50 あたたかな夜
斜陽の刻。
数多の宝石の精霊と、わずかな人の子らの住まう学術都市に、夕暮れの長い赤光があかあかと伸ばされた。
青かった空も緑の木々も、オレンジの屋根も白いベランダも。みな、一様に茜色を帯びてしずかに輝いている。
それは、街外れに建つスイの家も例外ではなかった。ふと、庭の中央で空気が揺らぐ。
「……来たかな」
ささやかな菜園の側。
設えられた木のベンチにちょこん、と腰掛けて微睡んでいた青年は、そっと目をひらいた。
彼自身の名前そのままの柔らかな黒の双眸が、じっと眼前の一点へと向けられる。
きん、と訪れた耳鳴りに、青年は反射で眉をひそめた。
一点。
冴えた光の粉が大きな球状を象り、上から順にほどけてゆく。蒼く散る紗幕のような光は、夕刻の茜色にも染まらぬ異質なもの。
その硬質な輝きがすっかり消え去さると――球体のあった場所に、慕わしい女性と三名の客人たちが現れた。
と、同時に耳鳴りも収まる。
彼は無意識に詰めていた息を逃がした。
“ありがとうね、門の子”
「わ! ここ、お家? あんな深い層からひとっ飛び!? すごいね師匠!」
「家を出たのは朝でしたが……もう夕方ですか。セディオさん、頑張りましたよね? 僕たち」
「そうだな。ちょっとした旅から帰った気分だ。何てぇか、濃かった」
たいそう賑やかだ。
ふ、と微笑んだ青年は、まずはただ一人に声を掛ける。
「おかえり、スイ」
「ただいま黒真珠。ありがとう、待っててくれた?」
「……」
にこり、と。
最初から青年がそこにいる、とわかっていたかのような口ぶりだった。
(ぜったい、人の子とは言えない力と感応力だと思うんだけど……認めないんだよなぁ、スイ)
困り眉の黒真珠は、やんわりと言い募る。
「そりゃ、昨日のきみからお願いされてたもの。相談事、あるんだろう?」
「えぇ。でもまぁ、とりあえず入って。すぐ夕食にするから、一緒に食べよう? 話はその時にするよ」
待たせたことは一切悪びれず、さらに誘うという荒業じみたおおらかさは、さすが元・長の紫水晶と言うべきか。
黒真珠は破顔した。
「わかった。じゃあ、ご相伴に預かるとして……きみたち?」
「?」
ベンチから立ち上がった黒真珠は、ゆっくりと歩む。
やがてスイ以外の三名の前で立ち止まると、ごく自然な仕草で礼をとった。まるで、ここが由緒ある王宮の一角であるように。
艶のある黒銀の髪が、さらりと揺れる。
「人の子の細工師と魔術師見習い、それに新たな翠の子――改めて、ようこそ学術都市へ。無事の帰還ならびに三体の力の司の加護、おめでとう」
「! お、おう……」
「はい、ありがとうございます」
「うん! 仲良くしてね、黒真珠さん。これからは遠慮なくエメルダって呼んで!」
面食らったような青年と、一瞬の驚きのあと、くすぐったそうに笑みこぼして挨拶を返す少年と少女。
家主である魔術師は、その様をにこにこと見守り――
「ふふっ。さ、皆。入って入って」
機嫌よく、一行を家の中へと招いた。
* * *
「で? 相談って?」
急きょ拵えられた香草と腸詰め肉のパスタスープにスプーンを入れつつ、黒真珠は訊ねた。なんとなく予想はつくけれど。
案の定、スイは申し訳なさそうに眉を下げた。
「あのね。人界まで買い物に行きたいんだ。いろいろと嵩張りそうだから一緒に来てほしい。それと、当面は」
ちらりと黒紫の視線がセディオに流される。
「寝台の数が足りなくて」
「あぁ」
迂闊にも『なるほど』と、続きそうになった言葉を、黒真珠はスプーンで掬ったスープと一緒に喉の奥へと流し込んだ。
人の子の食事は摂る必要はないが、料理した者の心や使われた食材の命そのものが味わい深い。
スイの手料理は、黒真珠の好むところだった。
なお、小豆色の髪の青年は何度か反論を試みていたが、魔術師の女性によって悉く遮られた。
