その1
三日前、初雪が降った。
それはすぐに消えてしまう沫雪だったが、本格的な冬の到来を宣言するにふさわしい冷え込みだった。
そして今日も、それに劣らぬ底冷えに見舞われていた。
「あ、雪や」
ちょうど信号待ちで停車した時に気付いた類子は、ヘルメットのシールド越しに空を見上げた。
「寒いはずや」
大型バイクを運転している彼氏、昭信の背中にピッタリくっ付いていた類子は、少し体を離して掌で沫雪を受け取った。
掌に落ちた雪はすぐに融けたが、冷たさだけは残った。
次の瞬間、黒い塊が落ちてきた。
!?
鋭く尖った嘴が、類子の掌に突き刺さった。
それは急降下したカラスだった。
「キャアァァァ!」
周囲の空気を振動させる悲鳴、類子の身体はシートからずり落ちて道路に転がった。
倒れた類子に続々と飛来するカラスの群れが、狂ったように彼女の体をついばんだ。
悲鳴を上げながら両手を振り回して抵抗するもむなしく、喉元への一撃が声を奪った。噴き出した血飛沫が洋服を染めていく。
「なんや!」
なにが起きたか把握できない昭信にもカラスは向かって来た。
類子を見捨てて逃げようと、アクセルをふかそうとしたが、目の前の横断歩道には大型犬が牙を剥いていた。
散歩させていた飼主は、愛犬の異変に驚きながらも、必死でリードを引っ張っている。
「くそ!」
ハンドルを切り、進路を探すが、牙を剥いていたのは一匹だけではなかった。近くで散歩していた犬たちが、飼主を引き吊りながら集結してバイクを囲んでいた。
「なんなんや!」
昭信はバイクを捨てて走り出そうとしたが、足に激痛が走り、よろめいて膝をついた。
見ると、そこには大きなドブネズミがいた。昭信の足首に噛みついている。どこから湧き出たのか、昭信の下半身はたちまち数匹のネズミに食らいつかれていた。
「ひえっ!」
情けない悲鳴を上げながら振り払おうともがくが、数は増し、胸元から首元まで這い上がってくる。
この異様な光景は類子と昭信だけに起きていた。
他の通行人は、慄然と見ているだけで助けることも忘れていた。と言っても、近寄ることなど出来なかったが……。
カラスにたかられている類子はグッタリして動かなくなった。
ネズミに全身覆いつくされた昭信も、やがて動きが止まった。
アスファルトには二人の身体から流れた鮮血が広がっていった。
* * *
悠輪寺の境内。
重賢は折り畳みチェアに座りながら、本堂周りのお堀で釣竿を手にしていた。
釣り糸の先には、キュウリがぶら下がっている。
お堀の中、水中には影が動いていた。空中に浮かぶきゅうりの周りをクルクル回っている。
「懲りずにやってるんだな?」
後ろから突然かけられた声だったが、珠蓮の気配を察していた重賢は、驚くことも振り向くこともなく、
「しーーっ」
その時、水面をなにかがピチャッと跳ねた。
重賢は慌てて竿を上げたが、一瞬遅く、水掻きがある緑色の手が飛び出し、素早くキュウリをもぎ取って水の中に引っ込んだ。
「本気で、そんなモノで釣れると思ってるのか?」
珠蓮は呆れ顔。
「これはお愛想や、儂の気持ちを察して出て来てくれへんかなぁ思て」
「河童に通じるとは思えないけどな、それにお堀は銀杏の森に繋がってるんだろ、いつ出て来るかもわかんないのに」
重賢は波紋だけが広がる水面を淋しそうに見つめた。
「どうやら、間に合わへんみたいや」
深い溜息をついた。
「ところでお前さん、こんなとこでなにしてんにゃ? 森に入らへんのか? 勢揃いしてるみたいやで」
「だからだよ、人が多いところは苦手だって知ってるだろ」
「けど、紫凰がお待ちかね違うか? えらい気に入られてるやろ」
「言わないでくれ……」
珠蓮はげっそりと肩を落とした。
つづく