120万年後の世界より
「そうじゃ。お主らにはあり得ん話じゃが、この時空震のおかげで……いやカロンのおかげでワシらが存在する」
「カロンを知ってるの!?」
「あぁ。知っとるよ。お主らよりも、もっと詳しいはずじゃ」
やはりこの時空震にカロンが関与していたのだ。これではっきりした。わたしの読みは間違っていない。
「カロンは人類にとって毒にも薬にもなるんじゃ」
「どういう意味だよ!」
イウは噛みつかんばかりだ。
「ふぉふぉふぉ。時間規則じゃ。教えられん……。じゃろ? イウ?」
「お、オレのことまで知ってるのか!」
「あたりまえじゃ。お主らの先祖が歴史を作り出したのは、たかだか3~4千年じゃ。そんな浅い歴史で偉そぶるな。こっちは1万5千年も続いておる」
「確かに西暦3000年代で、地球は温暖化が極限にまで進み、ほとんどの人類は亜空間に避難して人としての営みは休止状態になっていますが、わたしたちリーパーがかならず元に戻すはずです。だから……そちらの分極した未来が同じ道を歩んだとしても……」
悔し紛れに綴る途中で、はっと気付いた。
「ま、まさか。そっちでは人類は滅亡して……。あ、あなたたちは……」
途切れたセリフの先を汲み取ったイウが、その後を継いでいく。
「じゃ……じゃあ。オマエら人間じゃねえのか……だからヒューマノイドの研究を……」
老人の片眉がわずかにつり上がった。
「せっかく最後の人類が来客されたんじゃ。お見せするかのぉ。時間規則に反しない程度にな」
老人は含み笑いを浮かべて、巻いていたマフラーをゆっくりと解きだした。
「あうぅっ!」
露わになった姿を見て息を飲んだ。妙なマフラーだとは思っていたけれど、その下から現れたのは目を背けたくなりそうなグロテスクな容姿。
条件反射的に退き、わたしは後ろのソファへと尻餅を突いた。
「人間じゃない……」
それは『首』と呼ぶものではなかった。顎から肩へかけて扇形に広がる鈍色の皮膚に包まれた体組織。人類には無い臓器が収まりゆっくりと蠕動しており、二対になった数本のヒダが呼吸に合わせて開いたり閉じたりを繰り返していた。
見るからに人類とはかけ離れた存在。
呼吸器が全く異なる。そして白っぽい肌と感じたのは白塗りのメイクだと思われる。おそらくそのグロい灰色が本当の肌の色なのだ。
この臓器を見て誰の目にも当てはまるものが一つある。
「そ……それは『鰓』です……か?」
わたしの震える問いに、老人は平然と答えた。
「まぁそう呼ぶのもよかろう。正確には大気から直接呼吸できるように進化した外呼吸器官じゃ。もちろん水中呼吸もできる。すごかろう。陸上から水中まで。広いぞぉ地球は……」
わたしは意味深な言葉を受けて愕然とした。言葉が出ない。だがおぞましい姿を睨みながらイウは喚いた。
「そうか分かったぞ! CO2にまみれた地球は何万年か経って酸素濃度が大気より海中のほうが上がったんだ」
「どうして、そんなことが解るの?」
イウの洞察力はわたしの想像を遥かに超えていたのか、わたしの問いに答えた。
「海中の酸素濃度が上がるとしたらカロンだ。それに長い時間を掛けて順応してエラでも陸に上がれた……だろ?」
イウの問いかけみたいな質問を聞いて、幽霊男の外呼吸器官が激しく蠕動した。おそらく深く大きく息を吸ったのだと思われる。
不気味な深呼吸に続いて、男はゆっくりと足を組み直して誇らしげに語り出した。
「30億年前、地球には酸素がほとんどなかった。それを作ったのは石クラゲの仲間が光合成で作ったと言われている。水棲生物だった中の一つが先に陸に上がり酸素を拵えてしまったおかげで陸上動物が先に進化を経た。だが人類の暴走が原因でCO2に埋まって衰退。その間に我々はじっと進化の工程を温めていた。そしてカロンの爆発的な酸素生成現象が海中で起きた。深海鮫が陸に上がるまで50万年掛かり……その後、我らは70万年間も進化し続けた」
「お……オマエら鮫の成れの果てなのか?」
「おい。失敬な言い方をするな! 我々は滅亡した人類の後を継ぐ者じゃぞ」
老人が苛立たしげに口を挟んだ。
「じ……人類は滅亡するのですか?」
怖い話だった。わたしは聞いていて体がぶるぶる震えてきた。
「人類が亜空間に逃げ込んだのはよいアイデアじゃ。あそこなら冬眠カプセルより完璧に保存される。時間がほとんど流れないから空間としての認識もたいしていらん……しかし残念ながら手遅れじゃ。CO2に沈めてしまった地球はもう人類の味方ではなかった。高温になった大気のおかげで植物の大半は枯れ、大地は原始の状態に戻った。一から出直しじゃ。しかも酸素生成の要が途絶えた陸はすでに二酸化炭素の沼じゃった……と、これはお主らの時間域での話じゃがな……」
思考が停止した。最も恐れていた結果を見てきたことのように告げられたのだ。
「ふははは……」
老人は抑揚の無い淡々とした口調で説明した後、含み笑いを浮かべて言葉を区切り、イウは喉の奥から声を震わせてうめいた。
「オマエらは……違う道を歩んだのか?」
「うむ。海中の酸素レベルに気付いたのは褒めてやろう。さすが『日高』の血筋じゃ」
「ば、バカ野郎! オレは無関係だ。日高っちゅうのは、こっちのチッコイねえちゃんだ」
何をそんなに慌てる必要があるの?
