第七十四話;蜜の姫 4
闇に溶け込む、黒い髪。月色の瞳が真っ直ぐに、己を見詰めた。
ゆったりと、身を重ねていく。足を合わせ、腰を重ね、胸を重ね。その淫靡なさま。
さらさらと髪がオウランの胸に落ち、薄絹一枚の危うい肢体がその柔らかさを伝えてくる。
女の掌がオウランの胸を腰をいとおしげに撫でて行き、うっとりと恍惚の表情を晒した。
赤い唇が重なろうと、そっと吐息をオウランの口端に吹きかける。
唇を吐息が掠め、重なるかと思われたとき。
「どけ」
オウランが怒りの声を上げた。
低く、抑えられた声は、いや増す怒りに塗り固められていた。
半身をオウランにもたれかけたまま、女が動きを止める。そのまま、じっと瞳の奥を見つめた。
しばし、小首を傾げて、考えて。
女が声を唇に乗せた。そっと、耳元で囁く。
「…我が君、この子の望みをご存知か?この子の望みは、ただひとつ。貴方とひとつになる事。それがこの子の、ただひとつの願い…」
あられもない姿で、俺の腹に跨った女。
こんな格好を晒すのに、恥じらいの欠片もない女。
これ、がチヒロを支配している事が、はらわたが煮えくり返るほど忌々しかった。
それは、怒りで目の前が赤く染まるほど。
チヒロの顔で、チヒロの身体で、よくもそんなことを!
俺のただ一人の女性を、その尊厳を踏みにじる行為を決して許せるはずがなかった。
「どけ」
低く声に乗せる。拒絶は露で。
「ああ、我が君…。これが、この子の望みなのです」
怒りに何ほどの感慨もないのか、女が、赤い唇を俺に寄せてそっと吐息を吹きかけた。
チヒロの顔で、チヒロの唇で、うっとりと、唇を合せる。
仕草も技巧もおよそチヒロとかけ離れたものだったが。
身を襲うのは嫌悪だった。虫唾が走って引き離す。
「…何故ですの…」
さもあらん。呆然とする女の姿に、少しすっとした。
それが、チヒロの皮を被った別人のもたらすものならば、いかな技巧も、技術も、この身を襲うは嫌悪以外の何物でもない。
ふんと鼻で笑ってやった。
「チヒロでなきゃ、勃たん」
女の顔が悔しさに歪んだ。
「何故ですの。何故、私の思う通りに動いてくださらないの?この娘を抱いて欲しいのです。この身を楔で穿って、抉って、そのまま、恍惚のままに食い殺して欲しいのです…、それがこの子の願いなのに!」
チヒロの皮を被った女が寝台の上で身動ぎする。薄絹が肌の際どいところを露にした。
ソレを気にするでもない女にまたチヒロへの思いが募るのだ。
チヒロ。
お前に逢いたいよ。
お前の羞恥に染まった顔を見て、からかいたい。
お前の瞳に映る自分を見て、安心したい。
お前の不在がこんなにも、こたえてならない。
「チヒロの言葉でないのに、信じると思うのか?」
女の目を射て、女の中に眠るチヒロに思いを寄せる。
願う。
乞う。
チヒロを返してくれ。
チヒロをここに、返してくれ。
「…チヒロ。目を覚ませ。他人に身体をあけわたして、それでいいのか?何から逃げているんだ?教えてくれなきゃ、一緒に考える事も出来ないじゃないか…」
苦さを含んだ囁きは、届かないのか?俺の声はこんなにも、弱いのか?
と、女の身体が硬直した。
声が、届いたのかと思い至り、なおもチヒロの名を呼んだ。
すると、ぎこちない動きで、女が身動ぎをした。
「あ…「わ・たしの」…」
「チヒロ?」
慌てて、肩を掴んでしまった。消え去ってしまわないかと、焦る。
「わた・しの、ねがいは…」
女の顔が泣きそうに歪む。胸を抱くように両手を掲げ、髪を乱し、いやいやをする。その眼差しが一瞬俺を射抜き、そしてためらいに逸らされた。
あ。
チヒロだ。分かる。分かってしまう。だが、何故、こうも拒絶する?
