土石流
二人は同じテンポで同じ歩幅。手の振り幅もまったく同じなので肩の揺れも同期して、俺の前でコピー人間となっていた。こうなると二人はシャッフルされたも同然で、後ろから見ただけでは、どちらが麻衣で麻由なのか識別不能だ。
「にしても……」
不安を滲ませた視線で辺りを窺う。ジャングルは鬱蒼としており茂みの奥を覗いても薄暗くてよく見えない。見えないとなると気になるもので、危険な気配が無いか探りたくなる。
「おーい。あんまり岸に行かんほうええよ」
ふいに一人が少し首をもたげて、視線を正面に向けたまま真後ろの俺へと忠告。
「なぜに?」と麻衣に尋ねる。関西弁を喋るので、たぶん麻衣で正解さ。
「茂みの中は獰猛な連中がウジャウジャおるから、ぽぉっとして歩いとったら……、ガバァッ、って飛びつかれ……」
擬態語多いヤツだな。しかも変なところで区切りやがって。
でも気になるので急いで前へ回って訊く。
「飛びつかれ……なんだよ」
麻衣は面白そうに笑うと怖いことを言った。
「あっという間に骨だけに捌かれるからね」
「えぇぇぇぇ!」
吃驚して川の中央へ逃げる俺を二人は腹を抱えて笑い転げやがった。
う~む。完全におもちゃにされてるな。
退屈しのぎの玩具として弄ばれながら川原を歩くこと小一時間。俺が川の中央から離れようとしないので、いつのまにか行進の中心はわずかに水が流れる川のセンターになっていた。
「ランちゃん。いま何時?」
上流をチラチラうかがいながら、後ろからついて来る三輪バギーへ麻由が声を掛けた。
曇り空とは言え、夏は陽が暮れるのが遅い。夕方近くなのだが、まだじゅうぶんに足元は明るかった。
バギーはわずかに首を麻由へ回しただけで、黙々と車輪を前進させており、これだけの荒地なのにその力強さはまったく劣っていない。
『午後6時8分です』
ランちゃんに尋ねたのだが、答えたのは俺たちのスーツだった。
「おぉぉ。これもユビキタスか」
「そうやデ。ランちゃんとスーツのウェアラブルコンピュータが連携してるからね」
「すげぇー。うまくやりゃあ、このバギーとの会話ができるじゃないか」
「まぁね。いま研究所で開発中やねんて」
「研究所って?」
「プロムナードにある大阪変異体研究所。あそこイロイロやってて、人工知能もかなりのもんやねんて」
麻衣たちガーデンハンターズの得意先だ。俺の住む街にある川村教授の研究施設で、そこには大勢の科学者がいる。そう言えば人工知能の研究も盛んだと親父が言っていた。
「それじゃあ……」
まだ何か言おうとした麻衣の袖を麻由が引いた。
「麻衣。もう時間が無いわ。そろそろ川から離れないと――ここはマズイわよ」
「あ、そうやな。お喋りが過ぎたわ。ほな急ごか」
二人が歩の速度を上げた。
「急にどうしたんだよ? まだ明るいぞ」
不安に駆られる俺へ麻衣が慌てたふうに答える。
「ごめん、うっかりしてた。スコールの時間やったんや。急いでや」
「えっ?」
そうか、そんな時間だな。
空は曇天が広がるが、今のところ雨の気配は無い。
「ガーデンでは降らへんねん。でも山で降った雨が濁流になって、ここへ突っ込んでくるんや。後ろ見てみぃや」
麻衣に促されて振り返った。視野に飛び込む光景を目の当たりにして、全身から冷や汗が吹き出た。山麓の上空が黒雲に覆われ、ビカビカと走る稲光が見えた。
ハッとして首を伸ばす。
「や、やべぇーぞ!」
俺はとんでもない状況に追い込まれていることに気づいた。なぜ二人が歩く速度を上げたのか。河原の両岸が昔の遺物ではあるがしっかりとした堤防に囲まれていたのだ。石積みではないセメント製のツルツルした堤だ。高さ10メートル。足場が無いのでよじ登ることは不可能。地面へ上がれるところまで約500メートル。この重装備では全力疾走できない。
とか思案するうちに、川原の真ん中あたりを流れる水かさが、みるみる幅を広げてきた。
「ほら急いで。堤防の切れ目まで走るよ」
