83 去りし者
「長! ヨーヴァ様、ご無事、で…………?」
突如として、目の前を阻む光の霧が消えた。
可視化しうるほどの《現象》は、力のつよい精霊が魔法を行使した証。
魔術を嗜む者としては最低限の知識をあてはめ、最上階に上がれぬことを言い争っていた黒衣の魔術師らは、我先にと五階の元・ギルドマスターの部屋へと雪崩れ込んだ。
あちこち無残に崩れ落ちた石の壁。燦々と光が射す天井のない部屋は、ほぼ屋上と化している。奇跡的に無事だった家具や調度品の数々は、かえって非日常さに拍車をかけていた。
落雷ではなかった。
人智を越えた《何か》からの介入だったとしても――まるで、手加減されたかのような壊れっぷりだ。意図がわからない。
さらに不可解なのは。
「なぜ、いない……? どうやって逃げた。衝撃で壁から落ちたか」
「いや、そんな騒ぎは聞こえなかった。それよりも――ギルドマスター、お怪我は? よくぞ、ご無事……で……」
……――――違う。『ご無事』じゃない。
(誰だ、これは)
あまりの変容に、それ以上声を掛けられなかった。
いつも、高齢を思わせぬユニコーンの鬣のような銀の髪と髭は生彩を失い、無機質な白へと様変わりしている。
無情なほど艶のない、パサついた白髪。気のせいか、一回りも二回りも小さくなってしまった。
まるで、急に数十年もの歳月が流れてしまったように。
衣服に乱れはない。
きちんと着込んだ黒衣もそのまま。しかし、不自然に足元を眺めて立ち尽くしている。
(そう言えば)
――思い出した。
客人だけではない。常にマスターの側にいた不思議な秘書も姿を消している。
妙に記憶に残らない顔。つめたい声の女魔術師を、同僚らはフロア中あちこち探した。が、いない。
今や、ちっぽけな老人と化したヨーヴァの足元には、脱ぎ捨てたにしてはそのまま過ぎる形の黒衣が落ちている。
瓦礫のわりには、キラキラと光を弾くな――と、目をすがめて見ると、粉々に散った飴色の石がしずかに輝いていた。
……琥珀。
見当たらない秘書の、唯一特徴的だった色彩を連想し、あり得ぬことのはずなのに戦慄が背からうなじ、後頭部へと駆け抜ける。
痺れるような恐怖を誤魔化すため、屈んでそれらを検証しようとした職員はふと、ぽたりと視界を掠めた滴に(雨……?)と、上を仰ぎ見た。
晴天。
雲一つない。
二度目に起こった地響き。その轟音に紛れ、突風が空へと駆け上がったように一斉に駆逐された雲。雨など降るはずがない。
なのに。
――ぽたり。ぽた、ぱたり……
なお、琥珀の粒を散らした黒衣に点々と作られる染みから視線を軌道上にずらした男は、ぎょっとした。
「長ッ??」
「……ない。だめだ、あり得んすまん、どうか……どうか。だめだだめだだめだ、嫌だ……」
ぶつぶつと、泣きながら何かを否定し続ける、くすんだ老爺。
(本当に、これがあの賢人ヨーヴァ老か……? いくらなんでも変わり過ぎだ。まさか、正気を)
立ち上がった男は、不気味に思いつつも気遣わしげにヨーヴァの顔を覗き込む。
すると。
バタバタバタ……と、新たに階段を踏破し、現場に現れる数名の体格のよい若者らの姿があった。身に付けた皮鎧や帽子から、街の私設兵団の者と知れる。
かれらは厳しい面持ちでヨーヴァの元へと近づいた。黒衣の職員達は、気圧されたようにじり、と後ずさる。
兵の代表と思わしき一人が、ぐっと何かを飲み込むような仕草を見せたあと、眦を険しくした。
「……ご同行願います。新式魔術師ギルドの長、ヨーヴァ殿。あなたには嫌疑が掛けられている。先の塔崩壊及び、数々の巨大な魔法の発露について。あれは、あなたの常軌を逸する実験のせいではないかと、情報が寄せられました。さる筋から」
「!」
「そんなっ」
「いやでも。しかし――」
黙り込んだヨーヴァに代わり、口々に周囲の職員らが喚きたてる。
隊長と思わしき男は、それらを一瞥で黙らせると視線を戻し、む、と顔をしかめた。
「怪我をなさっていますね。手が……、とりあえず参りましょう。詰め所で手当ていたします」
(怪我? どこに)
先ほど黒衣を検分したときには気が付かなかった男性職員は、改めて長を注視した。
よくよく見ると、確かに握った手から血が滲んでいる。小指の付け根から手首の辺りまで、細く一筋に伝っている。
相当固く握りしめていたらしい。
一人の兵士が苦心してこじ開けると、中から透明な硝子がカシャン、と落ちた。
血の付着した硝子は、すでに割れている。
老人の腕をとって歩かせようとした兵は「瓶……? 自力で砕いたにしては鋭利過ぎる。真っ二つだな、縦に」と、独り言めいた所感をこぼした。
「わからんが、状況はよく覚えとけ。あとで調書に書く必要がある。――おい! 王都の騎士様にも、報告を」
「はい!」
「はっ」
足音荒く、来た時同様に今度は二名、連れだって先に降りていった。それを目視で確認した兵四名が、示し合わせたようにヨーヴァの前後左右を取り囲む。
のろのろと歩む足を、無理に急かしたりはしないよう。
そこだけは、敬意を払われていた。
ぽつん、と職員らは、にわか造りの屋上に取り残された。
うち一人が、崩れ落ちた壁越しに眼下の地面を見やり、次いで空を仰ぐ。くらり、と目眩がしたようで、慌てて姿勢を正していた。
この季節、珍しいほどの青さの向こう。吸い込まれそうな果てない高みまで視線を投げ掛けながら呟く。
「誰も、下には落ちてなかった……。ってぇことは……まさか、飛んで行った? 消えた? いや、そんな」
――……まさかね、と繰り返し、力なく首を横に振る。
可能性の羅列の一つ。
そこに、正解があることには気づかずに。




