アフタヌーン・ラプソディー
「じゃぁ。日高さん出かけますか」
耐熱スーツのファスナーをきゅっと絞って、背中に垂れる長い黒髪をひとまとめに結った良子さんは、ヘッドクーラーをぽいと頭に被せた。
「オレは留守番でよかったのに……」
愚痴を漏らすイウに、
「あなたを残すと何をするか知れません。だいたい犯罪者が自由になれるわけないでしょ。それとこれは命令です。外に出たらコミュニケーターをスタンバイさせなさい。使用するしないは任せますが、今回は命令に従うのです」
いつまでも愚痴を垂れるイウを引き連れて、ハッチが開くのを待っていると、炊飯器の中釜を胸に抱いて双子が乗降口まで下りてきた。
「何かあったら連絡してや」
二人はまだ一緒に行きたそうだったが、わたしは事務的にことを進ませる。
「それならこれを……」
自分のポケットから簡易型のコミュニケーターを出して、麻衣さんの手のひらに載せた。それは彼女の柔らかそうな手の中でコロコロと転がった。
戸惑いの混ざる顔で麻衣さんが尋ねる。
「何んなん、これ?」
「コミュニケーターです」
「えっ!」
彼女は露骨に顔を曇らせた。汚いものでも持つように指の先で摘まむと、ぽいとわたしに突っ返してきた。
「ややもん。ウチ、頭の中覗かれるん、いやや」
柔らかそうな栗色の髪の毛を激しく振って、その拒否の仕方は子供と大差ない。
イウも笑った目で説明する。
「それは脳波から意識を伝えるもんじゃない。ただの音声トランシーバーだ! 誰がオマエらと意識を同調させるかよ!」
イウは高慢的に、かつ面倒くさそうに、そしてぞんざいな仕草で丸いコミュニケータの取り付け摘まみを開くと、彼女のふわふわした髪の毛に挟んだ。
「そんなとこに……」
身体のどこに付けてもいいのだが、何も髪の毛に付けることはないと思う。本当にこの男いい加減な奴。
しかし麻衣さんは髪飾りか何かと思ったのか、ニコニコすると大人しく従っていた。
「どうやって喋るん?」
「携帯電話と同じです。ハンズフリーになっています」
麻衣さんは緩い微笑みとともに静かにうなずいた。どうやら納得したようだ。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
なんだかむしょうに腹が減ってきた。
1時限終了時に、麻衣から貰った弁当を食べたのに、まだ俺の腹は空腹のままだった。
あんなチッコイ弁当では足りないなんて、まるでブラックホール並みの腹だ。
昼食まであと2時間以上もある。購買部でパンでも買って来るかな。
俺の意識は空腹感に耐え切れず、視線は黒板から外れて購買部までの近道ばかりを探っていた。
2時限目は化学の授業だ。わけの解らない呪文みたいな文字が並ぶ黒板には興味がわかない。でもそれを見て思い出した。そういやぁ。カロンの化学記号もこんな感じだった。とか考えを巡らせるあいだに授業終了の合図が、と同時に黒板に表示されていたものが瞬時に消えた。
昔の名残で黒板と呼ぶが、これは大きなディスプレイなので教師が隅っこにある消去ボタンを押せば綺麗さっぱり消える。代りに机の上に置かれたA3サイズほどのパッドには今の内容が表示されたままなので、それを自分のノートタブレットに転送保存すれば事足りる。
俺は素早く立ち上がると画面の保存などせずに電源を落とした。だってここは俺の世界じゃないから関係ない。それよりも購買部が先だ。
2時限目以降は休み時間が5分しかない。取り急ぎ俺はジャムパンを購入。すぐに頬張って首をかしげた。妙に味が薄いジャムなのだ。触感は問題なくいつものジャムパンと何も変わらなかったが、ただ一つ、味がおかしい。
首を捻りつつ教室へ戻ったところで、ジャスト、日本史の授業が始まった。
タブレットで口の動きを隠してパンを飲み下す。喉を通る満足感はいつもと同じで違和感はないのだが。何かおかしい。
タイムリーなことに、黒板にパラパラと平安時代のことを示す文字が並んでいく。案の定、紫式部のことが出た途端、俺はサリアさんを思い出し噴き出してしまった。その声が教室に滲みた。笑うところではない部分で漏らした声はかなり目だったようで、一斉に気味悪そうな目で見られたが、理由を説明することはできない。時間規則に反するからな。
――しかし腹が減ったな。
えっ?
