その8
川のほとりに座り、霞は素足を水につけ、パシャパシャと弾いていた。
(なぜ人を食ってはいけないのだ? 人とて鳥や獣を捕って食うではないか)
無邪気に問う霞を、智風は悲しそうに見下ろした。
(人は臆病なのだ、自分たちより強いモノを恐れる。人を襲うと次は自分が殺られるのではないかと恐れ、そうなる前に危険と思えるモノ全てを排除しようとするのだ)
(わたしは負けないぞ)
(お前は人の、本当の恐ろしさを知らない……)
智風は穏やかに流れる川面を見つめながら言った。
(知っているぞ、人は人同士で殺し合う、食いもしないのにただ殺し合う生き物なんて、滅多にいないからな)
(そうだな)
(でも、智風が言うなら、人を食うのはやめる、たいして美味くないしな)
(いい子だ、約束だぞ)
智風は霞を見て目を細めた。
霞は嬉しそうにコクリと頷いた。
銀杏の落ち葉で、金色の絨毯を敷き詰めたような森の中に智風と霞がいた。
葉を落としきった銀杏の木を見上げている智風の眼差しは穏やかだが、悲しみを湛えているようだった。
そんな智風を霞は心配そうに見た。
(智風はなぜ戦う?)
霞は不服そうに尋ねた。
(都の人々を災いから守る為)
智風は静かに答えた。
(都の人間はお前にとってなんなのだ? 守る価値はあるのか?)
(人に尽くすのは、人として当たり前のこと)
(そうなのか? どんなに尽くしても気付かない、自分たちのことしか考えていな人間の方が多いのだぞ)
(それでも)
(それでも命を懸けて戦うのか?)
(それが私の宿命)
(宿命……、智風と逢ったのも縁、わたしも一緒に行こう、役に立つだろう)
(それはありがたい、お前は強いからな)
智風は霞の頭に手を置いた。
(でも無理はするな、お前は必ず生きて戻るのだぞ、ここにはお前の守護を必要としている物の怪がたくさんいるからな)
(智風は?)
(案ずるな、いつか必ず、逢いに来るから)
白い霧が濃くなり、智風の姿を包んだ。
智風の微笑も見えなくなり、次第に遠ざかっていく。
(待って……)
霞は追いかけようと手を伸ばした、その時、
目の前が暗転した。
(何?)
闇の中に赤い煌めきを見た。
(鬼か!)
* * *
「なんか変や」
瑞羽は速度を落とした。
車で行ける所まで行こうと、真琴と珠蓮は瑞羽の運転で山道を進んでいた。
那由他も最初は同乗していたが、下手くそな運転に驚いてさっさと消えてしまった。残された二人は車酔いでグロッキー、徐行してくれたのはありがたかったが……。
「この辺りって、封鎖されてるはず違うかった? 未知の細菌ってことになって危険やて」
「道、間違えたんじゃないだろうな」
後部席から珠蓮がナビを覗き込んだ。
「あれ、パトカーやん」
前方に停車しているのはパトカーだった。ライトも点いておらず、無人かと思ったが、運転席と助手席には警官が乗っていた。
ただ、イビキをかいて爆睡していた。
「怠慢か?」
「違うわ」
真琴は少し前から漠然とした息苦しさを感じていた。
「じゃあ……」
その先にも車が数台停車していた。周囲に警官の制服を着た人、白衣の調査員らしき人が数人倒れていた。
瑞羽は車を止めて、周囲を警戒しながら下車した。
倒れている人の首筋に手を当て、
「生きてる、気を失ってるだけみたいや」
「夏でよかったな、冬なら眠ったままあの世行きだ」
続いて降りてきた珠蓮が言った。
「お前は大丈夫なのか?」
「今のとこは」
瑞羽は護符を入れた胸元に手をやった。
「重賢和尚の法力のお蔭かな」
「それにしてもあの子、こんな所へよくもまあ一人で」
瑞羽はにかわに流風が心配になった。
道路から外れた森の方は灯り一つない暗闇、それに言い知れぬ不快感が漂っていた。
「普通の神経じゃないからな、アイツ」
「けど、大蛇に食われへんうちに見つけな」
真琴はさっさと闇に向かって歩き出した。
「ちょっと待って、アンタらほど夜目が利かへんねんし」
「今夜は月が出てるし、どうもない」
真琴は空を見上げた。
月明かりを吸い込んで縦長に伸びた真琴の瞳が金色に輝いた。
しかしにわかに流れてきた雲が月を隠した。
その時、
!!
真琴は素早く瑞羽を抱えて、木の枝に飛び上がった。
珠蓮は、
「わあっ!」
弾き飛ばされて、気に体を打ち付けた。
木の上から倒れた珠蓮を見下ろして瑞羽は青ざめた。
「ありがと、真琴」
「来るで!」
草むらの中に蠢くものがあった。
倒れた珠蓮が起き上がった時は、全身黒い剛毛で覆われた鬼に変化していた。
闇の中でも赤い眼が煌めいた。
再び雲から覗いた月灯りに照らし出されたのは、白い大蛇の美しい鱗だった。
大蛇は大きな口を開け、鋭い牙で珠蓮に襲いかかった。
つづく