麻由に急かされて俺も走りだす。
増水の変化はゆっくりと、気づくと加速的に増してきて、走る俺の足元を濡らすまでに迫ってきた。リュックを背負う体が思うように動かないのがもどかしい。堤の切れまであと数百メートル。増水が無ければどうってことない距離なのだが、水かさがどんどん上がってきたのが見て取れる。
「うぉぉぉ!」
その後たったの十数秒で、大量の水に押し流された土砂が真後ろから襲ってきた。
爆発したような勢いで泥流が俺の足下をすくって突き抜ける。瞬間的に地面が引き抜かれたのかと思うほどの破壊的な圧力だった。
あっと言う間に下流へ数十メートル押し流されてもみくちゃにされたが、悲鳴を上げる寸前、俺の体が何かに引っかかって水の力を食い止めた。何だか分からない。でも水圧より強い力が確実に俺をグイグイ引っ張って前進すると、岸辺の泥を蹴散らして上陸した。
「ランちゃん!」
そして同時に差し出された双子の腕に掴まった。
「危機一髪だったね、修一」
「お前らも無事か?」
立ち上がりつつ尋ねる俺に、二人はあっけらかんと言う。
「あんたより足は速いからね。鉄砲水が来る少し前に這い上がってたよ」
「そうか。そりゃぁよかった。にしても、なんちゅう水の量だよ」
『ぴゅーっぽ?』
泥まみれのタイヤを回転させて、俺に近寄って来た三輪バギーが神様に見えた。激流の中でもがく俺を見つけたランちゃんが、荷台で押さえて岸にまで引き上げてくれたのだ。
まだブルブル震えた膝を押さえながら、大きな岩を押し流して行く濁流をしばし見つめる。
「ランちゃんがいなかったら……」
自然と言葉が漏れたが、怖くてその先は言えなかった。
「今頃、大海原のど真ん中や」
二眼レンズがはめ込んである頭を伸ばして、無事を尋ねるかのようにして覗き込んでくるランちゃんにひとまず謝辞を述べる。
「ありがとな」と言葉を添えて、俺の手は知らぬまにバギーの頭を優しくなでていた。
不意に麻衣の言葉が蘇った。ランちゃんはテレパシーで喋りかけると言うセリフが頭の中でリフレインした。
「まさかな……」
深く考える時間は無かった。ほどなくして溢れた水がジャングルの中まで浸透してきたので、さらに奥へ逃げ込むことになった。
「しっかしすっげぇな。スコールの濁流ってこんなになるのか!」
「ね。ウソじゃないでしょ」とは麻由。
うなずく俺の顔色は恐らく蒼白だったに違いない。生まれて初めて戦慄を覚えた出来事だった。
川原を進めなくなった俺たちは、ジャングルの中でも比較的歩きやすい大昔の道路の跡を利用した。
ここは駅周辺の廃墟と違って、それよりも数百年前に栄えた大都市の跡だ。そこを長い時間掛けて熱帯雨林のジャングルが覆い隠したのだ。
「マジですげえとこだな。俺の存在がちっこく見える」
見上げる程にそびえ立ったビルが骨組みだけになってかつ崩れないのは、それに巻きつく巨大な蔓の塊が支えるからだ。それが何百本と絡み合って空に向かってそびえ立つ光景は、ちょうど大蛇の群れが立ち上がったようだ。
「あんまり近づかんほうがエエよ。時々崩れてくるからね」
と麻衣に忠告されたが、言われなくてもそうしたいと願っていたところだ。
「ほらあそこの盛り上がった茂みの奥見て」
麻由が指差す先、こんもりと茂った熱帯樹林の奥に屋根の朽ち果てた家屋の残骸が見えた。初めは何だかわからなかったが、目を凝らすにつれ、大きな物が動くシルエットが見えた。
「なんかいるぞ!」
「しっ。大きな声出したらあかんって」
麻衣が小さな唇に指を当て、片目をつむった。
「いよいよハンティングの開始か?」
担がされていたショットガンを肩から降ろして、胸の前で持ってみる。ずっしりと重みを感じる黒光りの銃身が物々しい。
やっぱりさっき河原で撃ち方を習っておくべきだったかもしれない。初ハンティングだ。どうしたらいいのだろう。引き金を引けばいいだけなのだろうか。よく耳にする安全装置とはどこにあるんだろ?
