その2
大銀杏の振動とシンクロして周囲の銀杏も激しく揺れた。
地面の亀裂から逃れて太い枝に避難したものの、振り落とされそうなった紫凰は黒猫に変化し、背に雫と那由他を乗せて空中に躍り出た。
紫凰の背中は思いのほかフカフカで乗り心地が良かった。
真っ黒い剛毛に見えた毛皮は意外に柔らかく、快適に雫と那由他を包み込んだ。
那由他の腕の中で、雫はグッタリしていた。
羅刹姫に空けられた腹の傷からは、まだドクドクと血が流れている。大量出血で体温も低下しているはずだが、なめらかで温かい毛皮に埋もれて、寒さは感じなかった。神経が麻痺しているのか、痛みさえ感じなかった。
「なんで高貴なあたしが、お前たちを乗せなきゃならないんだよ」
紫凰はふてくされながらも、心配そうに雫を見た。
雫は死を予感していた。
自分はしくじった。
こんなにもあっさり、羅刹姫ごとき下賤な妖怪の攻撃をかわせずに、使命を果たせないとは、なんて間抜けなのだろう。
鏡は教えてくれなかった。何度も仲間の危機を予見して、回避してきたのに、なぜ、自分に起こることは教えてくれなかったのか?
(鏡に映るモノが見えるのか?)
まだ幼かったころ父親に聞かれた時、
(はい)
素直に認めてしまったことを雫はずっと後になって後悔した。当時はまだ九歳、その返事が自分の人生を歪めてしまうなんて、思いもよらなかった。
その日から特別な子供となった。
周囲の目が変わったことをひしひしと感じた。
最初は嬉しかった。ちやほやされて我儘も聞いてもらえた。なにより、鏡で予見し、危険な任務に就くハンターたちに貢献できることが誇らしかった。
しかしやがて、護衛と称していつも誰かが傍にいる、プライベートのない生活を窮屈に感じはじめた。
それでも恋の女神は雫に舞い降りた。
自分を連れて逃げてくれると言った人、しかし、駆け落ちの当日、彼は現れなかった。
(大金を握らせたら、さっさと一人で行きよった)
父の言葉を、雫は信じることにした。
裏切られたのだとしても、生きていてほしかったから……。自分のせいで消されたとは思いたくなかったから……。
紫凰に頼めば、彼の行方を調べてくれただろうが、あえてそうしなかった。大金を手にして、どこかで幸せに暮らしていると思うことにした。
彼とは縁が薄かったんだ、きっとまた誰か、自分を救い出してくれる運命の人が現れる。雫は仄かな希望を胸に待ち続けた。
しかし、そんな人は現れなかった。
自分では行動を起こさずに、ただ待っているだけでは運命は変えられないと気付いたのは、歳を重ねてから、もう手遅れになってからだった。
前世の記憶が甦り、自分が明子の生まれ変わりとわかった時に知ったのだが、その昔、初めて鏡に映るモノを見て、未来を予見したのは明子だった。雫に見えたのは、当然のことだったのだ。
明子の記憶は次々と甦った。まるで自分が体験した出来事のように鮮明になり、気持ちさえ一つになったように雫の胸を締め付けた。
遠い昔、綾小路家の強欲が生み出した邪悪なモノにより、多くの犠牲者が出た。制御できない瘴気が都を覆い、それを吸い込んだ人々は邪悪な力に支配されて正気を失い凶行に走った。都は無法地帯となり、人々は殺し合い地獄と化した。
力を秘めながらなにもできなかった明子の無念、その後始末を押し付けられて命を落とした若い僧達への懺悔……。
せめて僧たちの転生者を同じ目に遭わせてはいけない。救わなければならないと思っていたのに、それも叶わないのか……。
自分はなんのために生きてきたのだろう?
明子の転生者としての宿命に従い、一生を綾小路家に捧げてきた結末が、こんなお粗末なものだなんて……。
いや、まだや!
もう少し近付けたら、悠輪の結界に届く。
負傷したものの、霊力はそのまま残っている。今からでも注ぎ込むことが出来れば、まだ止められる。
「まだ、結界を補強することをあきらめていないのか?」
雫の思考を読み取った紫凰が言った。
「お前がそうしたいのなら、協力してもいいんだよ、でも……」
「それは本当に雫の意思なのかな? お前は明子の転生者だけど明子とは違うんだよ、綾小路雫なんだよ、最期くらい、綾小路雫がしたいようにしてもいいんだよ」
「けど……あの子たちを死なす訳には……」
那由他が雫の手を握った。それは冷たく、骨ばった指には血が通っていないようだった。
「あいつらも同じや、召喚されるのは無理矢理やけど、戦うか逃げるかは、今からでも選択できるんやで」
雫はうっすら目を開けて、見下ろした。
大蜘蛛に変化した羅刹姫の攻撃を受けている大銀杏の傍に、五つの光が出現していた。
つづく