「実際、良くないと思う。いつもエメルダの寝台にお邪魔するのは申し訳ないし」
「大歓迎よ? スイ、ふわっとしてるし、いい匂いだし」
「エメルダ、『師匠』だよ。……って、きみ昨夜はお師匠さまと寝たの?」
蕪の甘煮を口にした少女は、それをコク、と嚥下して満足そうに頷いた。
「すごく、よく眠れたわ」
「そう……」
キリクは学術都市に来る前、自分も似た目に遭っていたことを思い出した。つい、赤面する。
「なんでお前が赤くなるんだよ」
セディオはしかめ面だ。
スイは、くすくすと笑っている。
――――なるほど。
四名の間に、親密に張り巡らされた力関係に気づいた黒真珠は、ほんの少し意地悪そうに口の端をあげた。
「スイ、うちにおいでよ。僕の寝台大きいから」
「却下だろ。何いってんだこいつ」
「セディオ、『こいつ』じゃない。黒真珠だよ。……って、ごめんね。お誘いは有り難いんだけど」
どうどう、と右隣に座る青年の肩を片手で押さえつつ、スイは小首を傾げてさらっと告げた。
「たぶん。今後、私がすすんで添い寝をするとしたら、相手はここにいる細工師どのだと思うんだ」
「!!」
「うわぁ。師匠。それ、宣言しちゃうの?!」
「そうじゃないかなと思った。頑張ったねえ、スイ。あの力の司たち、全員説き伏せたの?」
予想通りの反応だったのか、黒真珠はまったく動じない。なかなかの強者ぶりだ。
スイは濃密だった一日を振り返るように、何度も頷いた。
「それはもう……。今回に限って言えば、石探しはおまけのようなものだ。サラマンディアなんか、祝福がてらセディオに口づけしちゃうし」
「えっ」
絵面を想像してか、黒真珠は固まった。
一転、慌てた形相の青年がスイの手をパシッと掴む。
「待てスイ。どうしてそう、あんたは誤解を招くような言い種を」
「ふふ、すまない。これが、いわゆる人の子の『焼きもち』って奴なのかなと。厄介だよねこれ。でも、悪くない。嫌いじゃないよ、こういう面倒な気持ち」
「めんどう……っ!??」
「フ……フフフっ!」
呆気にとられる細工師と、二人の様が可笑しくてならないと身を二つに折って笑う、黒真珠の精霊。一同の視線は自然と後者に集まった。
「なるほど。たしかに――今のきみは人の子らしいや。それに、とっても幸せそうだ。きみが、その姿になって……初めて『良かった』と思える。他の皆にとっても救いだろうね。せめてもの」
黒真珠はセディオに身体を向け、すっと姿勢を正した。
「ありがとう人の子の若き細工師。僕も、きみをセディオと呼んでいい?」
「あぁ、もちろん……」
しばらく、きょとんとしていた青年は、ふと何かに気づいたかのように唇の片側を上げた。
それは、ひどく不敵に映るが不思議と嫌味がない。好青年じみたものより、ずっと彼らしい笑みだった。
「いいですよ。黒真珠さん。『さん』でいいでしょう? どうせ、あなたも中身は俺よりずっと年上でしょうから」
「おや」
ぱち、と涼しげな瞳を瞬いた黒真珠の外見は、せいぜい二十代前半。だが、たしかに、自分がいつ生を受けたのかは記憶にない。
精霊の青年は困ったように苦笑した。
「まぁ……そうかもね。でも、普通に『黒真珠』でいいよ。きみ、妙に迫力あるから。敬語とか尊称を使われると落ち着かない」
「わかります。やたらと柄が悪いんですよね。素材の持ち腐れっていうか」
「黙れ、くそガキ」
「はいはい」
しれっと間に入るキリクは既に食べ終えたようで、食後の紅茶の準備に取り掛かっている。
スイは微笑を湛えたまま「手伝うよ」と席を立ち、自らの食器を洗い場に運び始めた。
談笑、からかい、軽口の応酬――
夜が更けて月が昇り、どこからか梟の声が響くなか。魔術師の家の灯りは小さくとも温かく、ほのぼのと異界の街の片隅を彩った。




