その1
あどけない寝顔。
母親の腕の中でどんな夢を見ているのか、赤ん坊はスヤスヤと眠っていた。
その時、母親が首筋に刃物を突き付けられていることなど知る由もない。
「この子だけは」
母親は震える声で言ったが、その口に猿轡がかまされた。
頭巾をかぶった黒装束の不審人物は二人、人相はわからなかったが、短い着物の下から伸びた綺麗な足から女であることが窺えた。
一人が母親の手から赤ん坊を取り上げた。
抵抗しようと動いた瞬間、研ぎ澄まされた刃が首筋に当たって血が滲んだ。
その時、ドアが開き、夫が入室した。
妻が刃物を突き付けられている姿に驚いたのも無理はない。
「なんやお前らは!」
妻子を救おうと侵入者に飛び掛かった。
赤ん坊を取り上げた女は慌てることなく、突進する父親の額に人差し指を突きつけた。
すると父親の体は瞬間冷凍されたように固まり、動きが封じられた。
そして、
「うぐっ!」
父親は目を剝きながら膝をつき、苦しそうに横転した。
口角から水が溢れ出した。
恐怖と苦悶に満ちた表情で、喉元を掻きむしりながらのた打ち回り、ガバッと開いた口から大量の水が溢れ出した。
父親の体は痙攣し、程なくグッタリと床に伏せた。
そして動かなくなった。
女は赤ん坊をベビーベッドに寝かせてから、父親にしたのと同じように、人差し指を額に突きつけたが……、赤ん坊はスヤスヤと眠ったまま。
女は驚きに目を見開きながら、母親を捕らえているもう一人の女に視線を送った。
「術が効きません」
「なに?」
後ろ手に縛られ、猿轡を噛まされている母親は、体をよじる他はなにも出来ずに我が子の安否を心配するあまり、気が狂いそうになっていた。
「その子はどうせ育たぬ、捨て置いても死ぬ運命だ」
「はい」
二人の賊は母親を引きずるようにして部屋を出た。
赤ん坊はなにも知らずに寝息を立てていた。
* * *
京都に本家がある綾小路家は、平安時代から続く旧家で、現在、表向きは実業家だが、実は昔から妖怪退治を生業としていた。
一番年長者の雫は、綾小路家に代々伝わる銅鏡に映る未来を見る事が出来る、唯一の人物だった。
「多鶴がなにかを訴えてる」
銅鏡を前に、雫が年に合わぬ可愛らしい声で言った。
「多鶴?」
後ろに控えていた流風がオウム返しした。
雫は振り向いて、流風の正面に座り直すと、
「彼女は戦前からの古い友人でな、去年亡くなる直前まで文のやり取りを続けてたんや、彼女の実家は、奥琵琶湖で大地主やった湖月家や、昔は綾小路と肩を並べる家柄やったけど、今は没落して一族は離散してるんやけどな」
「多鶴は死ぬ間際まで気にしてたことがあってな、湖月家には代々継承されてた儀式があるんや、百年に一度の儀式を行う者がいーひんようになってしもたと……、その百年目が今年なんや」
「湖月家? 湖月宮と関係があるのだろうか?」
突然現れた霞が口を挟んだ。
いつの間にか、横にチョコンと座っている霞を見て、流風は驚くと同時に苦笑いした。女の目から見てもドキッとする美しさ、今日はドレッシーな淡いブルーのワンピース姿だ。
「妖怪が来る場所じゃないでしょ、颯志様にも言われてるのよ、妖怪退治の本家に、妖怪が出入りするのは好ましくないと」
流風は厳しく言ったが、
「まあエエやん、霞はエエ妖怪やし、うちが許す」
雫は微笑んだ。
「霞は湖月宮を知ってんのか?」
「古より存在する女だけの都だ、二千年程前だったか、迷い込んだことがあってな、たいそうなもてなしを受けた」
「あなたをもてなすなんて、そこの住人は普通の人間じゃないのね」
流風は皮肉っぽい目を向けた。
「お前たち人間は異なるモノを認めないからな、そう言う意味では人ではない、しかしお前たちほど野蛮ではないぞ」
「アンタらから見たら人間は野蛮か、耳が痛いなぁ」
雫は苦笑いした。
「で、どこにあるんや?」
「琵琶湖畔に入口がある」
「湖月家と無関係ではなさそうやな、儀式もそうやけど、調べてみる必要があるなぁ、多鶴の孫が健在やし、なにか知ってるかも知れん」
雫は言った。
「うちから連絡しとくし、話を聞いておいで」
「はい」
「仕方ない、わたしも一緒に行ってやる」
「こなくていいわよ」
「遠慮はいらぬぞ」
「遠慮じゃないし!」
「お前達は姉妹のようやな」
雫は微笑みながらそう言うと、大きなあくびを一つした。
つづく