元来『日高』の家系にはパスファインダーが多く誕生している。超視力を持ったバイアイは遺伝によるものなのだ。
「バカにすんじゃねえ」
まだ怒るところを見ると過去に何があったのかは知らないが、よほど日高の血筋を目の敵にしているようだ。
老人はイウの慌てぶりにこだわる様子も無く、ふたたび淡々と説明を再開した。
「酸素というのは、高い酸化力で毒性の強いものなんじゃ。知っとるじゃろうが、これがカロンによって大量に放出されてみろ、人類は簡単に滅亡する。だが海中を通して間接的に発生させると……っ!」
隣の部屋から近づく足音に気付いた老人が、素早く口を閉じて人工的な笑顔を作った。
「見ってぇぇぇぇ!」
扉が勢いよく開き、片手で褐色の水を溜めたビニール袋を高々と持ち上げた良子さんが部屋に戻って来た。
「ホウライエソよ。一匹貰っちゃった。強めのビニール袋持ってきてよかったぁ」
「用意のいいことで……」
わたしは頭痛を堪えるふうにして眉間を摘まみ、老人がさっと外呼吸器官をマフラーで隠して笑顔に切り替えた。
「活きのいいのを選びましたかな?」
温厚そうな声――。さっきまでの平たく乾いた口調が嘘のようだった。
「元気元気。ぴちぴち跳ねてたわよ」
白塗りの女性は、はしゃぐ良子さんから老人に向き合うと、静かな視線でうなずいた。
酸素の量が云々の先を聞きたかったのに、この人は……ほんとにもう。
地団太を踏みたい心境を堪えつつ、思わず良子さんを睨んだ。
「えっ? どうしたの日高さん……な、何よぉ」
何か言いたげに目を丸め、わたしに向けて赤い唇を尖らせた。
「そんなものもらってどうすんですか?」
「えー? 飼うに決まってんじゃん」
「水は?」
「これからしばらく海が続くのよ。問題ないわ」
わたしは脱力して長い溜め息を吐いた。
やれやれ……。
この連中は良子さんの前では絶対に正体を明かさないはずだ。人類の未来はまもなく終わりを告げ、鮫人間に代わるなんてことが彼女に知れたら、悲観してそんな世界(未来)を否定するからだ。
しかし、わたしには確認しなければいけないことがある。
(ガウロパ……良子さんの相手をなさい。わたしはこの老人と対でどうしても訊かなければならないことがあります)
(了解……)
コミュニケーターでの会話はこんなときにとても便利だ。
「柏木どの。拙者にもよく見せてくれぬか、その何とかと言う魚を……」
「何とかじゃねえ。ホウライエソだ。ちゃんと覚えろよ、ガウロパ」
イウもコミュニケーターに同調していたようで、冷静に事態を理解しており、わたしの作戦を察して動いた。
「――で、先生。それって食えるのか?」
イウは朗らかな笑みを浮かべて、良子さんに近寄った。
「ばぁか。食べないわよ。ミグと一緒に飼うんだかんね」
夜店で買った金魚でも眺める少女みたいに、ビニール袋に収まった魚を掲げる良子さん。それへとイウは尋ねる。
「餌はどうすんだよ?」
「そうね。なんだろね?」
首をひねる良子さんに気付かれないようガウロパへ指で合図を出すイウ。彼女の視線を遮る位置にスキンヘッドの巨体を誘導している。
「パン屑ではダメでござるか?」
ガウロパの大きな背中がうまい具合に壁になった。わたしは急いで老人の耳元で囁く。向こうもそのツモリだったのだろう。自然と耳を近づけてきた。ただし今となっては耳かどうかは怪しいものだが。
「修一さんの精神内で繰り広げる未来の映像を今すぐに止めなさい」
「ふぉぉ。お主ら精神分析でもして気付いたのか?」
「分析ではありません。融合です。今朝、はっきりしました。彼を別の時間流の中に送り込んでいますでしょ」
「いかにも。それに気付くとは、なかなか最後の人類は進んでおるのぉ」
「最後、最後と言わないでください。我々リーパーがかならず人類を救います」
「どうだかな。救えたのなら、なぜワシらが生まれたんじゃ」
「それはそちらの時間域の話です。何の根拠も無いコトを信じるようならパスファインダーは務まりません。それより、我々の世界では精神操作は禁止された技術です。すぐその装置を止めなさい」
「それはだめじゃ。あの青年には分岐した未来に好印象を与えんといかん。そうせんとワシらの存在が怪しくなる」
「卑怯です。それでは洗脳ではありませんか!」
「卑怯なことあるか!」
