決意の朝
2318年、8月5日。午前7時――。
亀裂のことが気になって早朝から目が覚めてしまい、まだ時間があったが思い切って起きることにした。
幅数百メートル、300メートルを超える深さ。空を飛ぶか海から渡るかしか方法は考えられない。おそらくここまでで引き戻るだろう。麻衣たちは悔しがるはずだが、こればかりはどうしようもない。
テントのファスナーをきゅーっと鳴かして外に這い出すと、まっすぐ食堂へ向かう。
まだ誰も起きていないだろうと踏んでいたいたが、自分の席で足を組んで座る柏木さんの姿がそこにあった。紺の制服に身を包み、タイトなミニスカートからすらりと出たお御み足が痛く俺の目に焼き付く。
まったくもってこの大人の色気がたまらないね。このままずっと眺め続けたい気分だが、腕を組んで目をつむる姿を目の当たりにしたら、胸の奥が絞め付けられる気分になった。
思い悩むことはただ一つ。崖の向こうにたどり着く道が途絶えたのだ。苦渋の決断を迫られた思いは同情に値する。リーダーとしてここは辛いハズだ。
テーブルの周りに近寄りがたいオーラが漂うので、そっと後ろを通って操縦補助室へ向かった。
こっちの部屋の隅ではイウが寝ていて、ヤツの緑色のテントが通路の隅っこに立っている。それがちょっと邪魔だったが気にせずに進む。その向こう、操縦席の床の上にシートを引いて寝転がるガウロパの見たくも無い寝姿が視界に飛び込んできて、眉間にしわを寄せる。時々耳を塞ぎたくなるイビキが聞こえてくるのが輪を掛けて鬱陶しい。
補助席の後列に目をやるといつもの場所にミウがちんまりと座っており、ぼんやりと天井を見つめていた。時おり片手に持った合成レモンティが注がれたカップを思い出したかのように傾ける姿もどこか影が薄い。
「よっ。どうしたんだ、こんなとこで?」
「お……お早うございます。修一さん」
ミウは気の抜けた表情を掻き消して、いつもの可愛い笑顔に戻した。
「おはよう。えらく早いな。何してんだここで? ガウロパのイビキがうるさくないのか?」
「あ、いえ。この人の寝姿は慣れています。それより良子さんが何やら考え事をしてるようでしたので、邪魔をしては、と思い」
古女房みたいな口調に苦笑いを返して、
「実は俺もそうなんだ」
考えることは同じだ。小春日和のモンシロチョウみたいにふわふわ飛ぶ能天気の極みを曝け出す柏木さんが、朝から難しい顔をして塞ぎ込むだなんて、これ以上の異常事態はない。
「やっぱ、路を断たれたのがショックなんだろうな」
「ですわねぇ……」
俺の忍び声にミウも同意すると、そっと食堂の方を窺った。
電力削減のために全部の自動扉が開けっ放しになり、素通しになった向こうから柏木さんの憂いを含んだ溜め息が聞こえてきた。
柏木さんはゆるゆると目を開いて辺りを見渡すと、こっちにミウと俺がいるのに気が付いたらしく、白く手を振って俺たちを呼び寄せた。
「ねぇ。二人ともちょっと来てぇー」
カロン探索を断念する、という苦渋の決断をここで迫られたのだ。決めづらい案件だ。麻衣たちが起きてこないうちに結論を出す気かもしれない。
手招く柏木さんの下へと歩み寄った俺とミウへ、柏木さんは秀麗な顔に目いっぱいの疲労感を漂わせて小さな声で伝えた。
「あのさぁ。麻衣たちに聞かせたくないことなんだけどね……」
でしょうね――。
「あの子たちに内緒で……相談があるのよ」
「どうぞ……」
ミウと顔を見合わせてから二人そろって固唾を飲んだ。
「なんか……私自信無くってさぁ……こんなのって、大人としてだめだよね」
下を向いて悄然とする柏木さんは膝の上で細い指を絡ませている。これはいよいよ重症だ。
重苦しい空気を肌に感じつつミウは言葉を選んで促す。
「そんなことありませんわ。立派にリーダーとしてこなせていますし……」
「そうなのよ。リーダーのクセにっていうかさ……。あのさぁ……でも自信が無いの」
「自信持ってくださいよ。俺、柏木さんはリーダーにぴったりだと思ってますもん」
