その5
悠輪寺の住職、重賢は御年75歳、若い頃鍛えた体も、寄る年波で少々ガタがきている。
この日はギックリ腰で整形外科を受診していた。
「ありがとうございました」
診察室から出てきた重賢は、ポロシャツにチノパンというラフな服装。総合病院にいつもの法衣で来るのは気が引けたので、慣れない洋装で訪れていた。
「やっぱり、日にち薬かなぁ」
腰をトントンと叩きながら、ゆっくり歩き出した。
すると突然、冷たいモノが背筋に走った。
たちまち悪寒がこみ上げ、全身に鳥肌が立った。
(なんや!)
重賢は周囲を見渡した。
通路を行き交う患者や看護師達、一見、いつもと変わりない風景だが、重賢の真眼には、いびつに映った。
重賢はこめかみを押さえた。
(これは……)
空間が歪んでいる。それを生み出しているのは強烈な瘴気……その発生源は。
重賢はフラフラと歩きだした。
重賢が感じるまま入院病棟に辿り着いた時、瘴気は濃くなっていた。
(さて、どうするかなぁ)
重賢は身の危険を感じていた。
今すぐ立ち去りたい衝動に駆られていたが、瘴気を発している物の怪を放置しておく訳にもいかない。すでに病棟全体を汚染する勢いだった。
「ご気分、悪いんですか?」
重賢の様子がおかしいのに気付いた看護師が、心配そうに声をかけた。
確かに、酸欠のように息苦しい、まがまがしい瘴気の影響だと思われる。
「大丈夫です」
と作り笑いで誤魔化そうとしたが、看護師の視線がすでに自分から外れているのに気付いた。
その目には見る見る驚愕と恐怖が現れた。
看護師の視線を追って振り向くと、
ミイラが歩いていた。
ミイラ?
と思ったが人間だ。
白衣を着ている。しかし、顔はどす黒く干からび、手足も骨とシワシワの皮だけ、とても生きているとは思えない状態。
「な、なに……アレは」
看護師が震える唇で言った時、ミイラは崩れるように倒れた。
そしてまた、同じように干からびた人間がフラフラと現れた。パジャマの入院患者や見舞客らしき人まで、数人が廊下を徘徊していた。
「これは……」
重賢はそれらの人々の足元に黒い影を見た。太長いいロープのようなものが、クネクネと動き回っている。
それがこちらへ向かって来た。
重賢は素早く立ち上がり、印を結んだ。
結界が張られ、影は重賢の前で止まった。
(蛇か!)
結界に阻まれた影は、床から這い出て首をもたげた。
それは天井に頭をぶつけるほどの白い大蛇で、大きく開いた口から牙を剥き出しにして威嚇した。
「キャアッ!」
看護師は悲鳴をあげると、気を失って倒れた。
「看護師さん!」
呼びかけたものの、大蛇を食い止める印に力を込めるので精一杯、助け起こす余裕はなかった。
大蛇は重賢に飛び掛かろうと体当たりしたが、結界を破れずに、飛び越えて出入口へ向かった。
(アカン!)
外へ逃がす訳にはいかない。
重賢は気を鞭に変え、逃げようとする大蛇を捉えようと投げた。
それは大蛇の首に巻きついた。
大蛇は振り返り、重賢を丸呑みにしようと大口を開けた。
重賢はもう一方の掌に気を集めて発した。
命中!
大蛇は重賢の気を飲み込んでしまうと、もんどり返って苦しんだ。
天井へ、壁へと暴れる大蛇、気の鞭で大蛇の首を捉えている重賢は、上下左右に引っ張られながら、逃がさないように踏ん張った。
早くとどめを! と重賢は再び掌に気を込めた。
重賢の体が青白いオーラに包まれた。
細い目をカッと開き、暴れる大蛇に掌を向けた瞬間、
ギクッ!!
重賢の顔から血の気が引き、オーラも萎んだ。
ギックリ腰の悪化。
掌を向けたまま動けなくなった重賢に大蛇は牙を剝いた。
これまでか!
重賢が観念した時、
大蛇は牙を剝いたまま海老反りになった。
「ギャァァ!」
苦痛の叫びを上げながら、大蛇は床にドサッと落ちた。
その後ろには真っ黒い毛で覆われ眼だけが赤く煌めく、体長2メートルくらいの獣が立っていた。
鋭い爪から大蛇に一撃を加えた時の血が滴り落ちていた。
赤い眼は、横たわる大蛇を捉えていた。
大蛇の体に一撃を受けた傷口がパックリ開いている。
珠蓮は止めを刺そうと飛び掛かったが、鋭い爪はリノリウムの床に突き刺さった。
大蛇は再び黒い影となって壁伝いに逃げ去った。
「ちっ!」
珠蓮は人間の姿に戻り、
「行くぞ」
重賢をヒョイと肩に担ぎあげた。
重賢の腰がボキボキと悲鳴をあげ、激痛に白目を剝いた。
珠蓮は気遣うことなく、重賢を担いだまま、窓から飛び出した。
つづく