115年前の阿蘇山中
「すごぉーい」
柏木さんの黄色い声につられて外を見た。
「うわっ!」
キャノピーから飛び込んできた外光がとんでもなく眩しくて顔を背ける。
「……太陽ってこんなに明るいの?」
叫び声にも近い大きな声を出したのは麻由で、俺は早口で忠告する。
「見たらだめだ! 目が焼けるって聞いたことがある!」
こんなの生まれて初めてだからビックリ仰天さ。
「まあ、あながち間違いだとは言えません。ですが人類は本来陽の光に育てられたと言っても過言ではありませんから」
「夏の直射日光を裸眼で見るのはあまり良くはないと思うが……何を驚かれることがある?」
俺たちの異様に高いテンションとミウとガウロパの低さには雲泥の差がある。
「いい天気じゃない」
素っ気なくキャノピーの外を見渡す昭和のおねえさんも似たようなものだ。
恐々と白銀に光輝く光景を見渡すのは麻衣で、
「見てもええの?」
「なに言ってんの、ちゃんと見なさいよ。これが本物の山の景色なの。ほら、青年もこっちに来て。なにビビってんの?」
おねえさんは尻込みする俺の腕を引っ張り、
「恐がる必要はございませんわ」
背中を押すのはミウだ。
「あ……いや。しかしずっと灰色の空しか知らないから」
光に慣れてきた視界に広がった景色。そこには見慣れた物が一つも無かった。
瑞々しく活き活きとした植物の群生があふれかえり、しかも鬱陶しく覆い被さるジャングルでもない。ビリジアングリーンのサラサラした葉が心地よさそうに風になびいていて、その上から透明色の薄いカーテンみたいな陽光が射し込んでいた。
「たかだか115年で、こんなに変わるものなの?」
柏木さんが感涙に耐え切れない震え声を出したのは、緑の切れ目に広がった透き通った空だ。それは糸状菌の屋根ではなく、
「すげぇえ。満天の青空だ!」
CO2にまみれてどんよりと曇った空しか見たことのない現代組にとって、蒼天は本当に感動するのだ。
イウはニタニタと笑みをこぼしながら顎をしゃくる。
「これだけ晴れた空はこの時代でも珍しいほうだ。雲は週に一度ぐらいしか切れないからな」
キャノピーから入射してくる陽光を受けて眩しげに片目を瞬かせた。
「じゃ、この雲の切れ目はラッキーなのね」
柏木さんは最上級の笑顔で振り返り、イウはさらに瞳孔を萎めて答える。
「なぜ、雲が切れてるか教えてやろうか」
「なんなの? ナゾナゾ?」
ではないと思うが……。
「この青空は噴火の前兆なんだ。高温の水蒸気や地熱のせいで上昇気流が発生して、このあたりだけ雲が切れてんだ」
そうだよ。景色に惑わされていたけど、今夜には九州が二分される大噴火と大地震が起きる。
「良子さん。急いだほうがいいですわ。ここが目的地ではございません。もう一度元の時代に飛ばなければいけないのですよ」
歓喜溢れる仕草で外を眺める現代組へとミウが急かした。
「そ……そうね、そうよね」
艶美な顎でうなずき、柏木さんはインターフェースドームへ澄んだ声を上げる。
「ランちゃん。ゆっくりと150メートル進んで、地面の安定したところで止まって」
「150メートルでは足りません。裂けるのですから倍は必要です」とミウ。
「そっか、安全な距離が必要だわ。300メートルに訂正します」
『了解しました』
ジャングルとはまた異なる雑木林をアストライアーが進む。平坦な地面ではないのでそれなり揺れはあるが、今までとは異なる明るい景色がたまらなく心地良かった。
数分後、アストライアーは300メートル進んで、命じられたとおり停止した。
『指定された座標周辺に到着しました』
「では、帰りますわよ」