「お。おい。これってどうやって撃つんだ。ちゃんと教えてくれよな」
麻衣は震えた俺の銃口をみて苦々しく言う。
「あかんワ。あんたショットガン麻由に返し。こんなところで暴発されたら大ケガする」
麻由も納得したのか、麻衣と全く同じ苦笑いを浮かべてから自分のライフルを元の荷台へ返し、俺からショットガンを取り上げると、ひょいと構えて銃身の下をスライドさせて弾を込める。その素振りがとても自然で様になっている。
「さすがだな麻由。ハンティング慣れしてるよな」
麻由が声を潜める。
「あたしたちがするのは猛獣狩りじゃなくて、キノコ狩りなのよ」
「なんか緊迫しない響きだな」
「それでいいの」
いまいちピンとこないが、二人から緊迫した空気が漂い始めると、やっぱこっちも落ち着いていられない。
「おい、あそこで動いてるのはなんだ?」
「あれがバードオブプレイの巣なの。今は繁殖期だから近くにオスがいるわ。気をつけてね」
ってぇぇ、麻由。淡々と言うな。ここから10メートルも離れてないぞ。
叫びたくなる声を押し殺し、俺は目の動きだけで訴える。
襲ってこないのか? とな。
「静かに通らせてもらうんや。刺激せぇへんかったら襲って来ぃひんから」
「まじかよ……。でももし来たらどうすんだよ」
「とうぜんこれやん」
ショットガンを握りしめ、笑顔を消した二人の姿を見るといやおうなしに緊張する。肌を刺すような刺激をともなった緊迫感がここから危険地帯だと言っている。
「しっ。来たわよ」
やにわに麻由が振り返り、強張った空気が麻衣へと伝播し、すかさず麻衣がショットガンを構えた。
「何が来たんだよ?」
俺はただポカンだ。でも背後に目をやって腰を抜かす。
「ば……バードっ!!」
迫り来る大きな影。まるで着陸寸前の航空機だ。
「アタマ、下げてっ!」
麻衣に首根っこを引っ掴まれて強制的に地面に引き倒された。
音も無く滑空してきたのは巨大な翼を広げたバードオブプレイだ。肉眼で見たのはもちろん初めてさ。
ヤツは樹木の隙間をぬって見る見る近づいてくる。翼の幅はゆうに30メートルを超える。大昔の中型ジェットが音も無く忍び寄ってきたようなもんだ。
「静かにしとったらなにもせえへん」
「その代わり頭上げたら最後よ。バードオブプレイは音も無く迫ってくるから、素人ハンターは吃驚して立ち上がるでしょ。だからそこを狙われるの」
俺は二人から押さえつけられ腹這いに地面へ寝転んで、手で頭を覆った。
「こんなのに襲われたら、誰だって走って逃げたくなる」
「あの子たちは動くものだけを襲うの」
「あの子たちって……」
真っ黒な影を落として通過して行った巨鳥の後ろ姿を仰ぎ見て、またもや悲鳴を上げた。鋭く尖ったクチバシは電柱の太さほどもあり、鉤状になった足の付け根はドラム缶だ。そんな巨鳥が俺の頭上数メートルを悠々と通過して自分たちの営巣地へ消えた。
タイミングを見計らって麻由が俺の背中を押し、麻衣も俊敏に動く。
「腰を曲げてこのまま走るわよ!」
まるで何かから逃げるみたいな、実際逃げてんだけど。そんな姿勢で俺たちは全力疾走した。
「まるでロストワールドだな……」
子供のころ読んだSF小説を思い出さずにはいられない気分だった。
それから半時もした頃。
再び不気味な唸り声が渡ってきたので、首を伸ばして遠望する。
「こんどは……なんだろ?」
バードオブプレイの営巣地帯はぬけたと宣言してくれたが、無害の生き物などいないのがここの常識なのだ。
麻衣は淡々として言う。
「たぶん、ブッシュウルフの群れやろね」
ブッシュウルフ……元は飼い犬。それがカビ毒で変異して、サイの角にも似た突起物を生やした狼犬だ。そいつが群れを成して今度は人間を襲って来る。
「安全な場所が無い……」
絞り出した俺の独りごとに麻衣は笑う。
「だからここが最も危険なところやって言うたやろ」
「でも、逆に慣れたらガーデンのほうが危険だとわかるわ」
怖ぇえよ、麻由くん。
結局どこもかしこも気の休まる場所は無いと悟らされた。
それでも麻衣は言った。
少し遠回りにはなるが、茂みを避けて大昔の道路の跡をたどって南下するのがもっとも安全だと。
そして麻由が付け足す。
「気休め程度だけどね……」
麻由くん。あなたは俺を怖がらせて喜んでませんか?
道路のアスファルトはヒビだらけで下草が伸び放題だったが、広いスペースは見通しがよくて、変異体生物が中から飛び出してきても十分に身構える間が稼げる。麻衣が言ったとおり茂みの中は逃げ場のない迷路だ。あんなところを歩く奴はアホウだ。二人の言うことが正しい。
「…………」
生きた姿を曝して迫ってくる大自然の圧倒的なパワーに、精根を吸い取られた俺は言葉を失くして黙々と歩いていた。
空を覆う茂みの中は鬱蒼として薄暗く、逆に光の当たる葉むらは瑞々しい緑で光に輝き、風に揺れて俺たちを手招くかのよう。大人たちは世の終わりみたいなことを言うが、この世界を見る限り生気に満ち満ちていて、地球はまだ死んでいないと強く思った。
人が住めなくなって数百年。人跡が途絶えた世界にランちゃんのモーター音だけが俺の後ろから響いて来た。
そう言えばジャングルに入ってから、ぴったりと俺の後ろにくっ付いてくるのはどういう意思表示だろう。まさか俺を守ろうとしてくれているのか?
というより意思表示っておかしな表現なのだが……そんな気配を感じさせるって、マジで不思議なバギーだと真剣に思った。。