「でも成功するとは思えないよぅ」
潤みを帯びた黒い瞳で見つめられて、俺、たじたじ。
「何をおっしゃるんですか! あなたの変異体に関する研究はすべてにおいて完璧です。亀裂ごときに弱気になることはありません。わたしがついてますでしょ」
「亀裂ぅ?」
柏木さんは丸い目玉をくれた。そしてキョトンとして見せて、
「どしたの? 何んか割れたの? 何の話してんの?」
ミウを訝しげに眺めるリーダーであり船長でもある柏木さん。
「あ……あの?」
さっきまでとは異質の空気が噴き出すのを感じた。
「い……いえ。カロン探索の道が閉ざされたんでしょ」
「えっ! 閉ざされたの?」
丸くしていた瞳をさらに、パッとこぼれんばかりに見開いてミウを見た。
「えっ? それで悩んでらっしゃるんでしょ?」
「うっそぉ。悩んでなんか無いわよ。カロンは私が絶対に見つけるの、任せてよー」
「はぁぁ?」
狐につままれたような目をして立ち上がるミウ。
「あなた何を悩んでらっしゃるの?」
だんだんと態度を強張らせていく、その前で、
「実はさぁ。今日の食事当番、私なんだぁ。でもって料理って全然できないのよ。ペースト食材の卵焼きでさえ温めるだけなのに、なぜか黒い色になるのよね。なんで? 温めると焼くの違いがいまいち分からないの」
そんな人間がいるかね?
目の前でしゃあしゃあと言い切った柏木さんさんは、大袈裟に頭の上で手を合わせてミウの前で拝んだ。
「お願い、日高さん。当番代わってちょうだい!」
どたん!
大きな音を立てて尻餅を突いた。座ろうとした椅子から俺が転げ落ちた音だ。
悶々と悩む案件が、どうということのないくだらないことだったのだ。
俺は肩が抜けるほど脱力し、ミウはちっさな口をポカンと開けて柏木さんを胡乱げな目で見つめて、柏木さんは平然と淀みの無い瞳から透明色の光を輝かせて対応する。
「どうしたの?」
ミウは二秒ほど息を吸い込んでから言い切った。
「あなた、何の心配をしてるんですか!」
「え? 食事当番よ」
ゴーグルの奥から鋭い視線を射し込んだ。
「道が途絶えたんですよ。食事当番なんて関係ないでしょ!」
「だって、今日は私なんだもん。それが気になってよく寝れなかったんだからぁ」
ミウは再び長い溜め息を吐くと、子供に言い聞かせるように面と向かって言う。
「普通はどうやってあの崖を降りようか、と考えて寝れないもんなのです」
「そうなの? 私は当番のほうが問題よぉ」
「ば……バカらしい。食事当番なんていくらでも代わってさし上げます。それより崖のほうはどうするんです」
「知んない。まだ様子見に行ってないもの。そんなの見てから考えようよ。じゃ、日高さん、当番タッチね。それと麻衣たちには内緒でお願い。よ、ろ、し、くー」
さらっと言い伝えると、ミウの手のひらを自分の手にパチンと合わせて、心なしか軽い足取りで階下へ消えた。
掛ける言葉も思い浮かばず、後ろ姿を見つめて石化したミウと向き合う。
「間違ってない。やっぱり、あの人は恐ろしいほど能天気なんだ」
「わたし……疲れました」
眉間を摘まみながらミウが頭を垂れた。
いつまでも忘我の海を漂い続ける銀髪の少女へ声を掛ける。
「ミウ……」
「なんですか?」。
「俺も朝食の準備手伝ってやるから。そろそろ始めないとみんなが起きてくるぞ」
ミウは滑らかに垂れ下がる銀髪の頭に黙って三角巾を回した。
誰が始めたんだ、この古臭い給食当番ファッション――。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
朝食が済むや否や最初に動き出したのは柏木さんだ。まだ食事中なのに……。
「さぁみんな。外がどんな様子か見に行くわよ」
自慢の長い黒髪をヘアーバンドできゅっと括ってから、柏木さんはヘッドクーラーを頭の上に載せた。そして羽織った白衣をさっさと脱ぎにかかる。
しばらくぶりの外出で待ち遠しいのはよく分かるが、それにしてもはしゃぎ過ぎだろ。今朝の落ち込みはどこ行ったんだろ?
