その14
那由他と珠蓮、真琴は、千幸を追って銀杏の森へ来た。
真琴はこれ以上かかわり合いたくなかったが、千幸が鬼化して我を失くした時、珠蓮と那由他では歯が立たないので、仕方なく同行した。
「なんで、今頃になって思い出したんやろ、毎晩、夢に見て」
「今頃になって、鬼の毒が回り始めたんだ」
「確か言ってましたよね、鬼の毒は汚れた心に巣食って増幅する、心が汚れなかったら、鬼と化すことはないって」
「よく覚えてたな」
「昨日のことのように思い出しました、……あたしの心、汚れてしもてんな」
「そうでもないよ、普通なんだ、みんな嫌なことがあって悩んだり、意地悪されて落ち込んだり、人間不信に陥ったり、そんなことは誰にでもあるんだ。……でもお前の場合、そんな普通のことさえダメだったんだ」
千幸はただ宙を見つめていた。
「あれは夢と違たんや……、あたしが嫌やと感じたら無意識のうち、殺しに行ってたんやな」
千幸はガックリと膝をついた。
「なんてことを!」
両手で顔を覆った。
ラブラドール・レトリバーの首が、
高梨夫人の首が、
刑事達の首が、
小南の首が、
そして母親の首が、次々と、固く閉じた瞼の裏に浮かんだ。
肩を震わせる千幸を見ながら、珠蓮が辛そうに言った。
「こんな思いをさせるなら、あの時にケリをつけておくべきだった」
その言葉に千幸の震えが止まった。
「でもね……、あたしこの8年、楽しいこともいっぱいあったし、けっこう幸せやったんですよ」
そしてゆっくり顔を上げて珠蓮を見上げた。
「だから……、助けてくれて、ありがとう」
涙に濡れた千幸の笑顔に、珠蓮は胸をえぐられた。
「あたしも砂になるん?」
「あの時の鬼は何百年も生きていたんだと思う、お前はそんなに長く生きてないから」
千幸は涙でグチャグチャの顔を真琴に向けた。
「ありがとう、七瀬さんが止めてくれへんかったら、あたし、もっとぎょうさんの人を傷つけてたんやな」
そこで口籠った千幸を見て真琴は、
「なんであたしが化け猫になったか聞きたそうやな」
「真琴はアンタらと違て、生まれつきなんや、親父さんが何千年も生きてる化け猫の妖怪やねんで」
那由他がなぜか得意げに答えた。
「あんたも?」
「あたしは銀杏の妖精や」
「妖精違うやろ!」
「妖精じゃないだろ!」
すかさず真琴と珠蓮が声を揃えた。
そんな様子を見て、千幸はクスッと笑みを漏らした。
「七瀬さん、華埜子ちゃんにもありがとうって言うといて、華埜子ちゃんが声かけてくれへんかったら、正気に戻れへんかったし」
「宮田も蓮みたいに修行したら? コントロールできるようになるかも」
真琴は同意を求めるように珠蓮を見たが、珠蓮は首を横に振り、千幸に視線を戻した。
千幸は両手で肩を抱くようにしながら震えていた。
その手の甲には黒い毛が伸び始めていた。目も赤く煌めいたり、元に戻ったりと点滅状態、表情は苦悶に変わりつつあった。
「無理やな、この子には耐えられへん、修行の過酷さは半端なかったんやで、こんなにチャラチャラしてても、血の滲むような努力をしたんや」
那由他が言った。
「誰がチャラチャラしてるんだ!」
「はよ決断しな、ヤバいん違う?」
「う……」
千幸の身体を覆い始めた毛はドンドン伸びて、目の赤さも輝きを増している。そしてなにより苦しそうだった。
奪われようとしている理性を保とうと必死なのだろう。
すがるようにこちらを見た千幸から、真琴は一歩退きながら身構えた。
珠蓮の眼が、千幸とシンクロするように赤く煌めいた。そして前に出した右手が黒い毛で覆われ、爪が小刀のように鋭く伸びた。
次の瞬間、それを千幸の胸に突き刺した。
珠蓮の攻撃を千幸は避けずに受け止めた。
目が大きく見開き、口の端から血が零れた。
珠蓮が手を引き戻すと、そこには心臓が握られていた。
千幸の唇がなにか言いたげに開いた時、大量の血液が溢れ出し、声は失われた。
千幸はゆっくり目を閉じると、そのまま崩れ落ちた。
真琴は一部始終をしっかり目に焼き付けた。
珠蓮は千幸の心臓を握りしめたまま立ち尽くしていた。
倒れた千幸の身体の下に真っ赤な血が広がった。
「まだ血は赤かったな……」
那由他がボソッと言った。
つづく