第三十一話:彼の事情
水の国、シェルグランの、リシャール・ル・シェルグランは、困惑していた。
宵闇の髪した巫女姫から、眼を離せないのだ。
風の国で、日々、ままごとの様に繰り広げられた、お茶会も、食事会も、散策も・・・、心から楽しいと思えた。娘一人の気を引く為にしては、各国王の牽制は凄まじい物であったが。
月色の、とろりとした蜜のような瞳に見出されると、心震える己がいて。
十も離れているのに、らしくもなく瞳がうろたえ、ふと伏せてしまう。
セイラン殿には、含みのある笑みで見られ、アレクシス殿には鼻で笑われ。
異性との睦言など当たり前の事だったのに。言葉を尽くして女性をその気にさせる事など、空気を吸うように自然に、頭で考えることなく振る舞えたのに。身体は快楽の、その先までを知り尽くし、最早、心奪われる女性の存在などないとさえ思っていたのに。
彼女がいなくなったと知った時。
先を越された、という焦燥と、取り戻さねばという、渇望がせめぎ合い、胸を焦がした。
セイラン殿とオウラン殿の企みはすぐに露呈したが、大義名分を掲げられアレクシス殿は憤った。表向き、奪還する術はない。時を与えれば、彼女が毒牙に掛かるのは判っていたから、急ぐ必要があった。
・・・シャラ殿に先を譲ったのは、彼が、精霊の恩恵を色濃く受けており、歴代の王の中でも鳳凰を使役する事が出来たからだ。彼女の元へ、一刻でも早く参じたかった。
その結果、大きく出遅れた形になったが。
忌々しげに彼ら三人を見つめた。
セイラン殿は鷹揚に、オウラン殿は、鼻であしらい、シャラ殿はばつが悪そうに眼をそらす。
彼らを取り巻く精霊の気は以前と比べるべくもない程の濃さだった。
濃密な精霊の気に押され、軽く眼をとじ、気を落ち着かせる。
「貴殿ら・・・。」
あきれて言葉が続かない。なおも睨みつけると、セイラン殿がため息をついた。
「誰も姫の純潔を散らしてはいないよ。泣いて拒まれてね。ただ、姫の増幅力が凄まじいんだ。歴代の巫女姫との違いはそこかな。血肉を啜らずともこれだけの加護を与えられる。」
「よくも、ぬけぬけと!」
アレクシス殿の纏う雰囲気も言葉も、とげとげしい。
だが、姫の彼らをみる目は以前とさほど、変わる様子がなかった、姫は貴殿らを選んだのか?と尋ねれば。オウラン殿とセイラン殿はお互いを見やってにっと笑った。
「そういえば、俺の事もあんまり責めないで、自分の馬鹿ーっと叫んでいたな・・・。」
「・・・そうなるように、時間を掛けて、口づけに良く慣らしておいた。気持ち良い事に逆らえなくなるように、ね。」
「セイランどの・・・。」
「チヒロは敏感だからね。」
「オウランどの・・・。」
やれやれと首を振る。姫も厄介な輩に見込まれたものだ。
「あ、みなさん、こちらでしたか?」
噂をすれば影。チヒロが侍女の制服を身につけお茶の道具を持って現われた。
「チヒロ!お前またそんな格好で!」
「ええー。私あんな高価な服着て動けませんよう。これ、着心地いいし、気に入ってるんです。」
「・・・オウラン、カムフラージュだと思えばいいじゃないか。」
オウラン殿が声を荒げると、セイラン殿がまあまあと彼をいなす。
「姫?これはなんですか?」
二人にかまわず話しかけると、艶やかな髪を制帽に押し込んだ姫がにこにこしながら手にしたものを持ち上げる。
「クッキー焼いたんです。お茶にしませんか?」
「クッキー?」
・・・クッキーとは、異界のお菓子、デザートなのだそうな。
「随分粉っぽいな。デザートって果実だろう、普通は。」
オウラン殿は、とにかく姫にチョッカイをかけたいんだな・・・。そうして姫の気を引いているあたり、餓鬼にしか見えん。一枚手に取り、さくり、と食む。ほう、と自然邯鄲の声が出た。
「これは、美味しいですね。ほのかに、甘い・・・?しかも、このさくさくとした口当たりは、はじめて味わいます。これは、どのような方法で?」
「この間の牛のお乳から作ったバターです。バターを良くあわ立てるとこんなさくさくした食感になるんです。後、お砂糖代わりにジャム、使いました。こっちが、キュイで、こっちがレンで、で、これが、おばけいちご。」
「ふふ、楽しそうですね。姫。その侍女服もお似合いですよ。今度私の国の侍女服も試していただきたいですね。それにしても、姫はいろいろな物を作るのが本当にお上手ですね。」
そう、シャザクスの温泉保養施設は大当たりだった。その方法を見出したのが目の前の小さな姫君なのだから。枯渇していく資源しかなかったシャザクスは、年々その国力をも衰えさせ、苦肉の策として出していた傭兵制度も、国力を高揚させるには程遠かった。衰退していく国の行く末を、その最後の足掻きを見る心算でこの場へ来た者どもも、意識を改める事だろう。
太陽と月の巫女は、その身を頂いた国を栄えさせ、発展させ、向上させる。その瞳は先を見据え、栄えある未来へ続く道を照らし出す。まこと、得がたき巫女姫なり、と。
ああ、それは、羨望にも似た、感情。愛しい、守りたい、愛でたい、それと同じくらいに、いや増す感情がある。
縛り付けたい、視線を独占したい、頭の中まで自分一色に塗り込めたい、縋って、泣いて、乞うて欲しい。私を、選んで欲しい。
私を、乞うて、欲しがって、泣いて、縋って、
ワタシダケノモノニ。
ああ、姫。貴女の笑顔が、まぶしい。
ああ、姫。貴女の柔らかい身体をこの手にしたい。
姫。
「リシャールさま?どうなさったんですか?」
姫が、心配そうに小首を傾げて私を覗き込んでいた。飾らない姫は、香水の類が嫌いなのだという。人口の物より、自然の香りを好んだ。・・・姫から、甘い香りが漂ってくる。芳しいそれに、心引かれ、腕を伸ばした。一筋、ほつれて落ちていた、姫の髪を掬い上げ、そっと口づけ、上目で見つめれば、面白いほどすぐに赤くなる。初な、姫。
「リ・リリシャールさま?」
「・・・姫の髪から、甘いいい香りがしたので、つい・・・。」
そう言って冗談にしてあげた。眼に見えてほっとした姫は、やはりまだ、わずかに男を拒んでいるようだ。
ああ、まったく腹だたしい。件の三人を姫にそうとわからぬよう睨みつける。貴様達のせいで、姫に触れる事が難しくなったではないか。
・・・だが、それもいいだろう。姫は警戒心が深くあったほうが良い。少なくともこうしてそばに寄ってきてくれるのだから、私は嫌われていないのだろう。
だから姫、少しづつ、あなたの殻を崩していこう。
優しい、儚げな風情で、あなたの関心を引こう。
そうして、私のふところ深く入ってきたら、その時こそ。
私の楔を打ちつけよう。
どこにも行かないように。どこにも行けないように。
快楽と言う鎖であなたを縛り付け、愛情であなたを盲目にし。
尽きぬ思いであなたを縛ろう。
だから、姫。その時まで、どうか、「わたし」に気づかないで。