19 駆ける子ども、対峙する大人
ドォォーーーーー…… と。
落水の音。存在感はあるが、耳障りではない。
どこか近くでさほど大きくはない、小瀑布のような音がする。同時に気づく、濃い水の匂い。霧をともなう清かな流れの気配。
浮遊感は一瞬だけ。
おそるおそる、瞼をあげると―――真っ先に視界に映ったのは一面の、淡く光を身の内に閉じ込めたように浮かび上がる、林立する小さな水晶の群れだった。
蒼い薄闇に辺りは沈んでいる。
……が、夜とは思えない。時間帯は朝のはずだ。
黄色。それに白、淡い紅色。ざっと見たところシトリン、クォーツ、ローズクォーツかと思ったが、宝石がみずから発光するなど聞いたことがない。――聖霊付きでもない限りは。
足元は柔らかな草と土。視線をずらすと、輪になった自分達のすぐ脇を一筋の浅い流れがあった。
澄みとおった清水だ。
それは緩やかにうねりながら、玉のように白っぽい石を敷き詰めた川底を際立たせつつ、うつくしい渓流を成していた。
「ここは……?」
セディオが呟く。次いでスイの弟子達が「わ……!」「きれい…っ!」と、それぞれの歓声を上げてゆく。目を固く閉じていたのは、どうやら自分だけではないらしい。
詰めていた息をそうっと吐き出し、青年は口許を綻ばせた。
「学術都市の入り口の一つ。輝水晶の谷だね」
不思議と瀑布の音からは切り離されたように、スイの声は耳に届く。失われた言語ではない、普通の大陸公用語のはずだが……
セディオは両手に繋いでいた小さな手を放し、正面の魔術師を見つめた。
「まだ、学術都市には入ってない?」
「まだだね。門を司る子らは気紛れだから、すぐにこういう意地悪をする……今夜は野宿かな。ゆっくり川沿いに歩いて――あっち」
す、と彼女の指が示す先には黒々とした森が広がっている。三名ともに、その指先を正確に視線で追った。
「あの森を抜けた先が、学術都市。…どう? 転移酔いとかがなければ、このまま歩こうと思うけど」
一同は、それぞれの表情でこくん、と同時に頷いた。
* * *
「それにしても……スイ、ここは……どこだ?」
大人二人はのんびりと川沿いを歩く。弟子達は我先にと駆けていってしまった。特に危険もないし、いいか――と楽観していたスイは、不意に隣の青年から神妙に話し掛けられた。
「都市の、入り口の一つだけど……?」
「そうじゃなくて。ここは本当にケネフェルと地続きの、地上か? おかしいだろ、あれ」
青年が『あれ』と顎で示すものを見て、スイは微笑んだ。薄く形のよい唇からは流暢な言語が溢れる。
“こんにちは、水の乙女”
“こんにちは、私たちの魔術師。……ね、かれ、とってもいい男ね。ちょうだい? 簡単よ。川に落としてくれるだけでいいの”
“だめよ”
“けち。……じゃあ、あそこの素敵な男の子は?”
“だめ。側に翠の子がついてるでしょ?”
“本当に、けち……もう。いいわ、行って!”
言うだけ言うと、ぽちゃん! と派手に飛沫を散らし、乙女は川に溶け込んだ。
「……」
青年は乙女が消えた辺りを凝視している。歩みは、とうに止まったままだ。
「? どうしたの、セディオ。顔色わるいけど」
「いや、なんか……身の危険を感じた。あんたら笑顔でやり取りしてたけどさ、あれ…まさか伝説の水の乙女?」
「そう。よく知ってるね?」
「……あぁ…」
太古から、気に入った男を水に引きずり込んで愛おしむ癖があると有名な精霊の乙女だ。
どうやら目をつけられたらしいと察したセディオの顔色は、いっそう青くなった。
スイは、ふふふっ……!と笑う。
「大丈夫。『だめよ』って言っておいた。うっかり足を浸けたりしなきゃ―――…」
「それ、全力で大丈夫じゃねえやつだろ!!」
「あははははっ!」
「あはは、じゃねぇよ! 聞けよ、人の話……な、本当に頼む。教えて。ここ……どこ?」
笑いすぎて目じりに浮かんだ涙を、なおも苦しそうに拭いながら――黒髪の魔術師は事も無げに。しかも笑みを含む声で告げた。
「古い、力ある精霊が人の世を作り上げたあと、退いて……それでも気に掛けた人の子が訪れてもいいよう、構築した空間だよ。
一応、招かれなければ地上のどこからも入れやしない。《約定》という鍵や守りを為す門の精霊はいるけど、何事も想定外はあるからね……だから、念のためそこそこ物騒なんだ。人の世とは違う意味で」
「まじか……」
呆然と立ち尽くす青年の小豆色の前髪が、灰褐色のフードから覗いている。スイは手を伸ばし、よしよしと額のあたりを撫でた。
「!」
青い目がたちまち据わった。「スイ……お前、襲われたいの?」と、低い声が漏れる。
魔術師は、小首を傾げてくすくすと笑うばかり。
「お師匠さまーーーっ! はやくー!! 置いて行きますよーーっ?!」
対峙する大人達を引き戻すように、緩やかな風に乗って少年と少女の愛らしい声が、はるか川下から届いた。




