのベッドカバー、勉強机の横には赤いランドセルがかかっていた。
見るからに女の子の部屋だった。
つづく