夏眠のコロニー(眠れるゼロの支配者たち) 後編
「これって……輪っかだ」
形は植物みたいに枝分かれをしているが、葉に当たる部分がただの楕円のリングなのだ。まるで針金で作ったオモチャみたいな生き物。
『メタノピュルス・カンドレリ(熱水噴出孔などに生息する超好熱菌)のコロニーね。形はいろいろ。たぶん糸状菌に沿って成長したのよ』
いとも簡単に説明してくれる柏木さんだが、どのような生き物を想像してよいのか、とっかかる欠片も無い。
『シュードムレインで形成された細胞壁を持つメタノバクテリウム綱でね。バクテリアとは異なる第三の微生物でアーキアに属するのよ』
「あのですね……」
わかる単語が一つもない。
「それって日本語ですか?」
『生物の進化系統樹に載ってたやろ?』と言いだしたのは麻衣で。
「高校の授業で習ったか?」
『麻衣。それはお父さんの部屋で読んでる本に書かれてるのよ』
なら知るわけないぞ。とエラそうな事を言えば百倍になって返って来るので、ここは穏便に。
「も少し下っ端にも解るように説明してくれませんか?」
顔はマスク越しなので緑色の環境光が反射してよく見えないが、柏木さんは笑い声も混ぜてこう言った。
『超好熱菌は80℃以上を好むでしょ。だいたいは海中の火口周辺に多いんだけどさ、陸上に移り住んで変異したのがこれ』
幾分理解はできた。つまりこのアチチ環境に順応した生きモンだとおっしゃられるのだ。
「なんでこんな高温でも死なないんですか?」
『タンパク質が変性した生物なのよ』
この時、しまったと思ったさ。あそこでやめときゃいいのに、つい質問を続けてしまった。
後悔先に立たずだ。仕方が無いので続ける。嫌々な。
「変性って?」
『ゆでタマゴ知ってるでしょ。あれがタンパク質が変性した後なの。冷えても元に戻らない。つまりここらの生命体のタンパク質は変性して熱に強くなってるってワケ』
ゆでたまごは解るが、それと変性とここらの菌と一致するところが無い。
首を捻って黙り込んだのを肯定と取ったのか、柏木さんはまたもや意味不明の単語を並べた。
『リバースジャイレースが起因してるのよ』
「せ……先生。お腹が痛くなってきました」
「うふふ。まぁ深く考えなくていいわよ。とにかく100℃超えの世界でも生きて行ける生物が超好熱菌っていうの」
最初からそのくだりだけでよかったんじゃね?
「こいつがリバースジャイ……なんたら菌の塊というワケか」
教えてもらったことの数パーセントも理解できていない俺の口から出る言葉などこんなものさ。
「正のスーパーコイルを持ったDNA構造なわけよ」口を出したのは麻由だ。
「お前理解して言ってるの?」
俺的にはけっこうな驚きなわけで。
「当たり前やろ。ウチらを誰やと思ってるねん」
どうりで変異体生物の成績が校内一位のはずだ。しかも二位と大きく差を開けて常に満点。教師も舌を巻く知識の宝庫。
ついでにレッドカード保持者。無敵のヤツに核弾頭ミサイルを配備したに等しい。
納得せざるを得ない一場面ではあった。
しばらく進むと、否応なく地面に足が縫い付けられた。
「――ォォォ。オォォォォォ。オォォォォォ。オォォォォォ。オォォォォォ……」
「な、なんすか、この音? 人の叫び声みたいで不気味だ……」
身を固くして聞き入る俺に、
『糸状菌の隙間を風が抜ける音よ』
『関西のガーデンではこんな音は出ぇへんよな』と麻衣の声。
『うん。初めて聞くわ』こっちは麻由。
耐熱スーツと密閉防護マスクに身を固めた二人を背後から見たら、同じ物が立っているとしか見えない。無線に流れてくる声も同じなのでどっちがどっちかまったく識別できない。
『火口へ向かって強い上昇気流が起きるからだと言われてるわ』
「と言うことは、まだはっきりしたことは……」
『そっ。実際のところよく分かってないの。なんなら修一くんが突き止めてきなさいよ。学会で発表すればいいわ。有名になれるわよ』