完全に止まるのを待って、ミウが再び後部へ戻ろうとするのを柏木さんが引きとめた。
「ねぇ。ちょっと待ってくれない? 噴火が始まるまで、まだ10時間以上はあるわよね」
「ありますけど……。長居は無用ですよ」
渋るミウに、柏木さんがキャノピーの向こうを指す。
「ほら、そこ見て。川が流れてるでしょ」
木漏れ日に煌く光りの帯が見える。流れる水に陽の光が反射していた。それもこれまでに見たことの無い輝きは異論なく期待してしまう。それはケミカルガーデンを流れるカビ毒に汚染された川とは異なる輝きなのだ。
「せっかくだから、飲料水の補給とか洗い物とか済まさない?」
珍しく現実目線の柏木さんだった。
ミウもちらっと外へ視線を走らせたあと、部屋の奥にも滑らせる。
「たしかに、今の跳躍で疲れた人もいるでしょうね」
「それにさ。見た感じこの辺りだけ温暖化の影響がまだ出てなくて昔のままの自然が残ってるでしょ。お願い、この子たちに本当の自然を見せてあげたいの」
キョトンとする俺と麻衣たちの前で、何度も手を擦り合わせ頭を下げる柏木さんへ、ミウは強く首肯する。
「それはよく理解できますわ。最初で最後のチャンスですものね」
顎に指を添えて黙考するミウ。そこへ平安の妹さんがしびれを切らして顔を出した。
「ねえ、何か問題でも起きたの?」
すかさずミウは振り返り、
「あ、いえ? みなさんお疲れの様子ですのでここで少し休憩を取ったほうがいいかと相談中でした」
「助かるわー。ちょっと水分補給したかったのよ」
と安堵の息を吐いた妹さんは両頬から玉のような汗を垂らしていた。お公家様の白塗りも、噴き出した汗で顎の辺りが剥げて地肌が見えている。それがまた笑いを誘う。他の人らも競争を終えた陸上選手みたいに肩で息をしていた。
これだけ大きな乗り物を丸ごと時間移動させたんだ。それなりに疲労度も高いのだろう。口には出さないが、誰しも休息を求める表情が見て取れた。ミウは普段通りだったが、平然を装う振る舞いかもしれない。この子は意外とそういうところがある。
みなから注がれる視線にミウは重々しくうなずく。
「休憩を取るのは問題ありませんが、外に出るとなると……ここには時空理論に素人の方々がいますし」
言葉の途中でミウは俺たち、特に変異体三バカ女子へ厳しい視線を向けた。
「この時間域に人の気配はありませんが、動植物、特に大型の獣には注意が必要です」
ミウは諭すように語り、柏木さんは晴れやかな笑顔を返す。
「解かってるって、襲われたらたいへんだもんね。麻衣。麻由、武器よろしくぅ」
「違います!!」
意気込んで立ち上がった双子にミウは厳しい声で制した。続いて元気溌剌な柏木さんを怖い目で睨む。
「な……なによー?」
「いいですか?」
毅然とした態度でミウの説明は続く。
「温暖化が進むこの時代では、人の少なくなった九州に絶滅危惧種となったツキノワグマが移送されています。いいですか? ここで一匹でも傷つけたら生態系が崩れ、絶滅を早め、それが未来の動物界にまで大きく関与するのです」
「ちょっと……ウチらより熊かいな?」口を尖らせる麻衣へ、ミウは平然とうなずく。
「もちろんです」
いとも簡単に言い切られて、麻衣と麻由は白い目でミウを見た。
「まっ、オレが忠告するのもなんだが……」
それまで黙っていたイウが身を乗り出し、言いにくげに言葉を選んで後を続ける。
「えー。あー。なんだ……オレたちはよその時間域の人間だろ? だったら、いかなることがあってもこの時間域を乱したらいけない。アリ一匹でも殺しちゃ、なんねえ」
と言ったあと、さらに目を細めて遠慮気味に言う。
