第七十一話;蜜の姫
「…でもね、チヒロ。君を味わっている内にそんなものはどうでもよくなってしまうのだよ。君の中に射ち込みたい、君の中をこね回したい、君の最奥で、果てたい。君とどこまでも遠いところへ逝きたい。君を遠くへ連れていきたい。と願うのみになってしまう…」
セイラン様の独白が、頭の中で繰り返し繰り返し、現れては消える。
瞳の中に踏み込んだ、真剣な眼差し。私を捕らえて離さないそれ。
あの時、気を失ってしまえればどれほど楽だったか。
…うなされそうだ。
夢に出る。確実にでる。
しかもリシャール様まで、喰らい付いてきた。喉元に噛み付かれ、引き倒されるような感覚。
あの眼差しが怖かった。そのまま、この身を裂けるものならば、裂いてしまいたかった。
ふたりが怖い。何を求めているのか明白だから。
でも、だからこそ、早く告白しなければ。
オウランが好きなのだと、理解してしまった今、二人の思いは、魂を引き裂かれる事にしかならない。この身が裂けるものならば、引き裂いて差し出すのに。
あの時、浮かんだ顔はオウランだけだった。
意地悪で、嫌味で、怒りっぽくて、でも優しくて。
ふと振り返ると、そこに待っていてくれる。見守ってくれている。
心細い気持ちで伸ばした手を、取ってくれる。茶色の瞳が私の心臓を射抜くのだ。
そのしなやかな指が、捕らえるのだ。囚われたら、動けなくなってしまうのだ。
シバッテ。
カクシテ、ヤミニシズメテ。
ヒカリナンカ、イラナイ。
タダ、アナタダケノモノニ。
「……うあ」
がつんと頭を殴られるような感覚。ぶんぶんと首を振って、眼を開く。
あたりを見渡して、何もないことに安心して、はっとなった。まただ。
切り取られたように、意識が溶ける。白くなる。
私は、私の中の私に始めておびえを感じた。
下位神殿の孤児院の一室。
太陽と月の巫女だってばれた今、院長先生は滅相もない!と言って部屋をかえることを言ってきたけど、ここがいい、と言い続けてようやく叶った、以前寝起きしていた部屋。
和む。
特に部屋のサイズが。
どこの世界にもお金持ちがいるのと同じように、どこの世界にも庶民はいるのよ。
まー…。寝ずの番をしてくれている騎士様には、廊下狭くて寒いだろうなー…と、思わんでもないが。
あ、ちなみに。
迎えに来た王様達を前に、消滅しそうになってた院長先生があまりに不憫だったので、院長先生の代わりに丁寧に彼らを見送った。セイラン様の纏う雰囲気が更に下降修正されたけど、おびえる子供達を残して、お城に帰れるはずもなく、また、子供達との約束を違えることも出来るはずもなく…。わたしは、ここに、残った。
一個大隊位の騎士さまも残されて、申し訳ないな、と思った。
私は、太陽と月の巫女の名前の持つ意味をよく知らなかった。
…水の国における奴隷解放は着々と進められていた。
同時に太陽と月の巫女のおわす場所として、神殿の存在が知れると、下位神殿には、私に会いたいと言う人が沢山詰め掛けるようになった。
いつの間にか、私は、太陽と月の巫女の呼び名のほかに、もうひとつ、呼び名が増えていた。
「贖罪の華姫」
なんだそれ、と思わないこともなかったけど、それが必要ならば仕方がないと腹をくくった。
何よりも、復権を果たした奴隷身分の人たちのために。彼らの盾になるんだと思った。
奴隷を奴隷と侮っていた全ての人の罪を、巫女姫が背負う事でその罪が昇華されるのだ、とまことしやかに噂され、それに、尾びれ背びれがつきまくり、水の国を一巡した頃は……。
「華の姫さまの御手に祈りをささげることで、全ての罪状を洗い流す事が出来る」
……となっていた。
わたしは、わたしは、刺抜き地蔵じゃなーい!!!