「めっそうもないっす」
『つまりね。火山性の恒温霧湿帯にはそれぐらいまだ未知のモノがたくさんあるわけ。それが九州には二か所もあるのよ』
熊本と鹿児島か……川村教授が定期的に訪れる理由がわかる。
『あんた、珍しいモノ見つけるの天才やろ。なんか見つけてきぃな』
『マンドレイクの発見者さん。がんばって』
「あんなの偶然に決まってるだろ。お宝はテクテク歩いててみつかるもんじゃないんだって」
ところがだ。
俺たちはとんでもない物を見つけることとなる。
アストライアーが停車した位置から30分ほどの奥で、先陣を切って歩く麻衣が足を止めた。
『あれは?』
麻衣が示したスタンガンの先。
『なんだろ? 知らないわね』
柏木さんが首をかしげたら答えられる人間はもういない。
それはいくつかに分かれた窪地の中に並んだ楕円形に盛り上がる物だった。
薄っすらと糸状菌が生えたへこんだ窪地。覆い茂る林の中に忽然と現れた広場と言ってもいい。一つの大きさは学校の教室ほど。その中に数十個の楕円形に盛り上がった丸い物体が規則正しく並んでいた。
『自然にできた感じじゃないわね』
臆することもなく、柏木さんは近くの窪地を下りて行った。深さは1メートルほど。緩やかに傾斜した縁を滑らないように横向きに下りて行く。
歩くたびに黄緑色の菌糸が、ふありふありと舞う。吸いこめばいかにも体に悪そうだ。
それがどんな感じかって?
そうだな。緑色のメリケン粉があったとして、それが入った大きな袋を破って振り回した後、1時間ほど静かに放置しておいたらこんな感じになるだろう。
『この丸く膨らんだ物体はなにかな?』
普通なら答を求めてすぐに手を出すところだが、柏木さんはやはり科学者だ。すぐにでも行動に移そうとする俺たちを小声で制した。
『まだ触っちゃダメ。構造を調べてからでないとスマトラオオコンニャクの二の舞になるわよ』
ビックリして同時に手を引込めたのは俺と麻衣で、それを見て麻由が笑いこけた。
「うるさいぞ、麻由。大声で笑うとそのまま無線で送られてくるから鼓膜が破れそうになるだろ」
『あははは。傑作……麻衣とおんなじ動きしてんだもん』
柏木さんは物体の前で片膝を地面に着けてしゃがむと、落ちていた化石みたいな枝を折って、その先で撫でるようにして表面の粉末状の物を拭った。
ふわりと菌糸が舞う。少し待つが何かが飛び出してくる気配もなく、落とし穴が黒い空間を作ることもなく表面が削げ落ちた痕だけが残った。
『意外と固いわよ』
ぽつりと感想を述べた後、同じ枝先で二度ほど上下に叩く。いつものおきゃんさが消えた柏木さんの行動は慎重に慎重を重ねていた。
『麻由。ナイフ貸して』
ひとうなずきして腰のブッシュナイフを抜き出すと、麻由は手を出した柏木さんの白い手袋に柄の方を押し当てた。
ぎゅっとそれを逃ぎって、刃の反対側を下にして丸く盛り上がった地面と隙間に当てて少し削る。数センチの厚味を持った菌糸の堆積物が削り落ちて中から白い物質が顔を出した。
麻衣と麻由は物体の前にしゃがんで覗き込む。
『これなんですか?』
麻由の質問に柏木さんは首を振るでもなく、かつ答えることもしない。その代り今度はナイフの刃のほうを向けて、白い物質の上にあてがった。
『ちょっと下がって……割ってみるわ』
割ると言ったことから察して、それはだいぶ固い物のようだ。
麻衣と麻由が半歩下がり、ぱふぁぁっと菌糸を舞い上がらせる。
グイッと力を入れると、ぱしゅりと乾いた音を上げて割れた。
とても薄そうなものが割れる音。それはよく聞く音だ。そう誰でも知っている玉子の殻だった。
『何かの卵ですか?』と訊く麻由。
破片が崩れて中から黒っぽい物が姿を現し、柏木さんの目が見開かれた。
『こ……これは……』
柏木さんの声が微妙に震えている。
『離れて!』
緊迫した声に俺たちは総立ちになった。