なんだかすっきりしない気分で、俺も口の中のものを飲み下しつつ思案する。
本日の朝食の献立は、味噌汁と白米、それと目玉焼きの簡易ではあるが純和風だ。俺が手伝ったのは食器の配膳とお茶の係りぐらい。ミウは全てをそつなく完璧にこなした。釈然としない気分を引き摺って作った朝食にしては完璧だった。
ところでこれからどうする気なのか。頼りのランちゃんは通行不可を宣言して黙り込んだままだし、まさか崩れた通路を作り直すとか言い出さないだろうな。こんなところで大がかりな土木工事をする時間はもう無い。夏休みは残り1ヶ月を切っている。
ガーデンが切れて空が見えるとは言っても、そこの空気は吸わないに越したことはないのだが、やはり狭い室内から開放される気分は待ち遠しい。
「待ってぇな、良子さん。ウチも行くー」
誰もが久しぶりの外出に浮き足立っていた。麻衣と麻由も大急ぎで味噌汁の残りを飲み干すと、後片付けもそこそこにテーブルを離れた。
麻衣たちが出しっぱなしで行った食器を片付けてから格納庫へ向かうと、柏木さんがすでに耐熱スーツに着替え終わっており、出口へ向かおうとしていた。
しばし目の保養をさせてもらう。
特殊素材のこのスーツは身体の線が艶かしく映る。白衣姿と違って、素通しになったしなやかな曲線は成熟した大人のもの。それはそれは色っぽかった。
その脇では麻衣と麻由ははしゃぎながら耐熱スーツを着込んでおり、最後に胸のファスナーを窮屈そうに閉めた。
うーむ。こちらは成長過程ではあるが、見ごたえが半端ない。
堂々と眼福を求めて凝視できるのはこういうシチュエーションだからで、普段こんなことをやったら殺されるかもしれない。
「待つでござる。オナゴには外は危険じゃ。拙者が先に出て崖の様子を見てくるでござる」
俺の後ろからナリのでかいヤツがドカドカと走り込んで来て、イウも一緒にやって来るとゆっくりとガウロパの動きを片目で追っていた。
先陣を切って麻衣がショットガンを担いで意気込み、
「はよぉぉ。ミウ、先行くで……」
「麻衣。銃弾持ったぁ?」
「持ったぁ。あんたもカートリッジ忘れたらアカンでー」
気持ちを逸らせて走り回る様子を見て、冷めた声でイウがつぶやいた。
「何を子供みたいに、はしゃいでるんだ?」
「あの双子にはアストライアーの機内は狭すぎるんだ」と俺。
「たかが外に出るぐらいのことで……」とは、のんびり片足をスーツに突っ込むミウ。
そして山みたいな男が動く。
「姫さま。お先に失礼つかまつる」
「おい。タコ!」
眼帯男がそれを止めた。
「そうよ。ガウさんは、外へ出られないでしょ」
制する柏木さんへ、キョトンとして振り返るガウロパ。
「へ……?」
「また忘れてるんかよ」
イウが足下を指差す。
「あぅ……。そうじゃった。これは拙者としたことがうかつであった」
常人の3倍はあるでっかい足を耐熱スーツの先から突き出し、巨漢の身をいっきに萎ませた。
カビ毒が蔓延する外を裸足で歩くわけにはいかない。完全密閉された耐熱スーツでないと毒の侵入を防ぐだけでなく、冷気もだだ漏れでその効力がまったく無い。冷蔵庫の扉を開けっぱなしにするのと同じ理屈だな。
「お前が出ないなら、オレも出なくていいわけだ。ゆっくりさせてもらうぜ」
イウの片足にはガウロパから逃げられないように、犯罪者に掛けられる爆弾付きのアンクレットがはめられている。
「なぁ。それって、たまには外してやってもいいじゃないか? 俺たち仲間だろ?」
何をしたのかいまいち分からないイウに対する処遇は、俺にとっては不合理に思えて仕方ない。
