その1
モザイク模様が地面に揺れていた。
虫取り網を手にした6歳の少女のスニーカーが、木漏れ日が織りなすモザイクの影を踏みながら軽やかに駆ける。
「そんなに走ったらこけるで!」
追う父親の声は蝉時雨にかき消されそうだったが、
「どうもないって」
赤いリボン付きの麦わら帽子をかぶった少女は、速度を落としながら振り向いた。
屈託ない笑顔、額ににじむ汗を無造作に左手の甲で拭いながら、
「お父さんこそ遅いで~」
その時、突風が麦わら帽子を飛ばした。
「あっ!」
とっさに伸ばした手のはるか上空、帽子は林道から逸れ雑木林へ、大木の隙間から漏れる陽の光を少しでも浴びようと背を伸ばす若い木々や雑草が茂る彼方へ姿をくらました。
慌ててそちらに踏み込もうとしたが、少女の背丈ほどもある雑草が行く手を阻んだ。
少女は追いついた父親を、すがるように見上げた。
「しゃーないなぁ」
父親は雑草をかき分けながら斜面を登った。
すぐにその背中が草木に埋もれて見えなくなった。
「お父さん」
少女は急に不安に襲われたが、
「あったで!」
父親の声が聞こえたので、ホッと顔をほころばせた。
その時、太陽が雲に隠れ、地面のモザイク模様を消した。
また強い風が吹き、小枝と葉を激しく揺らした。
ガサガサ、ガサガサ、枝葉の擦れ合う音が不気味に響いた。
次の瞬間、少女の足許になにかが転がって来た。サッカーボールくらいの丸いモノは黒い毛で覆われている。
それは……。
「キャアァァァ!」
少女は雲に突き刺さるような悲鳴を上げた。
千幸は目をパッチリあけた。
映ったのは天井の白い壁紙、体は硬直してすぐには動かせなかった。
汗びっしょり、心臓はドクドク波打っていた。
呼吸を整えようと大きく息をした。口の中が乾いてのどが痛い、声にならない呻きが短く漏れた。
ようやく体が動かせるようになったので、ゆっくり体を起こした。
「また、あの夢……」
* * *
「なんかザラザラしてる、気が乱れてる」
真琴は大銀杏を見上げながら言った。
「いきなり、なんのこと?」
那由他が高い木の枝からフワリと降りて来た。
「変な感じなんや、最近、この辺り……」
「変って?」
「……邪悪な気が漂ってる」
「出たぁ、真琴の不吉な予感!」
その時、にかわに異様な気配を感じた真琴は、反射的に木の枝に飛び上がった。大銀杏の枝は下の方でも5メートルはある、人間が飛び上がれる高さではない。
「どうしたん急に」
今度は那由他が小首を傾げながら真琴を見上げた。
その横にはいつの間にか珠蓮が立っていた。
「さすが化け猫、身の軽さは一級だな」
「あんたこそ、相変わらず強烈な殺気やなぁ、鬼もどきの邪気は体が受け付けへんわ」
真琴はスカートを押さえながら空中で一回転して降り立った。
化け猫妖怪の父親と人間の母親の間に生まれた真琴は半妖である。そして珠蓮は鬼に噛まれ、本来なら鬼と化してしまうところ、鬼の妖力を持ちながらも人間の姿と理性を保っている、これもまた半妖と言える。
「ま、確かなんは、双方、人間違うってことや」
那由他の上から目線に、
「アンタもやろ」
「お前もだろ」
二人は声を揃えた。
ここは幽世と現世の狭間で、普通の人間は入ることが出来ない場所。特にこの一画は霊木、大銀杏が守護し、霊気に満ちている場所だ。
那由他はその大銀杏に生命と使命を与えられた元はアルビノの雀。なので、化け猫や鬼のような攻撃的妖力はないが、それなりに便利な能力を与えられている。
「もう帰ってきたん? その様子じゃ、今回も空振りやったようやな」
真琴の問いに、珠蓮は両手を腰に当てながら鼻孔を膨らませた。
「遥々北海道まで出向いたのに、気配のカケラもなかった」
「ヤツかて、力をつけた蓮に会いたなくて、警戒してるやろうしな」
珠蓮は500年前、家族を惨殺し、自分をこんな体にした仇を捜し続けて日本中を飛び回っている。
「ところで、さっき言ってた邪気って?」
珠蓮の目が一瞬、赤く煌めいた。
「ハッキリとはわからんけど、なんか嫌な予感が」
真琴は眉間に皺を寄せながら腕組みをした。
そんな真琴を見た那由他は、
「やめてや~、あんたの予感は当たるんやし」
「確かに、怖いくらいにな」
「大事にならへんかったらいいけど」
三人は霊木である大銀杏を見上げた。
