第三十四話;守り刀・2
根の国の放った密偵である私の名前。
太陽と月の巫女姫は、その名前を知りたいと言った。
密偵に、名などない、と言ったら、悲しい目で小首を傾げた。
では、なんと呼ばれていたのか、と尋ねられ、番号で、と答えたらもっと悲しい顔をされた。
子供の頃、呼ばれた名前は?もしくは、そう呼ばれて嬉しいと思った言葉は?と尋ねられ・・・ポツリと浮かんだ言葉。
「イザハヤ。」
「イザハヤ?」
「昔、女が私をそう呼んでいた・・・。」
「お母さんかな?」
「・・・わからない。女は、すぐ死んでしまったから。」
巫女姫は立ち上がり、私の両の手を取って私を立たせた。私の瞳を見上げ、見つめながら、微笑んだ。
「イザハヤ、わたしは、チヒロ・オオツキ。これからよろしくね?」
私よりやや低い背丈の、すらりとした肢体の、麗しの姫君。宵闇の黒髪が真珠の肌を縁取り、甘く、とろりと輝く月色の瞳、赤い唇。柔らかな身体。柔らかな心。
胸に押し寄せるこの感情は、なんなのだろう?
「さて、イザハヤ。お前の所属と、使命は?」
「根の国、密偵部隊。今回の命は、情報収集。各王の行動を把握し、報告する事が主。・・・同盟の有無、反意を抱く者の把握、巫女姫の確認、移動ルートの確認・・・などかな。・・・後、協力者がいる。顔はお互い知らないが、声はわかる。私の報告はそいつが精査して、確認をとった後、本国へわたしていた。」
「確認が取れる位置にいる者が、叛意を抱いているのか。根の国に情報を渡して得する奴は誰だ?」
「やれやれ、われらの身辺をもう一度洗いなおさねばなるまいな。」
「火の国はこの間粛正したばかりだが、もう一度だな。」
「根の国戴冠式まで一月を切った、急がねばなるまい。」
国王達が顔をつき合わせて話し始めると、姫は少し考えてからこう言った。
「・・・精霊に聞いて見ましょうか?時間はかかると思いますが、それぞれの国に帰ってから、と考えると、こっちのほうが随分早いはずです。それに、精霊たちは、人間をよく知っています。見えないだけ、感じられないだけで、そこにいるのにね。
それに、彼らは、黒い波動を持つ人がわかるんですって。・・・妬み、嫉み、何かを求めるあまりに心失った人の、真っ黒い感情が、見えるんだって。」
淡々と、どこか苦い物を噛んでしまったような顔で、姫が言った。
「・・・そんなことが、できるのか?」
「うん。できるよって、皆が言ってる。探してきてあげる、見つけ出してあげるって言ってる。」
オウラン王が姫に尋ね、姫は応える。
・・・みんな、とは精霊を指しているのだろうが、五王国の守護精霊は、それぞれ、火、風、水、木、土、と異なる。その全てと意思の疎通が図れると公言したのだ。驚きは、ひとしお、だった。
過去、何れの国が有した巫女姫であろうとも、使役する精霊は、従えてせいぜい二つだったのに。
それぞれの国の、叛意あり、と思われる人物の名を王が告げる。
・・・さすが、自国の把握は完璧なのだな。
それを聞きながら、姫が小さく頷き、瞳を閉じて、祈るような仕草をとる。
アレクシス王の時は、姫の周りで小さな竜巻が起こった。
リシャール王の時は、姫の周りで小型の青い竜体がうねった。
シャラ王の時は、朱金に輝く鳳凰が舞い踊り。
セイラン王の時は、突然現われた灰色狼に皆凍りついた。
オウラン王の時は、黒真珠の輝きの鱗を持つ蛇体で、いつのまにか、姫の首筋に巻きついていて驚いた。・・・しかも、王達をからかうように、姫の、姫の!柔らかそうな胸元を滑り落ちて姿を消した。・・・うらやましい。
甘くとろりとした月色の瞳が私を捕らえる。
瞳は、戒めとなり、宵闇の髪が私を縛る鎖になった。
その声は耳に心地よく、呼ばれるナマエは最早、識別の為のみにあらず。
呼ばれて嬉しい言葉など、なかった。
呼ばれたいと、心より思った事などなかった。
「イザハヤ。」
あなたの呼び声が、私の呪。
胸に押し寄せる感情の名は、歓喜。