何だ俺の腹? いくら食っても少しも満たされることがないのはどういうわけだ?
冗談で思っていた腹がブラックホール化した論が再び浮上してきた。いくら朝からお茶一杯だけだと言っても、麻衣に貰った朝食やジャムパンを食べたんだ。この空腹感はおかしすぎる。まるで解放されたプールの排水溝みたいだ。いくら食っても満足感が無く、繰り返し激しい空腹感が襲ってくる。
辺りを見渡すが、クラスメイトは何も変わらず黙って授業を受けていた。
どう見てもジタバタ騒いでいるのは俺だけのようだ。
この空腹感はなんだろう。
ふと思う。この世界は分岐した先にある別の未来だと言うが、こんな空腹感は必要ないはずだ。それとも何かのメッセージか?
4時限目になると腹が減りすぎて集中できない。食欲を満たすことができない世界なんて一刻も早く離れたい。
大袈裟に聞こえるかもしれないが、この空腹感は今まで感じたことのないほどの異常な感覚だった。
イウが言っていたリーパーたちの飢餓的空腹感って――、
「これか!」
と叫んでしまって後悔した。
「どうしました、山河くん。何か質問でも?」
思ったとおり、黒縁の四角いめがねをくいっと持ち上げて数学の教師が俺を睨んだ。
「す、すみません。何でもないです」
先生へ向けて絞り出した俺の小さな謝意に村上が反応した。
「どうせ腹の虫でも鳴いたんだぜ」
っの野郎……図星じゃないか。
「あと5分ですよ、山河くん」
「しーません」
教師の呆けた視線と教室中に響く笑い声に埋もれ、もう一度頭を下げてしゅんとする。
ところでこの授業が終わると、俺は麻衣と『いつものところ』とやらで、待ち合わせているんだが、それはどこだ?
元の世界では、ガーデンハンターのスタッフと言う立場を隠すため、俺は校内で麻衣たちと親しく会うことは無い。あったとしても業務連絡だけだ。
だから。『いつものところ』に関するヒントは何も無い。
やがて俺の考えは、麻衣がそこへ向かう前にこっちからクラスへ顔を出せばいいんだという結論に達した。
授業終了の合図と同時に、教師の怒鳴り声と白けた生徒の視線を無視して、俺は教室の後ろから飛び出した。麻衣より先にあいつのクラスにたどり着かないと、昼飯を食い損ねるのだ。
異様な行動を取る本人には、それが異様だと気付かないものなんだ、と後日このことを思い出してしきりに反省した。
2年生のフロアーへ行くと、麻衣のクラスの扉がまだ閉まっていた。
たまに授業終了が遅れることがある。たぶんそんなところだ。
数分後。前の扉から授業が終わって教師が出てきた。外で突っ立った俺を怪訝に睨みながら三角形のメガネをキラリとさせた。
ひとまず頭を下げる。
ヒステリックそうな現代国語の女教師の通過を確認すると、俺は半開きになっていた扉をガラガラと開けた。
「麻衣っ!」
そこからほとんど叫び声に近い声で呼ぶ。
前の方にいた女子が、
「麻衣ぃぃ。ダンナさんが来たでぇ」
と後ろへ向かって知らせた。
どうも俺たちの仲はどっちのクラスでも公認のようで、誰も驚く様子が無い。至極あたり前の態度で俺を見てくる。
その態度に異様さを感じるのは、やっぱり俺だけだ。
教室の隅から麻衣が笑顔で現れた。紙袋とピンクのナプキンクロスで包まれた俺の昼飯を持参する手に、視線が釘付けになりそうなのを必死で堪えた。
それにしたって、異常なほど食事に執着するこの気分は何だろう。とにかく腹が減って死にそうだ。こんなひもじい未来に何の意味があるんだろ。この暗示は何なんだ。
「どないしたん? いつもんとこで待っててくれたらええのに」
ちょっと意外そうな表情。
「いや、腹へって……じゃなくて、すぐに会いたくてな」
「なんや修一がゆう(言う)たら、さぶイボが立つやんかぁ」
イボでもタコでも立たせてくれ。それより何か食わせてくれ。麻衣。
とりあえず俺は麻衣と並んで歩くことにした。いつもの場所とやらへ誘導してくれ。
どこへ向かうつもりなのかさっぱり見当もつかないが、あまり後ろを付くのも不自然なので、ちょっと胸を張って先頭を切ったり、危なっかしそうになったら、靴の紐を気にする仕草を見せて麻衣を先に行かせたり……。