「どうだ? オマエたちもいっぱしにリーパーなんだ。ちゃんと時間規則を守れよ」
それを破ってお尋ね者になったヤツのセリフとは思えない。ミウが冷ややかな視線を注ぐのは無論のこと。俺は込み上げてくる苦笑いを呑み込んだ。
「どちらにしても休息時間を設けましょう」
十二単の妹さんから熱く注がれる視線は、ミウのうなじをチクチクと刺していたようだ。
「では集合時間は、今から1時間半後、時間厳守でお願いします。それと危険なことには顔を突っ込まないという約束で……はい、解散! それと麻衣さんと麻由さんは、わたしから離れないこと。あなたたちは何を仕出かすか分かりませんからね」
麻衣は激しくブーイングするものの、ミウに何度も釘を刺されて麻由と並んで外へ飛び出して行った。柏木さんと衣類の洗い物をするそうだ。ようは川へ洗濯へのシーンであるな。
でも爺さんは山へ柴刈りなどへは行かない。俺たち男組みは飲料水を汲みに上流を目指した。
「久しぶりだな。この緑……」とはイウで。
「うむ。戦国時代とさほど変わらぬのがいいな」
と答えるのはガウロパだ。
後ろから二人を眺めていて、俺は堪らず口を出した。
「せっかくアンクレットが外れたのに、なんでまたガウロパにくっ付いて来たんだよ? あれだけ離れたがってたじゃないか」
俺の最もな疑問に、
「いや、これでいい。あっちに残るといろいろと面倒なんだ」
俺とガウロパは数秒ほど見つめ合ってから笑った。
「モテる男は辛いでござるな」
「うるせえ」
イウはふんと鼻息でいなすと、ガサガサと茂みを掻き分けて先頭に立ち、気持ち良さそうに歩き出した。
目の前に広がる森を目の当たりにして俺は確信を得た。今朝まで目前に立ちはだかっていたカビに埋もれたケミカルガーデンと、あの巨大な渓谷が見事に消えている。間違いなくここは115年前の7月25日の光景だ。場所はいっさい動いておらず、時間だけの移動が起きたのだ。
気付くと耐熱スーツが自動停止していて、ビックリして立ち止まった。故障でもしない限りこんなことはあり得ないからだ。
モニターを見るとサーモセンサーが外気温29℃と告げており、屋外ではありえない気温の低さに驚く。そしてこれまでとは異なる空気の清々しさが気持ちよくて、俺は深く呼吸をしてみた。
「うわあ。なんて澄んだ空気なんだ! 何の匂いもしない」
初めて経験するさらっと乾燥した爽やかな大気。空調の除湿された空気よりもさらに心地よい感触に驚く。
ケミカルガーデンの内部は凝縮が起きるほどに水蒸気が過飽和状態だし、ジャングルの中だって湿度は常に100パーセントに近い。なのにここはまったくの異世界だった。光り輝く太陽の下でたったの29℃。さらに湿度も低い。これなら耐熱スーツは必要ない。
「すげえな。楽園みたいだ……」
イウはニタニタ笑いながら言う。
「これでも温暖化はかなり深刻なんだ。本当の気候ってのはよお」
もう一度ニタリと笑って見せて、
「そうだな、あと200年ほど遡ってみろ、このあたりでも冬には雪が降るぞ」
「それだ――」
俺は大声を出した。
何度かそんな話をクラスの友人としたことがある。
昔の日本には季節があって、中でも冬と呼ばれる時期になると、空気中の水蒸気が凍って空から落ちてくると言う。いわゆる都市伝説みたいな話さ。つい数日前にも柏木さんとその話しをして、二人して首をかしげていたところだ。
「氷が落ちてきて怪我しないのか?」
俺の出した真剣な問いに、イウは腹を抱えて笑い上げ、ガウロパまでも大きな口を開けて笑った。
そんなにおかしなこと言ったのか、俺?