「この人は犯罪者です。自由にするわけにはいきません」
ミウは相変わらず高圧的姿勢を崩さず、勢いに呑まれて凝固する柏木さんの前を素通りしようとするので、いそいで引き留める。
「イウが犯したことがどれほど重大なことなのか俺にはよく分からないけどさ。思った以上に反省してるし、なんか聞くとこによると未来に帰れたら妹さんのために、まっとうに罪を償って一緒に住むとか言ってたぜ」
ミウは不意に足を止めた。
「イモウト?」
「うん。なんかお前と同じぐらいの年の妹と生き別れたそうだ」
「…………」
ミウは黙って振り返り、俺の肩越しに操縦席へ戻ろうとする二人を細めた目で見据え、すぐに付けていたゴーグルを外した。
焦点がボケた瞳になるものの、宝石みたいに輝く赤と青の虹彩は何かを視ている。
しばらく宙を凝視するミウ――。
時空震の影響でミウは未来を視ることができないはずだとイウが漏らしていた。だから今のは過去を視たのかもしれない。ミウの色の異なる双眸は時間を超えたものを視ることができるのだ。
しばらく経って細い銀髪の先を指で絡めたミウは、俺に告げた。
「イウは地質学に長けています。亀裂の探索に欠かせないのは事実です。一度だけ信じますわ」
なぜ今ミウは俺に向かって告げたんだろう。瞳の奥に何かを隠そうとした揺らぎが見えたのは思い過ごしか。
ミウは探るような俺の視線から逃げるためか、慌ててゴーグルを掛け直すとイウへ冷然と接した。
「時間を飛んで逃げるなど、わたしの前では不可能なのは承知でしょうね?」
「お前に勝てるぐらいなら、こんなところでウロウロしてねえよ」
「それなら結構ですが、もしそんなことをすれば容赦なく監禁します」
「日高さぁーん。アストライアーに監禁室なんて無いよぉ」
「溶接工のガウロパがいます。牢屋などものの半日で拵えるでしょう」
ガウロパは苦笑いと一緒に肩をすくめ、それへとミウが命じる。
「アンクレットを外しなさい」
ガウロパは困惑顔で応えるが、ミウの厳命には逆らえない。すぐにイウの足枷が外された。
「おぉぉ、ありがてえ……」
イウはリングが嵌まっていた片足を何度も持ち上げて軽くなった感触を楽しみ、
「わりいな、修一。助かったぜ」
「別に俺が訴えたからじゃないよ。あんたの気持ちが伝わっただけだろ」
「姫さま。やめたほうがよいかと思うのでござるが」
ガウロパは大きな体を屈めてて諌めるが、ミウは反対に口先を尖らせた。
「あなたが耐熱スーツのブーツを引き千切るからこんなことになるんです」
「あ、いや。まさかこうなるとは……」
「罰として、あなたには留守番を命じます」
「えぇぇー」
「不服なんですか?」
「い……いえ。滅相もござらん」
ぶるぶると首を振るものの、じゅうぶん不服そうな顔だった。
柏木さんから「あはっ」とか、澄んだ笑顔を向けられてガウロパは顔を赤らめ、柏木さんはあっさりと言う。
「助かるわー。マニピュレータの係が必要なのよ。あとで外から伝えるから操作を頼むわね」
床に両足を落して丸めた背中は小山のようだ。その筋骨隆々の背を白く優美な手を添える柏木さん。
「そ……そうでござるか!」
タコ入道が勢いよく身体を起こすと胸を張って立ち上がった。目前の情景はまさにキングコングと美女だな。
「あなただけが頼りなんだから、お願い……ね?」
甘えた感じで優しく言葉を贈る柏木さん。ガウロパは赤らめた顔を何度も前後に振り、
「いつでも命じてくだされ」
ドシドシと音を立てて操縦席に戻るスキンヘッドをすがめて見るミウの心の内が、俺にも透けて見えた。
「バカ……」
同情するぜ。ミウ。




