その5
「朧蜂は妖怪って言うより、精霊かな、本来は山奥に住んで自然を護っているんだけど、百年に一度、女王の朧が出産する時だけ人里に降りて来るんだよ」
流風の疑問を察した紫凰が解説した。
「ここは朧蜂の巣なんだよ、人間が住む現世と隣り合わせにある異空間だよ、本来、普通の人間が簡単に入って来れるところじゃないんだよ」
図書館にいる人々はこちらに気付かない、まさか隣り合わせの空間に妖怪が蠢いているなんて想像もしていないだろうが、こちらからは丸見えだった。
「出産を控えた朧の為に人間の生気を集めるには、人が多い場所のほうが都合イイからね」
人間の生気を! 人々は危険に晒されているなんて知りもせず読書に耽っているんだと流風は慌てた。
「心配ないよ、少しずつ吸い取ってるから、蚊に刺されるようなもんだよ、少し気怠く眠くなる程度で、数時間で回復するから害はないんだよ」
紫凰は流風の心を察したように言った。
しかし流風は横断歩道の幽霊を思い出した。
少女はきっと生気を抜かれて眠くなったまま外に出てしまい、交通事故に遭ったのだろう。朧蜂に悪気はなくても犠牲者は出ている。
「事故は、あるもんだよ。出産は済んだし、この巣もすぐに引き払って山に帰るから」
だから騒ぎたてずに見過ごせと、紫凰の目は訴えていた。
「朧様、早くお部屋へ戻りましょう、危険です」
武装兵が朧を保護するように取り囲んだ。
「大丈夫よ、紫凰が来てくれたのですから」
朧は呑気に微笑んだが、武装兵はキッと刺すような視線を紫凰に浴びせた。
「歓迎されていないようね」
冷たい視線に気付いた流風は紫凰に耳打ちした。
「まあね、用心棒の報酬は卵一個だからね」
不敵に舌なめずりする紫凰。
「あなたも卵狙いなんだ」
「紫凰が守ってくれなければ、全滅って時もあったし、一個差し出すだけで、他の卵は守れるのですから、悪い取引じゃないのですよ」
朧が苦笑しながらフォローした。
交通事故に遭った少女の件は納得できないが、ここは引き下がるしかないと思った流風は、
「じゃあ、あたしはこれで」
帰ろうとしたが、
「どこ行くの?」
紫凰は流風の服の裾を引っ張って、上目遣いに大きな瞳を向けた。
「可愛い子ぶっても、正体知ってるし」
「ちっ」
「忙しいからとっとと退散したいんだけど、出口は?」
「なにが忙しいのよ」
と言うや否や、紫凰は流風のカバンを取り上げ、子供が悪戯するように振り回した。
「勉強なんか後でイイじゃないの」
「返して!」
取り戻そうとした時、カバンが開いて中身が散乱した。
その中には雫から受け取った古い文献もあった。
「これは?」
紫凰はそれを拾い上げた。
「この臭い」
文献を開き、
「雫はまだ生きてるようだね」
そこに残っている雫の臭いを確認するように、紫凰は大きく息を吸い込んだ。
「雫様を知ってるの?」
「ああ、あの子が生まれた時からね、最近は会ってないけど」
「あの子って……」
「綾小路家とは昔から縁があったんだよ」
「返してよ、あたしはそれを早く読まなきゃならないんだから」
流風は強引に文献を取り戻した。
「はは~ん、読めないんだね」
「……」
「読めないんだ~」
茶化すように覗き込む紫凰に流風はムッとした。
「そう言うあなたは読めるの?」
「もちろんだよ」
「じゃあ、読んでよ」
「いいわよ、手伝ってくれるならね」
「手伝う?」
「卵が孵化するまでの用心棒」
「あなた十分強いんでしょ、あたしなんかお役に立てないわよ」
「またぁ、そんなご謙遜を、さっき見たんだよ、智風と同じ風の能力を使えるんじゃない」
武装兵の一人が真っ二つになった柄を掲げ、どうしてくれるんだ、弁償しろと言わんばかりに流風を睨みつけだ。
「複数同時に来たら手が回らないかも知れないし、味方は多い方がいいんだよ」
「智風様の転生者のお力添えがあれば、どんなに心強いか」
朧も懇願するように潤んだ瞳で流風を見つめた。
「1200年前は守ってくださったわ」
霞といい、この朧といい、智風はよほど美形妖怪に弱かったんだと知った流風は、自分のことのように恥ずかしくなった。
「智風は優しかったんだよ、人、妖怪、分け隔てなくね」
また紫凰が流風の気持ちに反応した。
彼女は人の心が読めるんだと確信し、流風はゾッとした。
その時、武装兵達がにわかに騒ぎ出した。
流風を取り囲んだ時のように、槍を翳して動き出したのを見た紫凰は、鋭い視線を槍先の方に向けた。
流風もそちらを見て目を見張った。
「環花!」
そこには環花が立っていた。しかし、ここは普通の人間が入れる場所ではないはずだ。
「知り合いなの?」
「分家の子よ」
「綾小路家の?」
紫凰の瞳が縦に伸びて赤紫に煌めいた。
「だとしたら、禁を犯したんだね」
つづく