あ、刺抜き地蔵は、病除けだっけ…。んじゃあ、なんなんだろう……。
ふと、我に返ると白いままの記憶の欠片があった。
揺れる瞳。震える心。
…私の中の私に対する不安は、日々つのっていた。
彼らに告白を急がねばと思う反面、忙しくなる身辺にほっとしたのも事実だった。
…その日、下位神殿に五人がやってきて大騒ぎになった。
だって、王様だ。御付の人や護衛の人も沢山居て、大騒ぎになった。
それは、いつもの、謁見の間でのこと。
嬉しそうに微笑むリシャール様の眼差しに、どう返していいか分からなくて困った。
セイラン様の心まで見透かすような深い眼差しに、心臓を鷲掴まれ、瞳が揺れた頃。
思いを自覚して始めて顔を合わせる事となった、オウランの顔を、まともに見れない自分にはっとなった。
「チヒロ?」
オウランの訝しげな声に、いつものように軽口を返せない自分。
しかも、顔を覗き込もうとするオウランの目線を微妙に外し、逃げを図る姑息な心臓。
一向に言う事をきいてくれない身体に、自分自身が嫌になった。
逃げを打つ私に焦れたオウランが、がっしりと顔を押さえて瞳を覗き込んだ。
ぼふっと顔から火を吹いた私を、真顔で見つめるオウランと、眼が合った。
う、うあ。
「…み!見るなっ!」
「な……!この、惚れた女、見ちゃ悪いのか!」
顔を真っ赤にして目線を避けたら、オウランが、叫んだ。
うあ。
胸に押し寄せるこの思いは、何。
じわじわと、胸を焦がす。端から温く、高まる思い。
そっと、頬に添えられた掌のぬくもりに唇がふるえた。
打って変わって優しく、頤を上げさせられ、今度こそ真っ直ぐ瞳が重なった。
途端に動かなくなる、身体。外せなくなった眼差し。
オウランの眼差しが何かを探るように、私の瞳に魅入って、心、重なる。
眦が弧を描き、唇が緩く持ち上がり…微笑の形を成す。心からの、笑み。オウランの、笑み。
眼が、合って。
交わされる眼差しに、微笑みに、心震わせて。睫までが震えてしまう。
好きだと感じる。
好き。
…あなたもそう返してくれた。あなたが、そう返してくれた。他の誰でもない、あなたが。
嬉しい。
心合わさり、もう、寂しくはない。
心合わさり、もう、悲しくはない。
私を繋ぐ、ただ一人の…オウラン。
「チヒロは、オウランを選ぶの?」
そう囁いたのは……セイラン様。眼差しが真剣に射抜くから、私も真剣に返す。
「…セイラン様、わたし、オウランが、好き、です。…セイラン様も、リシャール様も、シャラ様も、アレクシス様も好きです。でも、でも、一番好きなのは、オウランなんです。わたし、やっと気付いた…」
「…ああ、気付いてしまう前に、私で染めてしまおうと思っていたのに、ね……。気付かなかったのかい?チヒロ。君はずっと、オウランだけはオウラン、と呼んでいたね。私や他の者は全て、今でさえ、敬語を使って、一歩引いて接していたのに、オウランだけは、違っていた…。気付く前に思いも全て奪えると思っていたのに、間に合わなかったか」
セイラン様はそう言って苦く笑った。
リシャール様が憂いをこめた眼差しで、私を射抜く。
くじけそうだ、だけど、これが私の罰。彼らの思いを信じずに、彼らを受け入れてしまった、私の罰。
悪意ある言葉に踊らされて、信じなければいけなかった彼らの気持ちを、考えもしないで、欲しいのならと、自分を差し出した。罰だ。
「ば、罰なら、受けます。乞われるままに受け入れてしまった、こんな、私を、真剣に好きだといってくれたのに、わたし、わたし」
それなのに。
蜜に惑わされたわけではないと言い切ってくれた彼ら。
蜜じゃない、と。わたしが良いんだと、言ってくれた。
申し訳なくて、情けなくて、身を切り刻んでしまいたくなるほど、自分が、嫌いになった。
だから責められてもかまわないと、甘んじて、彼らの罰を受けようと思っていたんだ。
なのに。
彼らは、どこまでもやさしい。
「拒絶をさせなかったのだろう?拒みたくとも、拒めない状況では、チヒロが居た堪れなくなるだけだ。貴殿らが悪い!あの時俺は言っただろう!チヒロの心も身体も傷をつけるなと!」
と、憤りの声を上げたシャラ様。
「あなたが困るだろうと思っていたのは事実ですが、ねえ、チヒロ、気にやむ事はありませんよ、全て、彼らの責任ですし、当のオウランとて共犯者ですからね。…ああ、こんなに腹が立ったのは久しぶりですね!まんまと、チヒロを手にして!しかも、なんですか、チヒロのこの後ろめたそうな顔!こんな顔をさせて、喜んでいるなんて、オウラン殿!」
と、なんか途中から夜叉になったアレクシス様がオウランに食って掛かり。
「付け込んだのは、私もですよ、姫。姫の不安に気付かず、姫の不在に慄いて、拒絶を選ぶ事さえ、させなかった。いけないのは、私ですね。…でも、欲しいのです。あなたが。チヒロ…」
そう言って、ため息をついたのは、リシャール様。淡く微笑み、いつもの美貌がいや増す儚さ。でも、伏せた眼差しから真剣な眼が私を射抜く。
そんな彼らを横目に、心底、嬉しそうに笑ったオウランが、私の腰を抱き寄せた。
じたばたする私を軽く睨んで、片頬だけで笑って、それからそっと、口づけようと頬を寄せてきた。
がしっと顔を押さえて、阻む。掌の間からムッとした顔がのぞくがかまうもんか!