「修一どの。怪我をするような氷なんか落ちてこないでござるぞ。ああぁ。いやたまに『雹』が降ることはあるが。お主が言うのは雪でござる。とても柔らかい物で頭に当たっても怪我はせぬな」
「ほんとか?」
なんとも納得しがたい表情で顔を歪めていたら、ガウロパは俺を見て、またもや、ぶはははと腹を抱えた。
まるで通学の一シーンみたいな弛緩した空気の中、森林を行く。
俺たちの時代のジャングルと比べると、ここは下草の背が低くとても歩きやすい。ブッシュナイフも必要なく、容易に進むことができた。
時折り進行を拒む緑濃い茂みをいくつか掻き分けて進むと、とうとうと流れる川が出現。幅は数メートル、深さも膝ぐらいだが、その透明度は目を見張るものがあった。
俺の知る川はシャングルを横断する大河ではあるが、水は常に濁っていて薄茶色だ。こんな透明な天然水を見たのは川村教授の研究所地下にあった湧き水以来だ。
「すげぇぇ。このまま飲めるのかな?」
しゃがんで突っ込もうとする俺の手止めて、ガウロパが胸ポケットから小瓶を取り出した。
「柏木先生から預かった検査薬で調べてからでござる」
「まじめなヤツだな」
目尻の横をぽりぽりと掻き、俺は場所をガウロパに譲った。
ガウロパは小瓶から出した薬品を流れの瀞に一滴だけ落として様子をうかがう。
いくら待っても変化がない。カビ毒などが混ざってたら赤く変色するはずなので、ここの水は安全だと示すことになる。
「心配なさそうでござるな」
ブーツの無くなった耐熱スーツを着込むガウロパは裸足のままだ。森の中も平気で歩いて来たところをみると、きっとゴムぞうりバリの足の裏をしているはずだ。
「おおぉ。冷たくて気持ちいいでござるなー」
素足で入りゃ、そりゃぁ気持ちいいだろう。
ガウロパはそのまま流れの中央へ進むと、ザブザブと飲料水用の大きなタンクを沈めにかかった。
タンクの中に水が吸い込まれるボコボコという音を耳にしつつ、俺は岸辺で腰を伸ばす。
下流から、麻衣と麻由のはしゃぐ声が風に乗って来た。たぶん洗物でもしてはしゃいでいるのだろう。
たゆたゆした緩やかな時の流れに、俺の体は心底リラックスした。
「たまにはこんな平和な時間もいいもんだ」
イウがぽそりと漏らしたが、それに関しては同感だ。これからたったの115年で、ここは人が住めないケミカルガーデンに埋もれてしまうことを俺は知っている。
「暗黒時代……」
未来組がよく繰り返す言葉だが、今、無性にハラワタに沁みてきた。この世界を知るとそう呼びたくなる気持ちがよく分かる。
「鹿児島へ行ってカロンを見つければ……」
カロン。高濃度酸素生成高分子。それがどういうモノでどう利用されるのか、俺にはよく解らない。でもカロンが二酸化炭素とカビで崩壊した地球を元に戻す起爆剤になるとミウと柏木さんは言っていた。
「修一どの……その容器にも入れるでござる」
ガウロパの声で我に返った。
「ん? ああぁ」
俺の持ってきた容器は20リットルの空容器だ。ぽいと流れの中央で腰を伸ばしていたガウロパに放り投げる。
パシッと受け取ると深みに突っ込んで、ゴボゴボ音を立てて水を満たすと、フタをしてポイッと俺に投げて寄こした。
反射的に手を出しかけて、はっと気づき、飛んでくる容器から身を逸らした。
容器は重たげな音を上げて地面に衝突。少し埋まった。
「ば、バカな。そんな重いものを軽々と投げて寄こすな! 危なく受け取るところだったぞ!」
水20リットルが入った容器なのに、それをリンゴでも投げて寄こすかのように軽々とこなす男だ。
「どれだけ力があるんだ」
イウも呆れ気味だ。
「さぁーて、満タンになった。イウ帰るぞ」
ガウロパが勢いよく水から上がった。
「うあっ!」
もう一度俺たちは驚愕の上塗りをさせられて硬直する。
ガウロパは100リットル入りの大型タンクを軽々と肩に担いでいた。
物理の授業で習った。水温が4度で1リットルの水はだいたい1キログラムになる。ヤツが今ひょいと肩に掛けたのは100キロの物体だ。
「それも持つでござるぞ」
俺の持つ20リットル容器まで手を出そうとするので、慌てて首を振った。
「心配無用……。これは俺でも持てる」
生唾を飲み込んで、筋骨隆々の背中を凝視してしまったのは当然だ。
100キロのモノを軽々と運ぶなんて……なんて男だ。
「お前ならアストライアーでも担げるんじゃないか?」
冗談めいて告げた俺の問に、ガウロパは笑って答えた。
「そんな無茶なことはしないでござるよ」
ヤツの返答は否定ではなかったが、一概に信じる気にもならなかった。
俺は肩をすくめると、歩き出したガウロパとイウに先頭を譲ってしんがりに着いた。
二人は旧知の仲みたいに談笑して帰り道を戻って行く。その後ろを半ば呆れながら追従した。
途中、麻衣たちの楽しげなはしゃぎ声が、ひときわ大きくなったので、
「俺、ちょっとあいつらの様子を見てから行くわ。先に帰っといてくれ」
イウはうなずくと手を振って返事とした。