か弱い肩を抱き、叫んだ。
「チヒロ、もどってこい!」
「…わ・たしのねがいは、ね。オウラ、ン。…この人と、同じ、なの」
泣きそうな、顔。泣きそうな、眼差し。それが、揺れて戻ってはっきりと俺を捕らえた。
「同じって、何が?この女と何が同じなんだ?」
オウラン、と口元が動くから、吐息だけで名を呼ばれたと、理解した。チヒロの目を見た。涙が溢れて、零れ落ちる。ふるえる唇が動いて、そして言葉を紡いだ。
「わたしを 食べて」
愕然とチヒロを見つめた。
その眼差しが、チヒロを射るから、チヒロは悲しげに微笑んで、涙を零す。
「ごめんなさ、い。で…きるはずもないの知っているのに、願わずに入られないの。わたしをこの世界に引き止めておく者は貴方だから、貴方のものになりたかった。貴方の側で笑っていたかった。でも私を守ろうと、他の全てを切り捨ててしまう貴方に…みんなに、気がついてしまった。優しい貴方達が好きよ。でも私がいると、ダメなの。だけど、ここにいたいの。でも、ダメ。だけど、一緒にいたい。わたしは、ずるいね。わたし、貴方の一部になってでもここに居たかった。貴方の、側に。オウラン…」
でも、無理なの。
何時飛ばされてしまうのか分からない、不安定な、この身が憎かった。
だから、にげた。
「ここに、いたいよ。みんなの側に、貴方の側に、いたいよ。オウラン。でも、酷い事する貴方達を止めずにはいられないの。だから、だから、消えてしまおうって思った。いなくなろうって。私は、異質だから。異質な成分がいなくなれば、みんなは、また、気高く、明晰な、立派な王様達に、戻るでしょう?」
だから、お願いよ。
「わたしを、食べて」
「できるかよ!」
「お願い。オウラン、お願いよ…」
弱弱しい声に、胸がざわめく。
なぜ。
なぜ。
なぜ、愛しいと、慈しんだ、愛した者の血になぜ、「また」塗れねばならない?
蒼白な面持ちのオウランの剣幕に、チヒロの、気配が去っていく。
オウランが肩を揺すり、名を呼ぶも叶わず、チヒロの意識はまた深みに消え去った。
残された思いは。
残された心は。
気を失ったはずのチヒロがゆっくりと身を起こす。
どこか虚ろな眼差しは、オウランを捉え、しかしオウランをすり抜けていく。
疲れたような表情で女が小さく微笑んだ。
「…これがこの子の真実、ねえ、我が君。黒い太陽の巫女姫が、皆々、囚われるこの思い。…願っても誰も叶えてくれぬ。願ってもむなしくなる思いに、過去、いずれの巫女姫もぼろぼろになりましたわ。愛しい男に食べて欲しいと願うのは、いけないことなの?ひとつになりたいと願う事は、そんなにも、愚かなの?己が存在の不確かさに嘆くのは当たり前でしょう?知らぬ間にここに飛ばされて、何時また、飛ばされるかも知れぬ、己が立つ場の不確さ!ただ精神がやせ細っていくの。不安は不安を呼び、何時この世界から解き放たれるのかも知らずに怯える毎日…。
新たな巫女姫に寄り添うも、また私の妄執に染まってしまう…。もう、見たくないのです。悲しみに打ちひしがれる娘も、我が君も。願いを飲み込み、その身を流されるままにした、過去の自分も!」
チヒロの顔で、チヒロの声で、巫女姫の声が音を立てて響く。
引き裂き、引きちぎり、眼前にその心を晒し。我とわが身を喰らい尽くそうとする。
ああ。狂う。
だが。
なおも、巫女姫は叫ぶ。心のままに、閉じ込めた思いを。
「ここに、いたいのです!
我らは、巫女姫は、ここに、あなた達の元に、ただ、ずっと一緒に、そばに、いたいのです、我が君…なぜ、なぜ、叶えてくれなかったのですか!私の望みは、ただひとつ。
貴方の、側に…いたかっただけなのに!!!!!」
声が、胸を打つ。
過去、いかなる巫女姫も囚われた、存在の不確かさがもたらした、間違った思いに、歪んでしまった愛情に、……身が震えた。
声もなく、チヒロをかき抱いた。
暴れるチヒロを、巫女姫を、かき抱く事しか、出来なかった。
闇が、堕ちて来る。
その闇に、囚われそうになった時、かかる声がした。
「…やれやれ、末裔までが、闇に囚われて如何する!」
圧倒的な光に射抜かれて、目の前が、白くなった。