「なんだ、キスさせない気か?今日はとことん機嫌が良いから許してやるが、さっさと手をどけろ」
「う、や、やだ。ちゃんと謝ってない。ちゃんとみんなに謝って、それから良いよって言ってもらわなきゃ、わたし、わたし、そ……それに!オウランにも、謝らなきゃいけないの、わたし!」
なんだ。言ってみろとオウランが顎で促す。その間も拘束は緩まない。
くそう。王様め!もぞもぞと動いて身体を何とか王様達に向けた。
「ごめんなさい、セイラン様。ごめんなさい、リシャール様。ごめんなさい、シャラ様。ごめんなさい、アレクシス様。それから、オウラン、ごめんね、わたし、節操なしで」
「ああ。別に怒ってないぞ。他王も、俺もな。……巫女姫という存在はな、チヒロ、自分の蜜にあてられて快楽を拒めないモノなんだそうだ。別にお前が快楽に弱いとか、節操なしな訳じゃなくて、ただ単に、巫女姫だからなんだよ。俺らを拒めなくて当たり前なんだ。なんせ、王の為の女だからな」
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だから、そういうことはもっとはやくいってくれええええっっっ!!!
泣く。泣くよ。盛大に泣いてやる!
えぐえぐしながら彼らを涙目で見上げた。
じゃあ、なに。
節操なしで、快感に弱いダメダメな女だと自分を罵って、奈落の底に更に穴掘って埋めてしまいたいっと思っていた私って、いったい、何。
アレクシス様が、疲れたような顔で言ってくれた。
「あー。まあ、概ねそんなところですね。巫女姫とは王の女で、歴代の巫女姫は王の望みのままに身を差し出したので、夫は一人ですが、実際は各王との間に御子を授かっていますよ。ちなみに、先代の巫女姫は五王国の全ての王と子を生しています」
「先々代の巫女姫は、火の国に嫁いだけど、彼女もまた五王国全ての王の子を産んだぞー」
と、それってフォロー?な答えをくれた、シャラ様。
良いのか、それでえええええええええっっっ!と、オウランを見上げれば、敵は視線に気付き、笑みを浮かべた。気が遠くなりそうだ。
ぐすん。
「オ…オウランは、良いの?自分の奥さんが、ほ、他の人の子供も産んじゃうなんて。いやでしょ?」
「俺は、チヒロは俺のものでいて欲しいよ。俺だけが、お前を気持ちよくして、俺だけがお前を、高みに連れて行ってやりたい。でも、そうしてはいけないんだ。俺が、土の国の王、だから尚更に、お前を独り占めにする事が、出来ない」
…そう、言った。
なんで、どうしてって言葉は喉の奥に消えた。
だって、それを聞いたら、きっと、オウランは教えてくれるけど、傷つくのが分かるような笑みだったから。
「オウラ、ン」
その時、だった。
謁見の間に、拝礼の為に並んでいた人垣から制止する声を振り切って一人、踏み込んできた人物がいた。
女の人だった。しなやかな体つきの、背筋の凛とした、女性。
周りにいた王様達の雰囲気ががらりと変わる。ざっと背なに庇われ、目の前には王様達の背中しか見えない。油断なくあたりを見渡す、彼ら。
険しい顔、きつく射抜く眼差し、飛び交う声。
それをすり抜け届いた言葉は。
「汚らわしい娼婦め!おまえこそが、娼婦だわ!尊い巫女姫?贖罪の華姫ですって?ただ、身の内に蜜を隠し持った、毒婦よりも質の悪い、蜜の姫のくせに!!!」
悪意は刃となって、私の胸を引き裂いた。