俺たちがそこから離れたのを確認すると、柏木さんはナイフの柄で乱雑に丸く盛り上がった物体の表面を叩いて割っていく。かさついた音を放って中身が剥き出しとなり、俺たちは声にならない悲鳴を上げた。
『みゅ……ミューティノイドや』
麻衣が数歩下がり息を飲んだ。
『じゃ、じゃあ、ここらの丸いのは……』
柏木さんの喉が鳴る音が無線を通して聞こえてきた。
『これ全部ミューティノイドだわ』
大きいのは2メートル近くもある楕円形の盛り上がった物体。それはミューティノイドの全身を包んだ殻なのだ。
剥き出しにされたミューティノイドは灰褐色の長い体毛に覆われていて固く目をつむっていたが、わずかに胸が上下している。
『生きてるわよ』
絞り出したような柏木さんの声。
『夏眠してるんだわ』
「かみん……っすか?」
俺の問いに。
『そうよ。冬眠の反対、夏の高温を避けるために夏眠するっていう仮説があったの。これで実証されたわ』
続いて、
『ちょ……ちょっと良子さんこれ見て!』
緊迫して強張った麻由の声。
『ぶ……ブラックビーストと同じ五指……』
俺もはっきりと見た。横たわったミューティノイドの折り曲げられた足の先。元は人間だった足の五本指がやけに太く長くなり、代わりに足の裏部分が小さく退化。このあいだキャノピーの上でまじまじとみたブラックビーストの肢のカタチに酷似していた。
『わたしとんでもないことに気付いたかもしれない……』
科学者柏木良子さんが震えていた。何事が起きようともケラケラ笑いこける陽気な柏木さんがそこにはいなかった。
『誰かカメラもって来た?』
『ウチが持ってる』
『実態を記録して帰るわよ。麻衣は全身の写真撮影を頼むわ。麻由は体毛のサンプルを頼むね』
動き出した柏木さんは矢継ぎ早に命令を出し、
『修一くんは。このタマゴみたいな殻の採取と、この窪地に並ぶ物体を数えて』
俺は命じられたまま採取ボックスにカサカサに乾燥した白い殻を掻き集め、窪地の上に出て高台を探す。
都合のいい岩をみつけてその上に登って数えた。一つの窪地に15から20。窪地は5つ。この丸い物体の中に一体のミューティノイドが夏眠すると想定して百体。柏木さんが何を発見したのかは分からないが、見る限りブラックビーストになる前の姿にしか見てとれない。ブラックビーストの知能が高いのは、もとが人間だったから?
激しく首を振る。
あり得ない。ずっとビーストはネコ科の動物が獰猛に変異した猛獣だと思っていた。学校でさえもそう教えている。
またもや麻由の言葉が甦った。適者生存。環境順応。ガーデンの環境に順応した変異体が獣人と化していく。
ミューティノイドがブラックビーストであろうと、そうでなかろうとどちらでもいい。
獣人などはこの地球上には存在しなかった生き物なのだ。それが生まれようとしている。人類から獣人へ移り変わる過程がミューティノイドだとしたら……。
背中に電気ショックが走った。ゼロタイムを起点に世界が変わる。人類が獣人族に牛耳られる時代がやってくる。
急激に足が震えだして、立っていられなくった俺はその場にへたり込んだ。腰がくだけて斜面で両手を突くが、のしかかる体重を支えきれずに、窪地に転がり落ちた。反動で数個の丸い物体を砕け散らして、中身を曝け出してしまった。
はっきりとミューティノイドの全身を目の当たりにした。ウワサでは腐った脳ミソが外にこぼれ落ちたゾンビだと言われ続けてきたミューティノイド。頭の天辺にギザギザの縫い目みたいなヒダを見た。
よく見ると脳ミソなんか飛び出ていない。ヒダの周りに産毛にも似た弱々しい毛髪が生えるだけで灰色の皮膚が剥き出しなので、そう見えるのだ。
全身は灰褐色の長い毛に覆われているが、頭髪が薄い。菌糸からにじみ出た粘液が絡み合ってヌタヌタと光らせている。
そして最もおぞましい姿。指が太く短く変異し、鼻から口にかけて異様に前に突き出した姿。灰褐色の獣と化した生々しい姿。
