80 風の通り道
追憶の底に眠る、砕かれた感触をスイは思い出した。
かたかたと震えそうになる体を、念入りな魔法で女性化したセディオが再び抱き締める。
「スイ」
「セディ……」
言葉に詰まる魔術師の唇に、小豆色の髪の美女が人差し指で触れる。
目線の高さはほぼ同じ。身長差がないのは不思議な気がした。「『セディア』でいい」と素早く囁かれ、こく、と頷く。
セディアは瞳に焦れた光を浮かべたまま、苦い思いで口の端を上げた。
「あんたを迎えに来ただけのはずが、なんでこうなっちまうかな。あの爺さん、やばいだろ?」
「うん。……辛いけど、かれとはどうしたって相入れない。……ミゲルの息子なのに。一応、小さいときから母親代わりだった」
「紫水晶の精霊の姿で?」
「精霊の姿で」
(えーと……それは……)
おそらく凄まじくうつくしかったろう。
今ですら、人目を奪う美人だ。
人ならぬ存在。母のように優しく側にいた存在は、やがて姉のように。妹のように。いずれ娘や孫ほども外見差がひらいてしまう。
この際、彼女よりも先に死ぬのは本望だったのかもしれない。――……彼女達の命。精霊核を粉にするなどという外法を、思い付きさえしなければ。
わずか三秒ばかりの想像だったが、セディアは大いに悟るものがあった。
「そりゃ、こじらせてんな」
「? 何を?」
「思慕。初恋、独占欲。憧憬に……あと、なんだ……情欲? 所有欲とも言えるかな。本体は指輪だったんだろ?」
さらり、と肩をすくめて凡そ人間らしい感情を並べ立てた美女は、明らかに違う色を滲ませてスイを眺めた。
女性体なのに。
スイは、思わず唇を引き結び、胸を押さえた。頬が熱い。
(――セディオが言うと、とてもまっとうで素直だと思えるのに)
「はいはーい! そこまでっ」
「お師匠様! どうにかしないと! あれ、良くないですよね? 黒真珠さんがっ……!」
ばたばたと駆け寄る弟子達に、美女二人はハッとした。
ヨーヴァは蓋を開けた小瓶を床に置き、膝をついている。横たえられた黒真珠の体を検分しているらしい。核――宝石の精霊の本体を探しているのだと、本能で察した。
忠実なアナエルは番犬よろしく、隙なく身構えている。時おり主の動向を視認するものの、体はこちらに向いており、誰かが黒真珠を助けに一歩踏み出そうものなら、必ず何らかの魔法を発動させると見てとれた。
蠢く、霧状の黒縄。
それが彼女の周囲にずっと漂っている。人間だった頃の思念の形なのかもしれない。
スイは、痛ましい気持ちで眉をひそめた。
でも。
今このとき、何より優先させるべきは黒真珠の奪還。この場にいる、誰も害させないこと。
「師匠……、ねぇ、スイってば!!」
痺れを切らしたらしいエメルダが、とうとう半泣きでしがみついてきた。
良くみると、ふわぁ……と、翠の髪が風を受けたように流れている。白い外套も。さっきまでの自分のように。
(――そうか、風!)
突如、あざやかに紫の光を煌めかせた黒瞳に、エメルダは驚いて動きを止めた。自分の両肩に手を置き、屈んで視線を合わせるスイの一挙手一投足を注視する。
まなざしは、真剣だった。
「……さっき、壁を崩してくれたね。同じことを天井にこっそり。できる? ほんのちょっぴりでいいんだ」
「できるわ」
即答。
言い終わるや否や、サラサラ……と、頭上から砂が落ちてきた。早い。異変を察知したアナエルが動く。
「!」
「何をするつもりかは知りませんが。無闇にあちこち、壊さないでいただけますか。翠の姫」
「った……痛たたっ!」
瞬時に近寄ったアナエルの手は、容赦なくエメルダの後ろ手を捻り上げた。「やめろ!」と、キリクが。苛立った表情のセディアが無言で割って入るも、びくともしない。
が。
痛みに盛大に顔を歪めつつ、エメルダは叫んだ。
「…………開いた! 届いたよ、外まで。やって、スイ!!」
「ありがとうエメルダ。待ってて、すぐに助ける」
「? 待ちなさい、何を……??」
疑問符を浮かべた敵方の女性を無視して、スイは深く集中した。
――空気の流れを感じる。先ほどまではなかった、外気の通り道。
細い。紅筆一本通るか通らないかだ。それでも、やる。
術の構成を練り上げたスイは、伏せていた顔を、きっ、と上げた。意思は面をつよく彩っている。
「あなたなら、充分なはずだ――……“行って、風の子。翠の子から分けてもらえた、その耀かしい息吹で駆けなさい。天高く。極みまで。行って、届けて。大至急、喚んできて!!”」