少し大きな声を上げてしまったことに自制、ちらりと良子さんの方へ視線を向けた。しかしこちらの密談にはまったく気付いていない様子に安堵すると老人は続ける。
「ワシらにとっては存在意義を焼き付けなければ消滅するんじゃ。こっちも必死になるワ!」
「なにを言うの! 二度いいません。いますぐ装置を止めなさい」
興奮して立ち上がったわたしを老人がちらりと睨め上げた。
「そんなこと知らぬわ」
ぷいと横を向いてしまった。
お互い黙り込み、交渉決裂という雰囲気の中へ踵を返す良子さん。
「この人が言うには餌は何でもいいんだって……」
「人間の余り物で育つ」
女性と一緒に良子さんもわたしの隣へ腰掛けた。こちらの不穏な空気にまったく気付く様子が無い。ほんとうに能天気な人なんだ。
存在感の薄い幽霊男も動き出した。白い顔をゆらゆらさせて良子さんへポツリとつぶやく。身振り手振りで外を指さし、
「乗り物を見たが、りっぱなものだな……」
男性の毛髪もとても細くて縮れており、ひどく不健康そうだった。
対照的に良子さんが、艶々の黒髪をなびかせて答える。
「あ、はい。教授の、あっ。川村教授、ご存知ですよね。あの方の持ち物なんです」
幽霊男は瞬間固まったが、すぐに肯定する。
「川村……あぁ……よく知ってる」
白々しい。ヤツらが知るわけが無い。
わたしの苛立ちは募るばかりだ。
ここで良子さんにすべてを打ち明けたい衝動に駆られるが、それはできない。そうなるとわたしが時間の流れを操作したことになる。これはリーパーとして禁止された行為なのだ。万が一これを破ると必ず未来は崩壊する。もっと歪んだ結果がやって来る。
「それはそうと……」
老人たちは現時の状況は把握できていないようで、川村教授の話題をさっさと切り上げようとしてきた。
「道中お疲れでしょう。福岡から大分回りで来られたのかな?」
「いいえ、熊本から阿蘇経由です」
「ほぅほぅ。阿蘇山じゃったな。さぞかし雄大じゃろうな」
まるで観光パンフレットを見て言うみたいな陳腐で適当な空気が漂っていた。
実際、120万年後に阿蘇山なんてあるのかしら?
「お茶……」
いつ淹れに行っていたのだろう。まったく気配が消えていた女性が持つお盆には、お茶の入った容器が人数並べられており、なんと熱そうな湯気がユラユラしていた。
熱いお茶なんて……よけいに怪しまれるのに。
1990年代に滞在していた頃は、熱いお茶や温かいスープなどもよく嗜んだものだったが、この時代は気温が高い。そのためどうしても温度の高い飲み物を敬遠してきた。麻衣さんたちが湯気の立つ飲み物を口に入れるところはいまだに見たことが無い。朝のコーヒーもほとんどがアイスだ。たまに温いモノを飲むことはあるが、こんなに熱いお茶を出すなんてことはこの時代では少し異様だった。
良子さんを誘導するつもりは無いが、少しでも攻撃してみることに。
「この熱帯の時代に熱いお茶ですか? 皆さんはこんなのを飲まれるんですの?」
ところが良子さんは、わたしをきつい目で見た。
「せっかく淹れて頂いたのに、そんなこと言うもんじゃないわ」
に……鈍いなぁこの人。
彼女はふうふう息を吹きかけて、あきらかに無理をして湯飲みに唇を当てるものの、慣れない熱いお茶はいっこうに啜れない。
「あちぃぃ」
小声で漏らすその姿に思わず微笑んでしまった。老人もそれを見て薄く笑った。それは良子さんが心を許した優しい仕草を見せたことに気を良くしたのだろう。今なら連中は油断している。何かいい作戦は無いか?
良子さんに誘導や口添え無しで、この人たちの正体を暴かせたら成功だ。それが無理なら、悪い印象だけでもいいから与えればよい。そうすればそっちの分極した未来は自然に消滅する。それを餌にして修一さんを洗脳し続ける装置を止めさせればよい。
ここであのマフラーをむしり取ったらどうだろ?
(やめておけ、それだってこちらが手を出したことになる)
忽然と釘を刺してきたのは、イウからの思考波。
(そ……そんなこと言われなくたって解ってます! ただ苛立っているだけです。あなたに妙案はないの?)
(ねーな)
な、なによ……この男。
(それより。あなたと日高家で何があったのです?)
(バカヤロ! くだらんことに頭を使わず、この危機をどう乗り越えるかを考えろ! こんバカ!)
な、なによ。エラそうに。あ――余計にイライラしてきたわ。
(あなたなんか、大っ嫌い!)
(へっ! 何とでも言え)