* * *
「どうしたん? なんか元気ないなぁ」
春菜が浮かない顔の千幸を覗き込んだ。
「そうそう、千幸には珍しく今日は授業中もボーとして、あくびばっかしてたやん」
「うん、なんか変な夢見て、熟睡できひんかってん」
「悪夢?」
「そんなとこ」
千幸、春菜、芽生、久美はいつもつるんでいるクラスメート、お昼休み、給食を食べ終えてから、中庭でお喋りしていた。
「あるよな、嫌な夢って、あたしもこの間、テストの夢見たわ」
「夢違うで、明日は現国、小テストやで」
「えーっ、そうやったっけ!」
「嘘」
「もー、ビックリするやん」
芽生の笑えないジョークに春菜はむくれた。
春菜は少々ぽっちゃり系で明るい笑顔が素敵な女の子。突っ込む芽生は、切れ長の目がキツイ印象を与えるが、細身でプロポーション抜群、目を引くタイプだ。性格はマイペースでいつも淡々としている。
見た目も性格も対照的だが、妙に気が合うデコボココンビ、掛け合いはいつも千幸を笑わせてくれる。
「今日のエビチリはまあまあやったな」
テストの話は早々に打ち切り、給食のメニューに移行した。
「けど、ニンジンとセロリのマスタード和えは勘弁してほしいわ」
「あら、美味しかったやん」
「春菜はなんでも美味しく食べるしな」
みんなのお喋りを聞きながらも、千幸の脳裏には昨夜の夢が何度もフラッシュバックしていた。
混じり合うみんなの声が蝉時雨に変わり、耳鳴りのようにこだました。
8年前の夏休み、父の田舎へ遊びに行って、蝉取りに出かけたあの日、生きている父を最期に見たあの夏の日……。
「ところで、大塚くんとはその後、どうなん?」
芽生がいきなり話を振ったので、千幸はハッと我に返った。
「そうそう、あたしも気になってたんや」
春菜が身を乗り出した。
「あんたが食べ物以外に興味あるなんて」
芽生がすかさず突っ込んだ。
「だってさぁ、あの大塚君がやで、1年の時からサッカー部のエース、ちょー爽やかな笑顔が素敵なアイドル的存在の、あの大塚君がやで、いきなり千幸に告るなんて、ビックリやわ」
「そうでもないで、千幸は誰が見ても可愛いし、狙ってた男子、他にもいたみたいやで」
「えー、そうなん?」
千幸は友達から認められるくらい可愛い。学校のアイドル的存在の大塚から告白されても、誰もが、あの子なら……と納得する。理不尽な妬みは別にして。
「けど、千幸が大塚君のこと好きやったなんて、全然知らんかったわ、そんなん一言も言うてへんかったし」
三人とは違って少し地味な印象の久美が意味ありげに言った。
「あの時はあたしもビックリして……、勢いに負けたと言うか、つい」
千幸は頬を赤らめながら言った。
「つい、で、付き合うか?」
責めるような口調になる久美に、千幸は返答に困った。
「そう妬みなさんな」
春菜が口を挟んだ。
「別に妬んでなんか」
大塚の告白は、千幸にとって青天の霹靂と言ってもオーバーではない出来事だった。もちろん彼の存在は知っていたし、カッコイイと思っていたが、しょせんは高嶺の花、手の届かない人だと思っていた。
そんな彼から呼び出され、突然の告白、頭の中が真っ白になり、一瞬、言葉が出なかった。でも、あの端正な顔を間近で見て、キラキラした瞳で真っ直ぐ見つめられると、NOと言う言葉は出なかった。
「でも、大塚君のファンって、いっぱいいるやん、久美と違ても、他の子に妬まれてるのは間違いない」
「またぁ、芽生も余計なことを、千幸が気にするやん」
「ちょっとくらい気にした方がええんや、女の嫉妬は怖いしな」
「そうやけど、気にしてもしゃーないやん」
「で、どうなん? 進展具合は」
「進展もなにも、まだ一ヶ月やで、大塚君は部活もあるし、まともなデートなんか2回しかしてへんし……」
「2回とも映画やろ、芸ないなぁ」
「なんで芽生が知ってんの」
「芽生は映画通やし、お勧めを聞いたんやけど」
むくれる春菜に申し訳なさそうな千幸。
「報告くらいしてほしかったな」
「なんでアンタにいちいち報告しなアカンねん、な、千幸」
「恋すると秘め事が多くなるんやな、薄い女の友情よ」
「ゴメンゴメン、今度から報告するし」
「絶対やで、秘密は無しやで」
「はーい」
この時の千幸はまだ知らなかった。女の妬みの恐ろしさを……。
つづく