「靴紐、緩んでるの?」
と尋ねられ、また慌てたりして、結局行き先は屋上の築山だった。茂みが切れた一角にあるベンチに麻衣が腰掛けると、椅子の上をテーブル代わりに昼食を広げた。
「はい、お待ちどうさん。お昼にしましょ」
両手を少し広げて、どうぞ、と促す仕草がとても可愛かった。こんな面を俺の世界のあいつも持っているのだろうか。それともこの世界の麻衣独自のものなのか。俺は赤面した顔を隠し、弁当箱をいそいそと開けた。
玉子焼きにサラダ、白身魚のフライ、そして定番の唐揚げ――見ると鶏肉がブロイラー製だった。
人工的に飼育された鳥肉は本来の旨味がまったく無いと、常に麻衣や麻由は訴えており、実際その肉を口に入れているのを見たことが無い。
「お前得意のバードオブプレイじゃないんだな?」
麻衣は俺の疑問に再び困ったような顔をした。
「あんな凶暴な鳥のお肉、どこに売ってるの?」
目を丸くして首をひねる。それから強烈なひと言。
「肉食動物のお肉を食べるって、修一って野蛮なこと言うねんな」
俺は二の句が継げられなくなり、黙りこんだ。
お前はその巣からでっかい卵をくすねて喜んでいる野性味あふれる女なんだ。
俺は即座に悟った。この未来にガーデンハンターは存在しないと。
――まぁいい。とりあえず腹ごしらえだ。まずは玉子焼きから。
「ん?」
ひと口頬張って固まる俺を見て、麻衣が首をひねった。
「どないしたん? 塩ょっぱかった?」
「ううん……」
口の中に噛み入れた玉子焼きの食感に関しては問題ない。麻衣たちの作る料理は好みにぴったりで、一度も不味いと思ったことはない。それとは異なる違和感だ。玉子焼きの味がしない。全然違った味がする。
「美味いよ、麻衣。でも面白いなこの味」
「えぇ?」
麻衣は戸惑ったが、確かに面白い味だ。不味くはない。だが美味くもない。ただ暖かく優しい味だ。玉子焼きの風味も、またほどよく焼けた香ばしさもなかった。
もう一つ口に入れようとした玉子焼きを麻衣が両手で俺の肘を操縦、そのまま自分の口へ誘導して可愛い口を開けて見せた。
「なんだ。食いたいのか?」
俺は箸を麻衣の口元に持っていく。
彼女は目をつむり、摘まんだ黄色い玉子焼きの先をちょっとかじって、もぐもぐと顎を動かした。柔らかそうな唇が強烈に愛らしい。
しばらく麻衣の仕草をじっと見入る俺。ちょっとして開けた目と視線が合ってドキッとする。
夢の世界だなここは……。
俺は麻衣が口をつけた玉子焼きの残りを平然とした態度で、ぱくっと食ってやった。一瞬、ヤツは目元を染めたが、すぐにぽわんとした。
「どうだ。面白い味だろ?」
あいつの口に入らなかった残りの玉子焼きは、やっぱりさっきと同じ暖かく優しい味だけが広がった。
しかし麻衣は戸惑いと困惑の表情を浮かべて俺を見る。
「なんで? 普通に玉子焼きやん」
俺は結論付けた。ここでは味覚が上手く再現されないのか、それともこっちの未来で俺は味覚障害を引き起こすのか?
もしそれが現実となるのなら少々嫌気がさす。
食っても食っても満腹感にならず、加えて味が分からない。これはやばい。食いしん坊の俺には耐えがたき状況だ。人生半分捨てたような気分さ。
青白くなる俺の顔を横目で見つめて、麻衣は不安げに小首をかしげた。
「具合でも悪いん?」
「とんでもない。さっきの授業で腑に落ちないところがあって、ちょっと思い出しただけさ」
「へー。あんたにしては珍しいことがあんねやな」
元の笑顔に戻った麻衣は購買部で買ってきた紙袋からクリームパンとコーヒー牛乳を取り出して封を切り、かぷっ、と頬張った。
「美味そうだな」
「食べる?」
綺麗な歯型でかじられた部分を俺に向ける。そこまでしたらマジで餓鬼だ。俺の自制心が引き留めた。
「そこまでがっつかないよ。朝は悪かったな。お前の弁当食っちまって……」
「かまへんよ。修一のお腹が減らへんかったら、それでええねん」
くぅぅ。俺の世界の麻衣に聞かせてやりたい台詞だけど、腹はちっとも膨らまないのだ。