胃が痙攣して嘔吐が襲ってきた。密閉されたマスクの中で吐くことはできない。
俺は悲鳴を上げてその場を逃げ出した。視界から遠ざかることで込み上げる胃液をなだめすかせるしかない。
耐熱スーツの設定温度を最も低くして冷気を顔に当てることでなんとか耐えることができた。胃の痙攣を抑えるために、何度か深呼吸を繰り返した。冷たい空気がこんなに美味いと思ったことはない。
その時だった。背後に動く物体の気配を感じて振り返った。
「どわぁぁぁあぁぁぁぁぁ!」
せっかく吸い込んだ冷気を全部ぶちまけて、俺は再び襲ってくる恐怖に震えまくった。割れた殻の残骸から立ちあがるミューティノイド。灰褐色の体毛から粘液をダラダラと滴らせてゆっくりと外に出てきた。
「や、やばい。目覚めさせてしまった」
二足歩行で一歩進もうとしてそいつは前に倒れ込んだ。ひどく菌糸を舞い上げて別の殻を木っ端微塵にした。一旦仰向けになり両手両足で宙を掻いたが、ごろりと横に転がると四つ足で歩む。
「もう人ではない……」
確信を得た。まだ灰褐色で黒くはないし、粘液にまみれてはいるが、その容姿は確実に獣だった。
割れた残骸から次々とミューティノイドが這い出してきた。まるでゾンビの墓を暴いたような光景にみたび震えあがった。
「柏木さん、えらいことしちゃった!! ミューティノイドを起こしちまった!」
『ええっ!』
作業を続けていた三人が振り返る。駆け寄る俺の背後へ目を転じた麻衣がさっとスタンガンをリュックから抜き出した。
『戻るわよ!』
柏木さんの命じた声が悲鳴にも似た甲高いトーンに聞こえた。
『麻衣! 相手しなくていい。麻由も早くアストライアーまで走って』
追従して来るミューティノイドはまだ動きが鈍い。
取り出したスタンガンを握って固まる麻衣の腕を引っ張って俺も麻由と柏木さんの後を追いかけた。
「とにかくアストライアーへ逃げ込めば何とかなる。急げ!」
『修一は見たん? ミューティノイドは獣人に変異してんの? ブラックビーストは人間の成れの果てなん?』
「俺には答えが出せない。とにかく今は逃げるのが先だ」
「わたしの懸念が現実になりそうな気配ですわね」
撮影してきた写真から目を離してミウがそう言った。
「じゃあ。ブラックビーストはミューティノイドが変異したものではないんですね」
安堵するのは俺で、柏木さんはもう一度はっきりと否定した。
「それは無いわよ。ほら写真をよく見て。肢の特徴が四つ足動物に近くなって、逆にビーストが二足歩行動物に近づきつつあるからどちらも同じに見えるだけ。DNAから見たってブラックビーストはネコ科の動物。それが獰猛に変異したのよ」
「でも、なんかすごい発見をしたんでしょ? そんなこと口走ってましたよ」
「いやーねー。独り言よ。確信が持てないウチは……な、い、ショ」
なんだろうな、このギャップ。あの凛々しいお人が子供みたいに。
「しかし獣人が誕生しておったとは……驚きでござるな」
「おい、タコ! なに気楽なこと言ってんだ」
「何が言いたいのじゃ、お主?」
ミウがギラリと鋭い視線をスキンヘッドに当てた。
「ミューティノイドがゼロタイム後に立ちあがる因子だとしたら、人類が生き延びる道は無いということです。なにしろガーデンに順応してるんですから」
「では、拙者が行って踏みつけて来ましょうか?」
「あのね。ミューティノイドは全世界で目撃例があるの。あそこのコロニーをつぶしたところでなんの効果も無いわ」
「そうです。ゼロタイムは発生するのです。だから我々の知らない未来へと流れが変わったのです」
「つまり?」
ぴかぴか光ったスキンヘッドが傾けられる。
「オメエはそのでかい体に脳ミソ付いてねえのかよー。ミウが言いたいのは、ゼロタイムが起きないようにすればすべてうまくいくってことだ」
ミウは瞠目の眼差しでイウを見つめ、その美麗な面立ちをうなずかせた。




